教育現場で文学に触れる機会を

 近ごろ、小・中・高校ともに教員のなり手がいない、教師の病休が急増しているというニュースを目にするようになった。2024年11月18日の朝日新聞には「学校内外で暴れる・壊す…10万件超えー小中高生の暴力行為 23年度最多」という見出しの記事が掲載されていた。学級内の「いじめ」問題が顕在化され大きなニュースになり、生徒の自殺者も出た10数年前、タレント教育評論家などを中心に「いじめは教員の無能・無力のせい」というようなキャンペーンがマスコミをにぎわし、教員たたきの風が吹き荒れた。かつて、教師が生徒の暴言や暴力・非行行為を注意する際に少しでも、教師の手が生徒の体に触れると、その生徒たちが「教師の暴力です。訴えます!」と大声を出すようになった。ゆえに、現場の教師は生徒を注意するときには両手を後ろに組んだり、離れたところから注意せざるを得ないようになった。モンスター・ペアレントという言葉も生まれ、難しい生徒のいるような学校に進んで赴任するような気骨のある教師は激減した。
 マスコミにはくだんの教育評論家が「今は優秀な学生は教職を選びたがりません。みんな企業に行きます」と喧伝し、「優秀な学生」はあたかも教師にならないような風潮まで大学内にはあった。低賃金・長時間労働・生徒の安全に対する過剰な責務・限られた権限の中での指導、そんな教育現場に課せられた過酷な競争の「受験指導」。そこに、追い打ちをかけるような国語教育の受難が加わる。この5月に拙著『文学は教育を変えられるか』の一節がい日本ペンクラブの電子文藝館に上がったのをきっかけに教え子の中・高の教師が十数名集まり、そこは教育現場の状況報告会となった。
 新指導要領になって、3年が経つ。国語は多くの学校が「現代の国語」「論理国語」の組み合わせとなり、グラフや法令の読み取り、説明文や評論文の読解指導ばかりを教える学校も多い。かつての現代文の授業は、いまや膨大なデータを前にいかに短時間で要求を満たせるかの情報処理能力の育成の場と化してしまっている。必修の「言語文化」でも古典の導入に時間を占め、小説を読むことができない。このままでは高校3年間の国語の授業では近現代文学作品を取り上げないまま過ぎてゆくという事態にもなりそうだ。
 小・中でも言葉のクイズの様な国語の指導が増え、自他の心の機微に目を向け、胸を震わせるような作品をじっくり読ませる機会が減っている。これでは、対話を軽視し、人に危害を加えることに躊躇なくゲーム感覚で犯罪に手を染める若者がもっと増えるのではと危惧するのは杞憂であろうか。