幽霊船

   A 舵手が死ぬるまで

 沈んだのは幸華丸といふ大きな帆船である。

 遠いみさきが、乱暴な速さで、此方からぐり寄せるやうに、だんだん近づいて来る。やがて、その岬の鼻に、青いペンキ塗の小舎のあるのが船から分る近さになつた。岬の鼻は、浪をかぶりつづけて、風邪をひきさうに見えた。そして、その浪が砕け、飛び上る合間合間に、青いペンキ塗の小舎が、脊伸びしたり、縮んだりして見えた。

 俄の嵐に逃げおくれた船は悲しい。でも、あの岬の鼻をまはれば波止場があるのだ。さういふ希望で、目茶々々に走つて来たのだつたが??二本檣にほんマストの幸華丸といふ帆船が、思はず暗礁に乗上げたのは、日暮れ方の事であつた。

 その船の舵手だしゅは、暗礁だ、と思つた刹那に、ギリリと鳴つた船の龍骨と、舵手自身の肋骨とがきしみ合つたやうに感じた。

 幸華丸は、夜になつて沈んだ。

ほかの船員は、みな恐らく溺死したであらう。ただ、舵手ひとり、深夜、岬の鼻に打上げられた。ドシンと打上げられた拍子に、又引戻さうとする浪に抵抗して、彼は岩角にしがみ付いた、引剥がれた自分の生爪を、潮と一緒に呑みながら、彼は浪打ぎはから遥かの沖に転がり落ちた。だが、二度目に打上げられた時は、浪の暴力の届かぬ小舎の板壁に、叩き付けられて残つたのだつた。

 そこで半ば無意識ながら、救ひを求める異様な力が、彼をひよろひよろと突立ち上らせたと思へば好い。小舎の窓から、しづかにおだやかな灯火が洩れて居る。爪が剥がれて、血が混々と湧き出る指が、その窓ぎはの枠板に取縋つて真紅に染めた。それからシャツ一枚の舵手は、窓ガラスに身をくつ付けるやうにして、室内を覗いたのである。

 実にその時、彼は完全な生命を取戻した。彼が眺めた室内の光景が、力強い色彩を以て彼の心臓に迫つたからである。一対の男女が作る室内の光景は、一瞬ごとに、情熱と力学的のリズムを強調して行く。舵手の心臓に、そのリズムの一打ち一打ちが響いて、彼の一旦取戻された生命は却つて混沌となり、次第に弱り、細つて行く……

 救ひを叫んで、室内の男女の恍惚の力をせき止めようか? 今、死なうとする舵手は彼が最後に此世に見残さうとする夢を惜しまなければならなかつた。此光景の進行を邪魔してまで、彼自身の救ひを叫ぶ必要があるのを漠然と感じることは感じた。けれども、臨終の彼にはその力がなかつた。彼は、光景を最後まで見届けて、室内の見知らぬ男女を祝福する良い力が只一つ残つて居るばかりだつた。

 それから又突然、彼は、最後の打撃を、室内の光景から受けた。同時に、背後から来た浪のしぶきを浴びながら地上に倒れてしまつた。それ故、ころころと浪打ぎはまで転ぶと、忽ち浪が無数の拳を曲げながら打つて掛る。彼の死体は、苦もなく元の海へさらはれ去つたのである。

   B 女が喪心するまで

 燈台守の官舎は、風が吹く度びにぐらぐらとゆれた。ひどい浪の音である。浪は此小さな小舎を掻払つて行きたいのであらう。そんな事は然し燈台守夫婦に心配を起させはしない。

 と云つて、浪が小舎のペンキ塗を剥がさうと剥がすまいと、おかみの土木課が性急に建てた小舎の美観に大した得失もあるまいと云ふものだ。それだのに、若い燈台守夫婦は憂鬱な顔をして居る。浮世はなれた一つ家の住ゐであるのに、何がいけないのか知ら? で、此の小さな小舎の中のすべてが明るい。彼らの顔だけが暗いのだ。三方にガラス窓があつて今日は嵐の日だから、雨と浪とに濡れた窓を通ほして、水つぽい明りが畳の上に落ちて居る。貧乏が家うちを一層明るくした、といふのはカアテンの掛け替へがなくて、窓の光線をさへぎる物がない。三方のカアテンを、昨日一度に洗濯したのは、何といつても若い妻の不心得と云はなければならない。

 縁なし畳の上に、粗末な寝台がおいてある。男は、物うげに、その上に寝ころんで居る。枕の上のところに当つて、大きなガラス窓が、始終、浪のしぶきを受けて居た。

 女は、寝台の裾にキチンと坐つて、うつむいて居た。寝そべつた男が、足を伸して、その足のさきを少し寝台のふちから滑べり落とすと、あしが丁度女の肩にあたるのである。彼は、失礼な! 蹠でトン、トンと軽く女の肩を打つ。仰向けに寝そべつた枕が馬鹿に高い。それゆゑ、持上つた顔から射る光線は、斜面をなして腹を伝ひ、おのれの足の先きを見るのがつまり女の悲しさうな顔を睨むことになるのだつた。

 「ね、酒がないと淋しい。酒でもなけれや、何が楽しみなんだ? 何故、昨日、波止場へ行かなかつたのだ?」

女は黙つて居る。去年チブスで死んだ許婚いひなづけの人の事を想出して彼に反抗して居る。

 「煩い!」

 一瞬、浪のしぶきが窓を覗いたのを、男は叱るやうに叫んで、その窓を罵つた。それだから、彼は頭をねぢらせ、身を少し起したのである。

 そのついでに、彼は起き上つた。それから、荒々しく畳の上を歩いて行つて、次の部屋に消えてしまつた。

 「もう、どのびんからだつたかね?」

 次の部屋、それは狭い板敷の台所で、そこから若い燈台守は声を掛けた。台所の棚に色々のハイカラな洋酒の瓶が並べてある。みんな空なのは、よく分つて居るのだ。それだのに、わざわざ男がそんな事を云ふのは、彼女への面当つらあてであつた。「島の生活はさぞお淋しいでせう」さういふハガキと一緒に、時々東京から、一度に数本の洋酒を送つて来る女がある。「あなたのお好きなカクテルでもおこしらへ下さいまし。」などと、いつかのハガキに書いてあつたつけ。男は澤山な意地悪の方法を持つものではない。彼はいつも、東京の女が送つて来る酒を材料にして、妻を不愉快がらせるのであつた。

 戸外は一層ひどく荒れて来た。窓ガラスに白く濛々と雨が煙り、浪の音がどうどうと連続する。それにもかかわらず、次の間の、棚の上でカチ合ふ瓶の音は、女の胸を噛むやうに、鋭く聴えた。男は、念入りに、空の瓶を一本々々調べて見て居るのだらう。一滴の酒でも、どれかの瓶に残つて居たら、男はどんなに誇張した歓びを表して見せるか判らない。

 彼女は、うす暗い棚の上で都の灯を恋しがつてゐる酒瓶を想つた。美しい酒を失つて、茶いろの影を沈澱させてゐる一列の瓶、そしてそれらの瓶を一撫でにして滑る、薄つぺらな光線を想つた。それらのその酒を送つて来る東京の女のことを想つた。男の問はず語りだが、その女は、どうやら人妻で、彼が都会を捨てて、わざわざへんぴな海べの燈台守として赴任して来るやうになつたのも、元はといへば、その人妻との事件が混乱した為めであるらしい。

 男は、やがて苦がり切つた顔をして、こちらの部屋に帰つて来た。彼は酒の代りに挨を吸つた気がしたのに違ひない。そのまま、寝台の上に戻つて、又しても物憂げに寝そべつてしまつて、

 「おい、棚の上が挨だらけだぞ」と、不機嫌に云つた。

 日暮れ方である。寝台に向つて、左側の窓の下に、女はささやかな食卓をおいた。

 彼女は、さつきからの男の不機嫌が、腹立たしくてならないのである。さうして、彼が東京の女のことで意地悪すればこちらが嫉妬でも起すかと思ふらしい心根が、男にあるまじく醜いものに感じられた。

 嫉妬なら、彼こそ起すべきだ。何故なら、彼女は少しも彼を愛してなんか居ないのだから──それは半年前には愛した。けれども今は、決して! いや、彼を愛して居るとは、想像しただけでも、浅ましい。

 けれども、喧嘩をするのは不愉快で、そして苛々いらいらするばかりだ。彼女は、たとひ愛しない良人でも、一緒に居るのなら落ちついて、平和に居りたかつた。なるべく神経を使はないやうに。そこで、彼女は、食卓を置くと直ぐ、寝台の枕もとに立ち、男の顔を覗き込むやうにしながら、

 「ね、機嫌なほして、御飯召し上らない? ……え?」

 「…………」

 「ね、妾……」

 云ひかけて、彼女はアッと叫んだ。窓ガラスを、浪のしぶきが激しく打つたのである。それゆゑ耳もとで、窓ガラスが、ガンと鳴つたのだつた。

 「ひどい荒れね。」

 涙ぐんだ眼を、直ぐそばの窓ガラスに外らして、同じやうに涙ぐんだ窓と出会つた。窓は、雨と浪のしぶきにスッカリ塗られ、外の景色を拒んで居る。だから、彼女は眼が痛かつた。無意識に手を伸し、掌を窓にあてると、ぬるぬるとした冷めたさが、涙を冷やすやうに思はれる。一層かなしくなつて、しつかり掌をガラスに当て、無暗むやみにその面を拭つた。すると、少しばかり、外の景色が覗かれる。

 「あら、船よ。」

 彼女は思はず叫んだ。雨にけぶりながら、たくましく荒れて居る暮れ方の海の、七八町の沖合に、大きな黒塗の帆船が一艘、ゆらゆらと、妊婦のやうにもだえて居る。

 彼女は急いで窓をあけた。手を外につき出すと、雨と風とが、痒い粉をその白い腕に叩き付けた。曲げた手のひらで、ガラス戸の外面を手早く拭ふのを、

 「おい、雨が入るぢやないか。」と、男が荒々しく叱つた。

 ピシャリ、彼女は窓を締めた。

 「酒を買つて来い。」

 男は眼をつぶつたまま云つた。

 「買つて?」

 「さうだよ。酒がないと淋しい。」

 「こんなにしけて居るのに!」

 「厭なのか。」

 「……厭ぢやないけど。」

 今更らのやうに、雨と風と浪の音が、彼女の身の内で物狂ほしく混乱した。この暴風雨に! 出ようたつて、傘も何もさされたものぢやない。それに、これは岬の鼻の一軒家である。波止場までは、五六町もある。僅かの距離みちのりながら、峠めいた坂道なのだ。浪の音を足もとに聴きながら、松脂まつやにの香のたかい坂道を、雨と風に追はれて彼女は行かねばならぬのだらうか? 雨傘を斜めに構へ、海から駈け上る風と闘ひながら、ズブ濡れになつて、この荒れの日を酒買ひに行かねばならぬのだらうか? 行かなければ、叱られる。彼女は躊躇した。

 腕が冷めたい。彼女は袖をまくつて、さつき雨に打たれたその腕を、片方の手で拭つた。

 「行つて來ますわね。」

 それで、食卓の前まで戻つて来た。そこの窓も濡れては居るが、寝台の上の窓ほど雨や浪に汚されては居ない。晴れた日は西日が永くあたる窓である。うすく曇つたガラスを通して、沖の燈台の火が一点、もうともつて居る! ぼんやりその火を見詰めながら、彼女は裾をからげ、足袋を脱いだ。覚悟して出掛ける仕度である。早くしなければ、坂の中途でとつぷり日も暮れるであらう。どれほど、雨に濡れても、風で傘がやぶれても構はない。邪けんな仕打ちをするのなら、もうどうせ破れかぶれで、その邪けんに責め虐げられてやらう。責め虐げられた哀れな姿を、男の前に投出して、彼の良心をいぢめ返へすのだ! 彼女は雨傘をさげて土間に立つた。

 急に、とてもこらへては居れない程腹が立つて來た。思ひ切つて、氣狂ひの真似でもして、怒鳴り散らしてやらうかと考へる。身体全体があつくなつて、彼女は土間に立つたまま猛然と、寝台の方を振返つた。だが、その時、男は寝台から降りて、窓のそばに立つて居た。ガラス戸に顔をくつ付けるやうにしながら、何か、一心に海の方を眺めて居る。

 「貴郎あなた!」

 男には聴えぬらしい。海の方に気を取られて、石のやうに突立つて居る。

 彼女は牝獅子のやうに睨み付けながら、

 「貴郎!」

 やつと男が振返つた。その、こちらを向いた頭のうしろのガラス戸に、サッと白い浪が反撥した。それで、彼の上半身が、黒いシルエットになつて浮いて見える。

 「もう妾は、帰つて來ませんから!」

 鋭く云ふと、彼女の手から、まだ開かぬ雨傘が滑り落ちた。両手で袂を掴んで顔に押しあてながら、もう仕方がない、香水吹きのゴムを押へたのである、涙が止め度なしに出る。

 「好いよ、好いよ。酒なんか、要らない。」

 男はそばに寄つて来て、上りあがりがまちから身をこごめ、片手で彼女の襟を掴み、片手で彼女の帯を掴まへた。それから、彼女を土間から引上げるやうな力の入れ方を、さうした両手に加へたのである。自然、彼女の両足は、身体と一緒に持上る。持上りながら、雨足が上り框のきはに引掛り、下駄がはづれて、下駄だけ土間に落ちる。男が手を離すと、女は畳の上にバサリと落ちる。一本の肥つた塩鮭のやうに無反撥に落ちたのである。

 「おい、もう暗いよ。ランプだ、ランプだ。」と男は怒つたやうに云つた。

 「おい、いつまで泣いてるんだ。早くランプを点して、御飯にしないか!」

 彼女はそれでも、いつまでも畳の上に落とされたまま、俯向けになりながら顔を袂で埋めて居た。泣きながら、ごうごうどう、と絶え間もなしに荒れ狂ふ浪の音を聴いて居た。そして泣きながら、うつとりと、その浪のねに乗せられて、心は遠い所に飛んでゆく。許して下さい、と心の底で手を合はす。祈るのだ。祈るのが馬鹿らしいと感じながら、祈ると涙がせめて快くなるのだ。彼女は死んだ許婚いひなづけのことを考へて居たのだつた。

 今、良人おっとに虐められるのは、死んだ許婚の罰かも知れない。彼女はさう考へる方が救はれるから、さう考へる。馬鹿らしい事を考へなければ救はれないのだから、馬鹿らしい事を考へる。半年まへに、今の良人おっとと結婚しなければ好かつたのだ! こんな男に身を任せてしまつて、全く死んだあの人に済まないといふ気もするではないか。

 マッチを擦る音がする。良人が自らランプに火を点けるのだ。そのまま勝手にさせておく事として、泣きながら彼女は思考の舌に甘い考へを乗せる。

 どうどうと浪が鳴る。浪が小舎を包んで居るのだ。さう考へると浪のねは半透明な酒を思はせた。半年前の春、良人は東京から贈られた洋酒を調合して、甘い酒を拵へた。半透明な酒の底に、赤いとつぶの桜実を沈ませ、さて、彼はコップを窓にかざして、うつとりと眺めた。春の日は海に反射し、窓を通り、酒をくぐつて一点の桜実の上に凝つて紅く爛々と燃えた。男は、コップの底に東京の女の心臓を眺めたのであらう。

 ふと、実に突然、彼女は袂で押へ付けた眼の底に溢れた涙の上に、不思議な幻影を見た。大きな帆船の幻影である。

船は、涙をつて、やがてまぼろしの海の上に、荒れ狂ふ怒濤の上に、おぼろに濡れたガラス戸越しに眺めるやうに、夢のやうに??いや、まぼろしである、船の姿は哀れな妊婦の断末魔のやうに、ゆつくりと、右に揺れ、左に傾いて居る。彼女のぢた瞼の中で、瞳が動くと意識するにつれて、船は沈まうとしたり、浮き上つたりした。そして彼女は、遠い悲嘆を聴くやうな気がした。

 時間はどんな状態の下にでも進行するのだ。彼女が涙を拭き拭き、男と差し向ひの食卓に着いた時には、嵐の日はスッカリ暮れて居た。

 その間にも、浪のしぶきは絶えずガラス戸を打ち、その度びに、窓は一瞬、しよつぱい顔をする。でも、すぐそのあとを、急ぎ足の雨がせつけて、塩気を窓から洗ひ去る。

 ふと、男は箸をおいた。

 「あ、さうだつけ。」

 彼は俄に想ひ出したのであらう、あわただしく立上つて、走るやうに寝台の向ふの窓の所に行つた。

 「船?」

 と、彼女も反射的に立上つて、男のあとを追つて來た。それで、二人は殆ど同時に窓の所に到着したと云つても好い。 然し、窓は水玉だらけで、暗い外景は見えない。どうしても窓を開けなければならない。それで、ちよつと開けて見る、と、顔中へ眞黒な風と雨とがしがみ付いて来た。そして、今、襲ひ掛るであらう浪の気配が、眼を闇に馴らすだけの暇を與へて呉れなかつた。

 「ほら、浪だ!」

 窓を締めるや否、男はいきなり女を引寄せた。浪は、二人の接吻を目掛けて来ながら、締つた窓に妨げられ、ガラス戸の向うで白く大胆に砕け散つた。

 まだ夜は早い。さつき日が暮れたばかりなのに、若い燈台守はひとり黙々として寝台の上に寝そべり、いつのまにか眠つてしまつた。ランプの明りが、彼のやや髯の伸びた顔の上に、薄情な陰影を置いて居る。

 彼女はひとり取残されて眠らないのではない。彼女は眠るのを拒んだのだ。じつと嵐の音に耳を澄ましながら、いつまでも死んだ許婚いひなづけの男のことを思つて居りたかつた。あんなに優しかつた男のことを! こんな良人を持つたのが、つくづく済まないやうにも思はれるのだ。彼女は寝台のわきに、自分の夜具をのべて、寝るでもなく、坐つたまま、良人の寝顔を眺めた。すると、良人が、実に、今直ぐ躍り掛つて行つて、顔中を掻きむしり、眼玉をえぐり出してやつたつて気の済まぬ程、不快な動物に思はれた。

 「こんな男を、誰が愛するものか!」

 さうは激しく罵るものの、罵つたつてひそかな心の底でやつて見る反抗に過ぎない。どうならうものでもない。考へると泣き出したくさへなつた。だから考へるのはもう止さう。

 浪も風も、まだをさまらない。でも、窓がうす青い燐のやうな明るみを含んで来たのは、雲が切れて月が覗いて居るのだらう。気が付いて見ると、雨の音がしない。ただ風の音と浪の音ばかりだ。風と浪とが、月光の色に染んでどうどうと鳴る。それは半透明の酒である。さうだ、彼女は月光を含んだ酒の中に居るのを感じる。あの窓の明るみを見、あの浪の音を聴いて、さういふ感じがするではないか。それだから、彼女は嵐の酒に酔ひごこちなのだ。そして、彼女はその半透明な酒の中に、ぽつちり沈んだ一つぶの桜実の幻を見る。死んだ男の心臓を見る……

 溜息をついて、蒲団の上に寝てしまはうとしたが、ふと窓の方を振仰いだ。新しい音が、再び雨の加はつたのを知らせたからである。彼女は立上つて、もうだいぶ浪も風もしづかになつたやうなので、ガラス戸を引開け、外を眺めた。今ふり始めた銀の雨ゆゑ、月は又雲まにかくれようとして居る。狂ほしく無数の断片を躍らせる海。その海の上に、月の光は雨に追はれ、長い影を曳いて消え去らうとする時である。彼女は一秒間だけ居残つた月の光のなかに、これは夢でもなく幻でもなしに、日暮れ方に見た同じ沖合に、同じ一艘の帆船を見た!

 日暮れ方、一瞬間の映象に納めた船の姿がそのままに、今青い嵐の夜の乾板の上に、夢でもなく幻でもなしに再現された。

 何時間か経つのに同じ位置に漂ふ幻のやうな船は、妊婦のやうに、右に傾き、左に傾いて居る。

 「怖い!」

 悪寒をかんである。手早く窓を締めると、直ぐ夜具の中にもぐり込み、まだ眼の底に残る不思議な船の姿を忘れようとした。不思議な、気味のわるい、いつたい、こんな事があつて好いものだらうか? 彼女は見てはならぬものを見た怖しさで、いつまでも身ぶるひを止めなかつた。

雨は一層はげしい音をたて始めた。風も、浪も、急に又もとの物凄じい勢に還つた。浪の音が透きとほつて、その奥に怪しい悲鳴を聴かせて居るやうに思はれる。

 幽霊船だ!

 さう叫んで居る。彼女は耳を澄ます──浪の音が透きとほる向ふに、痩せ細つた鋭い悲鳴が、入り乱れて聴える。海の悲鳴が聴える。

 でも、夜が更けた。嵐もよほど治まつたらしく、ランプの光がしづかに秋の夜の部屋に落ちついて居た。つい、女も眠つてしまつたらしい。

 許婚の男が船に乗つて帰つて来た。死んだ筈だが? それに彼は船のりではなかつたのだし……幽霊か知ら? 許婚の男の指のさきから、ぼたぽたと血が垂れる。

 「この血を吸へ!」と男が云つた。

 「帰つて来たのね。吸ひますとも。」

 男は激しく彼女を抱いた。彼女は好い着物を着てゐるのだから、相手の血で汚して貰ひたくない。それで、身もだえして抱かれまいとする。だが駄目だ。彼女は逃げたくなる。

 「あなたぢやない! 嘘です。あなたはチブスで死んだのに……」

 「おい、どうした?」

 突然、ゆり起されて眼を醒まして見ると、良人が、いつのまにか傍に来て、にがい顔をして居る。

 「どうしたんだ? ひどく、うなされて居たやうだが。」

 「さう? 夢を……変な夢を見てたものですから。」

 「やかましくて、眼が醒めつちまふぢやないか。」と腹立たしげに云つて男は自分の寝台に帰らうとした。

 「済みません。あたし、死んだ人のことを夢に見て……それから」

 「死んだ人の夢?」

 男はちよつと恐しい顔になつたが、直ぐ戻つて來て、脂ぎつた手で、彼女の襟髪を、やさしく掴んだ。

 「あの人のことをかい?」

 彼女は、うなづいて見せた。

 「妾うれしかつたわ。」

 「なに?」

 「妾、ほんとは、あなたが嫌で、あの人が忘れられないの。」

 女はもうスッカリ大胆になつて、につこり媚びるやうな微笑をした。気持ちが澄んで全身に力が湧いたのに違ひない。最も露骨に、愛しない良人への復讐を遂行したと自惚うぬぼれたのである。

 すると、良人も、にやりとした。

 「その位のこと、教へられて初て気が付く俺ではないよ。」

 さう云ふなり、彼は良人であることの特権を、突然、冷やかに示めさうとした。

 彼女は抵抗しなかつた。無表情な人形化で以て応答した。

 気味のわるい体温を、お互の二人のほかに誰が知らう。もし此世に幽霊がほんとにあつて、これを眺めたとしても、きつと情熱のリズムの打音と見て心臓をあつくするに違ひないのだ。

 この秘密な眺めを、彼女は閉ぢた瞼の裏に客観した。次第に悲しくなり、次第に彼女は彼女自身を失つて行つた。

俄に最後の時である。彼女はふと、我を失はうとして眼をみひらいた。そして叫んだ。

 「あの人だ!」

 あの人の幽霊が、白い経帷衣きやうかたびらを着て、ガラス窓の向ふに煙のやうに立つて居るではないか? 恥しい、済まない! 心を槌で打たれたと思つた時、幽霊は忽然消え失せ、白い浪がそのあとに飛散した。

 「あの人が戻つて來た!」

 「馬鹿、どこに?」と良人は驚愕して彼女を凝視した。

 「あの人だわ。あたし、恥しい。」

 開いた瞳孔が、暗い窓に執着して居る。良人は狼狽して窓の所に走せ付け、ガラス戸をあけた。

 「誰も居やしないよ。」

 「さうよ。あの人とたつた二人きりよ。」

 良人は呆然として振返つた。妻は喪心したのだ。気違ひになつたのだ、と自分自身に悟らせるのに骨を折る必要はなかつたらう。身体中を震はせ乍ら、彼はいつまでも突立つて、しどけない女の姿を見おろして居た。

 「妾、ごめんね。済まない事になつちやつて。」

 彼女はくうに向つてさう云ふと、さめざめと子供のやうに泣き出した。

(大正十三年十一月「文藝時代」)