詩集『「ら」』(抄)

 「ら」

ハ長調「ら」の音

どんな言葉をはなす国でも

おなじ音程の産声をあげて

人は泣きながら

生まれてくるという

疑うことも 媚びることも

恥じらうことさえ知らずに

かがやくほどの裸身をさらして

まっ白な朝

私もそうして生まれた

その身を幾重もの衣で

くるまれて 飾られて

かさね着されるごとに

自分が見えなくなってはきたが

冬の緊張がゆるんだ土を

みずからの穂先で割って

ひそと 生まれる竹は

脱ぎすてた皮の数だけ節をつなぎ

思うがまま宙をめざす

さわさわと空を掃き

陽光のこぼれ降る青竹の林

縦縞のほどよい隔たりをぬって

しがらみをほどくような

ほら ハ長調「ら」の音がきこえてくる

み ち

いのちの輪をかさねながら

天へとのびる垂直の風景

横切るひとすじの道

わたしはひとり 西へ向かう

降りしきる木洩れ陽

すくうように走る車

飛び散るひかりの明暗が

いらだちの波を緊張の凪にかえる

自由すきにすればいい」

吐きだされたことばの陰に

隠れた やわらかな束縛

感情のたわみを緩めて見る車内鏡ルームミラー

通りぬけてきた並木が映る

指をそろえ祈りのかたちに

あわせた掌の奥 あなたとの街

神の橋をわたれば道はわかれる

空にもとどく九十九折の坂と

いにしえの時をうけ継ぐ

遺産への道

わたしは迷わずハンドルをきる

夕陽に背いた方角へと

忘れもの とりに戻るふりをして

みずうみ

ことしの椿は

ひだり眼だけに咲いた

もう 右の視力は

花の紅をとらえられない

「潤んだ瞳がきれいだよ」

痛いほどに凝視みつめるしぐさが

いたずらにキザなことばを誘う

寺の名をもつ湖のほとり

夢の重みでとばなかった

しゃぼん玉の話をしながら

あなたとの時間をほどいていく

若さから解き放たれた季節

右の視野を占める

湖水をまとった山の姿

見なれた稜線の

輪郭がうまくなぞれない

けれど

ひだり側にひろがる青空のなか

色あせた病葉ふたつ

浮かんでいるのがはっきり見える

その身を波にゆだねて

つかず 離れず

決してかさなることなく

花さがし行

ひだり手の親指のかたちして

海につき出た半島のさき

プラットホームの案内板の

つぎの駅は「シベリア」と標されたまま

もう 旅人をはこぶことのない

錆びた鉄路に

足もとから向きをかえた

昼さがりの影が背をのばす

幾重にもかさねた匠の技が

咲かせた朱漆の花のブローチ

この胸もとに摘みとれなかった

あの日の若さ

いま 心のこりの花をさがして

ただひとりたずねて来ている

にぎわいを仕舞いおえた

やわらかな陽のふる 朝市の通り

伝統の息づかいが聞こえそうな

凛とした店の商い棚をかざって

匂うように咲き競う 蒔絵かんざし

漆黒に紅 螺鈿の花心を包んでひらく

一輪の椿に魅かれながらも

戸惑うほどに艶やかな その彩り

あれこれと想いをめぐらし

あそびためらう指の背に

「贈りものですか」と問う人の声

― たぐりよせた記憶の襞が

  ほどけないように と

  挿したくて ―

カナリア

矢車がからまわりする空から

鈴の音がきこえてくる

幾重もの波となって

縁側のふちに寄せてきている

「ローラーカナリアの声だな」

新聞から眼をはなして父がつぶやく

あの日 先頭にカナリアはいた

空にいちばん近い頂きをもつ山のふもと

足せば十になる数の名の村

迷彩服 重装備の男たちを従え

黄色をまとっただけの身を

鳥かごの止まり木に

針金のような脚でささえて

開け放した窓から見える風景に

寒々とした記憶を滲ませながら

なおも歌声は潤いをもって

部屋の中までしみてきている

母は車椅子の向きをかえ耳をすます

定年で退職をしたばかりの夫が言う

「カナリアを飼おうか」

わたしは夕餉の献立を考えている

予定をもたない家族の

おだやかな明日のために

空 師

人との関わりは

ことばの数だけ

傷ついたり 傷つけたり

記憶のなかの斧の響きが

胃袋にこだまして

喉のおくから

樹の匂いがもどってくる

樵の息子はことばを捨てた

緊張の網目をほどきながら

宙への道に命をはこぶ

湿った沈黙の視野に

語りかける世界はない

「木がどちらに倒れてもよいなら

引き受けて伐る」

そういう樵はほかにもいた

しかし 空師そらし

一本の立木も犠牲にすることなく

高木を伐る

太さ九尺 年輪を重ねた肌に

麻の胴縄で身を添わす

生命のすべてを賭け

大木に挑む

その先には 空しかない

寡黙な

透きとおった世界しかない

ドルフィン

ステージは冴えわたる海

突然うち寄せる拍手の波

波音がひいて

奏者の指のあいだにまで満ちる静寂

ピアニッシモの吐息にめざめて

ドルフィンが泳ぎはじめる

三世紀前

沈黙の世界へうまれでた

ストラディバリウス「ドルフィ

人魚姫の

緋色のドレスに秘めた想いを

いのちの音にのせて奏でる

引力をほどいた呼吸が描く

円形の一瞬の孤独

のびやかなシルエットは

時間の渦を貫いてゆく

光沢を放ってしずむ響き

不意に

研ぎすまされた叫びが宙を切り裂く

四次元の空間は

透きとおったうねりの中

人魚姫のしなやかな髪のながれのまま

ドルフィンは

ひかりの泡を曳いて泳ぎつづける

過去と未来のすきまの

海に

      ※一七一四年製のヴァイオリン。光沢の美しいニスと華麗な形が

       優美なイルカのようだということから名付けられた。

源五郎

ひとがもつどんな大きな地球儀にも

針の穴ほどの点にすら記されない水たまり

これがおいらの宇宙

標高一〇九九m 周囲二三〇m 水深八m

おいらの仲間が生きているのは

この世でたった一ヶ所 夜叉ヶ池しかない

流れこむ谷も 流れおちる滝もない

水が絶えたことなく溢れた過去もない

龍が棲むという謎の池とかさねて

ひとびとはおいらたちを不思議がる

そして名前もつけかえた

池の名を冠して「ヤシャゲンゴロウ」

こがね色にかがやく翅

肉食のエネルギ―で飛翔移動する知恵

その技も術も失くしたわけではない

だが ここよりほかの地へ

おいらの祖先が飛んだ記録は

いまだかつて ない

食物連鎖の頂点にたっているとは

思ったこともないが

ひもじさを感じた記憶がないのは確かだ

危険をはらんだまぶしさは苦手で

山の頂きが夕陽を呑みこむころ

おいらたちは動きはじめる

水面が夜空をきりとって

月も 星も 雲も うかべる

ひとがロケットにのって月をめざした日

おいらも池のなかの月まで泳いでいった

体長一六ミリ いのちの重さ二グラム

身の丈にあった欲と夢をおいかける

ミクロコスモスの住人 おいら源五郎            

※夜叉ヶ池…岐阜県と福井県の県境にある池

野 生

空腹の両眼を満たす獲物の群れ

狙いをさだめ 発進するハンター

後ろからサバンナの風が追いかける

野生のおきてに情けはない 倫理もない

母親としての本能だけで

チーターはトムソンガゼルの仔を仕留めた

木陰に残した子供たちも

五日前からなにも口にしてはいない

この狩りは確実でなければならなかった

チーターの母に

ガゼルの親の悼みを思うゆとりなど

なかったにちがいない

いま ひとは

わが子の痛みすらわかろうとせず

理性も母性さえも見失ったまま

熱いなみだを知らない瞳は乾ききって

心のかたちした臓器が

冷たい血を送りだすばかり

バオバブの木陰で

アフリカの子供は

ゾウを知らない

キリンもライオンも

絵に描けない

チーターもシマウマも

見たことがないから

広いサバンナは

ヌーの群れもサイの親子も

トムソンガゼルもハイエナも

野生のままで生きてゆける

動物保護区

ジャッカルを知らなくても

カバを識るすべがなくても

アフリカの子供は

褐色の大地に湧き出る

泉のような瞳に笑みをたたえて

バオバブの木の下で育つことに

露ほどの疑いももたず

おとなたちの腕の温もりを

巻毛の芯から

はだしの足の爪先まで

信じきってくらしている

花縛り

梅がこぼれ

さくら舞う季節がすぎても

落ちない椿がたった一輪

ふかい緑葉に

埋火のような紅を点している

咲いたまま散る潔さ

いのち果てても

なお樹下を彩る花のけなげさ

縁起がわるいと忌む母に

背いて植えた乙女椿

枝から葉先へ 葉から花弁へ

蜘蛛が糸をかけている

光の粒をまとった糸は

幾重にもかさなり まじわり

可憐な花をさらに縛りあげて

縁側の車椅子から

銀の糸が見えるだろうか

しがらみを外したその身に

落花のときを逸した乙女の

よもやの姿が思いつくだろうか

母と娘は きょうも

花々の蕾をたしかめながら

季のうつろう庭をながめている

おそらく明日もあさっても

絆といううつくしすぎる糸に結ばれたまま

老人と秋

なかば刈り取りを終えた田が

山のふもとまでひろがる村の一軒家

もがりの内と外を ときおり往き来する

ひとりの老人の姿がみえる

豪雨のあとの畦道に

空を切りとって映す楕円のくぼみ

いずこから泳ぎ迷ったのか

水面の鰯雲とたわむれる小鮒が数尾

老人は手桶に水をたっぷり汲んでは

水溜りに運んでいたのだ

浮かんだ雲を散らさぬよう

手加減しながらゆっくりと桶を傾ける

青を乱して空を跳ねまわる小鮒たち

それを確かめると

老人はにこやかに庭をよこぎって往く

遠くからコンバインの音が聞こえてくる

しのびやかに過ぎてゆく宵待ちの風景は

山の端に朱鷺色の紅までさして 粧って

ばあさんの家出

右手にじいさんの位牌

風呂敷に包んだ裁縫箱 

傘と鍋を背負い

なぜか左腕に枕

夜まで抱えこんで

ばあさんがまた家を出

白菜や大根をまばらに残した畑の道

いつもよりしっかりとした足取りで

ひとり言をつぶやきながら歩いて行く

ときおり嫁の名前を声高におりまぜながら

ゆくての空をじゃんけんのチョキに刻んで

花梨の枝がグーのかたちの実をつけている

ふりむけば屋敷林のしずむ緑に

朱を点す子守柿のみっつ四つ

先祖代々の田畑をひとめぐりすると

ばあさんはふたたび家路にむかう

ゆるやかな歩調に孫たちの名をかさね

背の伸びきった影法師のお供をつれて        

※高橋まゆみ創作人形「頑固ばーさんの家出」より

ふたつの影

紅の袱紗に

金の茶筅をくるんだような

やぶ椿の花を咲かせて

岩のくぼみから温泉が湧き出ている

ゆったりと微温湯ぬるゆに抱かれ

わたしは旅の疲れをほどく

たちこめる湯気を乱し

ゆらぐ人影 ふたつ

かけ湯の音にかさね

飛び散る ひとりの声

耳の迷路でとまどう声は

おくれながらも

意味をつれた言葉となって

ほの暗い湯屋に閃く

娘をきびしく育てた日々のある

母親か

嫁につらくあたった過去をもつ

姑なのか

声の命ずるまま

祈るすがたの肢体をうごかし

ゆっくりと向きをかえる

無言の影 ひとつ

刺されば痛そうな月が

紺青の峰にかかる秘湯の宿に

息をひそめて

鬼を

仏を

愛を

見ている

天上の青

きりりとねじった蕾を

いつのまにかほどいて

青をひろげる朝顔

心のかたちした葉先が

おとこの眸にゆれる

「しずかな夏だ」

つぶやきながらおとこは

記憶の襞をたたむように

まぶたをとじた

空と海

わずかな色の差で

水平線をたしかめる

ただひとつの敵影も

見逃すわけにはいかない

双眼鏡を手に

おとこは艦橋にっていた

視界を満たすのは

緊張の青 あお あお

明日はない

今だけを生きて

空に海に

散っていった者たち

ヘブンリィー・ブルー

『天上の青』と和名をもつ花は

咲ききった昨日いちにちを

しっかりと握りしめたまま

今日の庭を紅に彩っている

天使のはしご

雨雲のきれ間から

天と地をむすんで光がおりてきている

そこだけ ひときわ鮮やかな彼岸花が

あぜ道を滴ってこぼれていく

フロントガラスの隅に

貼りついたままのぬれ落ち葉 ひとつ

カーラジオから流れる

昭和の歌を聴いていた助手席の父が

とつぜん思い出したように口をひらく

「五島・福江島沖を航行中

東方の上空に

妖しい火柱がたつのを見たんだ」 と

ヒロシマの朝が裂けた日から三日後

船渠ドック入りしていた駆逐艦が

ナガサキの港を離れて間もない頃という

父の記憶のおわりを占めている

あの年の夏の風景が

ワイパーの残した

扇形にひろがるこの視界と

どのように重なったのか

天使のはしご かわいい名をもつ光線は

さらに幾すじもおりてきて

つぎつぎと棚田を照らしだしている

稔りの波を黄金色に輝かせながら

未完の風景

玉葱を二十個ほど買ってきてほしい

出がけに父に頼まれた

サラダならスライスして二分の一

まるごとひとつで卵とじができる

カレーだと二個は必要だが

老人会でのゲームの景品か

ボランティアの食材用か

三個ずつネットにくるまれた大玉

七袋を買い物かごに入れる

男体が西空を支えるこの地は

伊吹眺望のぞ

ふるさとに似ている

ともに暮らしはじめて四度の秋   

稲穂の波に風が見えるニュータウン

玄関わきの軒の下

いつのまにか

竹竿に吊るされて並んだ玉葱

八十年を過ごしたふるさとの風景に

足りなかったもの    

※男体山(栃木県)・伊吹山(岐阜県)

伊吹山のみえる町

冬 ふるさとの朝は西から明ける

町のどこからも見える伊吹の嶺が

いちにちの目覚めの視線をまっさきにとらえ

鏡のような山肌からひかりを反してくるのだ

ゆっくりと あたらしい色をかさねながら

町は一枚の絵となって今日を描きはじめる

少年がひとり 前の日の出来事の束をかかえ

白い息で輪郭をひくように路地を駆けていた

私は町をはなれ 言葉を紡いでいる

少年は町に残って風景を変えた絵師

盲腸線の異名をもつ美濃赤坂線は無人駅

中学校の校庭と地続きだったお勝山へは

「家康軍布陣の場所」と案内板が指をさす

太古の海のねむりから醒めた化石たちは

乾いた展示館のなかで黙りこくったまま

すっかり塗り替えられたふるさとの画布

新幹線を徐行させ高速道路を封鎖した雪

相かわらず伊吹山は銀色のおもを町に向け

記憶の額縁にその雄姿をおさめている

ある日の午後

「わたし韓国人なの でも両親は日本語を話せるわ

どういうことか解るでしょ」

それきり彼女は 卒業するまで口を利かなかったという

国境のない音の世界で

学ぶ楽器は同じなのに 国籍がこころを閉ざす

留学して初めて声をかけられた人だったと

テレビ画面のなかのバイオリニストは目を伏せる

見なれた胸の名札をはずし

「これからは母国名で呼んでほしい

ぼくの両親は日本語が話せないのだから」

あの日 教室に響いた級友クラスメートの声

私のなかにおぼろげな色で沈んでいた想い出が

輪郭をもって浮かんでくる

コーヒーカップのミルクは不安定な渦を描く

過去の事実を歴史の襞のなかに綴じこんでも

記憶は遺伝子を紡いで明日を織りあげていく

罪は認めないかぎり償えないと

凍りついた心は解けそうになかった

愛情だったのか 同情だったのか

あいまいな感情でとおりすぎてきた日々が

苦味をともなって甦ってくる

文字もさまざまな文化も

大陸から半島を経て伝えられたこの島国の

ほこり と おごり

似て非なることばの真の意味を

あらためて考えてみている午後

窓辺のベンジャミンの鉢植えが

ねじれたまま影を長くしている

尻尾のない蜥蜴

真昼のアスファルトに

干からびた蜥蜴の尻尾

切りはなされた瞬間の

渦を描き のたうつ様が目にうかぶ

生きのびるためとはいえ

己が身を絶ち 逃れた蜥蜴も

再生するまでの日々は

さぞや辛かったであろう

俺も

企業に飼われた蜥蜴の群れの一匹

「リストラ」という命のもと

多くの同僚 部下たちのくびきりを

なさけ容赦なくしてきたのだ

ようやく迎えた定年のとき

退職延期 顧問でも と

ぶきみな笑みをうかべ

飼主が慰留をほのめかす

ふりむいた首さきの視野のなか

蘇っているはずの尻尾が見えない

くたびれた胴体だけの無様な格好

俺は

迷わず野に放たれる自由をえらんだ

蜥蜴であるためのさいごの誇り

均衡バランスのとれない躰にもそのうち慣れる

だれもがいつかは独りになるのだ

ときおり

尻尾の痕が思い出したように動いて

生えていた寸法サイズに疼く