三百何年前の今日は赤穂浪士が本所吉良邸に討ち入った日です。
毎年、十二月十四日になると、TVのニュースなどで上記の決まり文句が流れるが、正確には少し違う。江戸時代は陰暦なので、太陽暦とは日にちがずれている。元禄十五年はおおむね西暦一七〇二年と重なるが、陰暦十二月十四日は一七〇三年の一月末。
それはともかく、私が子供の頃は年末になると、映画界が競って各社オールスター忠臣蔵映画を製作。TVでも芝居でも忠臣蔵は大人気だった。
憎たらしい悪役吉良上野介による浅野内匠頭いじめ。堪忍袋の緒を切って殿中で吉良に斬りつける美男の内匠頭。即日切腹、お家断絶。赤穂藩の悲劇、吉良や上杉の暗躍。大石内蔵助の元に集まる義士の命運。苦難の末、吉良邸に討ち入り本懐。時代劇の題材としては、なくてはならない元禄の忠臣蔵。
討ち入りが大評判となり、翌年にはさっそく芝居になっている。曽我物語や太平記の世界に置き換えられ、討ち入りから四十七年目には名作『仮名手本忠臣蔵』が江戸で上演。近代になってからも映画、舞台、講談、小説、TV、あらゆる分野で数々の名作を生みだし、最近はハリウッドでさえ二度も映画化された。
私は水戸黄門や遠山の金さんと同じように忠臣蔵を時代劇として、愛している。
たまに江戸講座などでお話させていただく機会があり、御三家の老公水戸光圀が諸国を漫遊して悪人退治したり、桜吹雪の彫り物のある遊び人が町奉行遠山景元と同一人物であったりするのは話としては面白いが、作り話ですよというと、みなさん、笑って納得される。
ところが、忠臣蔵がフィクションだというと、中に怒り出す人がいるのは困ったものだ。
史実は刃傷と討ち入りだけで、中身はほとんどが作り話。刃傷の原因も未だ不明なのだ。吉良上野介が浅野をいじめた記録はなにひとつないし、内匠頭の有名な辞世さえ、討ち入り以後の創作らしいのに。
最初の事件は元禄十四年三月、朝廷からの使節を接待する役目を担った赤穂藩主浅野内匠頭が殿中でいきなり抜刀して、吉良上野介と梶川与惣兵衛が打ち合わせている場に斬りつける。浅野はその場で梶川に取り押さえられ、殿中での抜刀、高家に対する傷害、式典を台無しにした罪で当然ながら即日切腹、お家断絶。被害者の吉良は周囲に同情され、後に隠居。傷害犯を取り押さえた梶川はその功績により加増。
この時点では忠臣蔵はまだ始まっていない。
城中で起こった刃傷はさほど巷の話題にもならず、癇癪持ちの大名が不祥事で切腹した事件はすぐに忘れられた。そして一年十か月後、だれひとり予想しなかった大騒動が勃発する。
重武装した浪人たちが徒党を組んで、深夜、刃傷事件の被害者吉良の屋敷を襲撃したのだ。もちろん吉良家はまったくの無防備であり、隠居上野介をはじめ、家臣に多数の死者を出している。この大量殺戮が話題となり、絶賛され、美化されたのが忠臣蔵なのだ。芝居になり、戯作になり、講談になり、小説になり、映画になり、TVになって日本中に広まった。まさに忠臣蔵が始まったのは元禄十五年十二月十五日以降なのである。
そもそも討ち入りは仇討ちではない。浅野は彼自身が犯した罪で死んだのであり、吉良が殺したわけではないのだ。では、なにゆえに赤穂浪人たちが吉良家に討ち入り上野介を殺害しなければならなかったのか。
主君の無念を晴らすためである。無念とはなにか。武士は安易に刀を抜いてはならない。いったん抜けば、相手を殺すか自分が死ぬか。覚悟の上で抜いた以上は必ず相手を討つ。抜きながら相手を斬りもせず、刀の背で叩くなんという武士にあるまじき愚劣な剣法はTV時代劇の中だけだ。内匠頭は不覚にも抜いたのに相手を斬れなかった。武人としてこれほど無様なことはない。その恥辱は晴らさねばならぬ。吉良が悪人か善人かはこの際関係ない。
その無念を一年十か月後に家来が晴らした。それが討ち入りであり、断じて仇討ちとはいえない。芝居や小説の作者は討ち入りの快挙を知っているので、江戸中の庶民が吉良を憎んで仇討ちを期待していたり、吉良や上杉や幕府の隠密が赤穂浪士の動きを探っていたりするが、すべて虚構。討ち入りが成功したのは、だれひとりそんなものを予想しなかったからだ。討ち入りが評判になって、初めて物語が生まれる。
もちろん、忠臣蔵は面白い。水戸黄門の諸国漫遊や遠山の金さんの桜吹雪と同じく。物語として完成度が高いからこそ、史実と思い込む人も多いのだ。
汚名まみれの吉良上野介には気の毒だが、討ち入りを題材に素晴らしい作品群が次々と生まれたのは、悲劇の元凶、浅き巧みの無念があったればこそなのである。
付記
本稿は『文人墨客』第参号(一般社団法人文人墨客刊)から許可を得て転載。