渠は歩き出した。
銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニューム製の金椀が腰の剣に当ってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経を夥しく刺戟するので、幾度かそれを直して見たが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭になってしまった。
病気は本当に治ったのでないから、呼吸が非常に切れる。全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熟して、顳顬が烈しい脈を打つ。何故、病院を出た? 軍医が後が大切だと言ってあれほど留めたのに、何故病院を出た? こう思ったが、渠はそれを悔いはしなかった。敵の捨てて遁げた汚ない洋館の板敷、八畳位の室に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それに凄じい蠅の群集、よく二十日も辛抱していた。麦飯の粥に少しばかりの食塩、よくあれで飢餓を凌いだ。かれは病院の背後の便所を思出してゾットした。急造の穴の掘りようが浅いので、臭気が鼻と眼とを烈しく撲つ。蠅がワンと飛ぶ。石灰の灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。
あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々とした野の方が好い。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠として何もない。畑にはもう熟し懸けた高梁が連っているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――凄じい声が急に耳に入ったので、立留って彼はそっちを見た。さっきの汽車がまだあそこにいる。釜のない煙筒のない長い汽車を、支那苦力が幾百人となく寄ってたかって、丁度蟻が大きな獲物を運んで行くように、えっさらおっさら押して行く。
夕日が画のように斜に射し渡った。
先程の下士があそこに乗っている。あの一段高い米の叺の積荷の上に突立っているのが彼奴だ。苦しくってとても歩けんから、鞍山站まで乗せて行ってくれと頼んだ。すると彼奴め、兵を乗せる車ではない。歩兵が車に乗るという法があるかと呶鳴った。病気だ、御覧の通りの病気で、脚気をわずらっている。鞍山站の先まで行けば隊がいるに相連ない。武士は相見互ということがある、どうか乗せてくれッて、達って頼んでも、言うことを聞いてくれなかった。兵、兵といって、筋が少いと馬鹿にしやがる。金州でも、得利寺でも兵のお蔭で戦争に勝ったのだ。馬鹿奴、悪魔奴!
蟻だ、蟻だ、本当に蟻だ。まだあそこにいやがる。汽車もああなってはおしまいだ。ふと汽車――豊橋を発って来た時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められている。万歳の声が長く長く続く。と忽然最愛の妻の顔が眼に浮ぶ。それは門出の時の泣顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心から可愛いと思った時の美しい笑顔だ。母親がお前もうお起きよ、学校が遅くなるよと揺起す。彼の頭はいつか子供の時代に飛帰っている。裏の入江の船の船頭が禿頭を夕日にてかてかと光らせながら子供の一群に向って呶鳴っている。その子供の群の中に彼もいた。
過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区劃を立てておりながら、しかもそれがすれすれに摺寄った。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとは解らぬ。
褐色の道路――砲車の轍や靴の跡や草鞋の跡が深く印したままに石のように乾いて固くなった路が前に長く通じている。こういう満洲の道路にはかれは殆ど愛想をつかしてしまった。何処まで行ったらこの路はなくなるのか。何処まで行ったらこんな路は歩かなくってもよくなるのか。故郷のいさご路、雨上りの湿った海岸の砂路、あの滑かな心地の好い路が懐かしい。広い大きな道ではあるが、一として滑かな平かな処がない。これが雨が一日降ると、壁土のように柔かくなって、靴どころか、長い脛もその半を没してしまうのだ。大石橋の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘を三里もこね廻した。背の上から頭の髪まではねが上った。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥って少しも動かぬのを押して押して押し通した。第三聯隊の砲車が先に出て陣地を占領してしまわなければ明日の戦は出来なかったのだ。そして終夜働いて、翌日はあの戦争。敵の砲弾、味方の砲弾がぐんぐんと厭な音を立てて頭の上を鳴って通った。九十度近い暑い日が脳天からじりじり照り附けた。四時過に、敵味方の歩兵はともに接近した。小銃の音が豆を煎るように聞える。時々シュッシュッと耳の傍を掠めて行く。列の中であっと言ったものがある。はッと思って見ると、血がだらだらと暑い夕日に彩られて、その兵士はガックリ前にのめった。胸に弾丸が中ったのだ。その兵士は善い男だった。快活で、洒脱で、何事にも気が置けなかった。新城町のもので、若い嚊があったはずだ。上陸当座は一緒によく徴発に行ったっけ。豚を逐い廻したッけ。けれどあの男は最早この世の中にいないのだ。いないとはどうしても思えん。思えんがいないのだ。
褐色の道路を、糧餉を満載した車がぞろぞろ行く。騾車、驢車、支那人の爺のウオウオウイウイが聞える。長い鞭が夕日に光って、一種の音を空気に伝える。路の凸凹が烈しいので、車は波を打つようにしてガタガタ動いて行く。苦しい、呼吸が苦しい。こう苦しくっては為方がない。頼んで乗せてもらおうと思ってかれは駆出した。
金椀がカタカタ鳴る。烈しく鳴る。背嚢の中の雑品や弾丸袋の弾丸が気たたましく躍り上る。銃の台が時々脛を打って飛び上るほど痛い。
「オーイ、オーイ。」
声が立たない。
「オーイ、オーイ。」
全身の力を絞って呼んだ。聞えたに相違ないが振向いても見ない。どうせ碌なことではないと知っているのだろう。一時思止まったが、また駆出した。そして今度はその最後の一輌に漸く追着いた。
米の叺が山のように積んである。支那人の爺が振向いた。丸顔の厭な顔だ。有無をいわせずその車に飛乗った。そして叺と叺との間に身を横えた。支那人は為方がないという風でウオーウオーと馬を進めた。ガタガタと車は行く。
頭脳がぐらぐらして天地が廻転するようだ。胸が苦しい。頭が痛い。脚の腓の処が押附けられるようで、不愉快で不愉快で為方がない。ややともすると胸がむかつきそうになる。不安の念が凄じい力で全身を襲った。と同時に、恐ろしい動揺がまた始まって、耳からも頭からも、種々の声が囁いて来る。この前にもこうした不安はあったが、これほどではなかった。天にも地にも身の置き処がないような気がする。
野から村に入ったらしい。鬱蒼とした楊の緑がかれの上に靡いた。楊樹にさし入った夕日の光が細な葉を一葉一葉明らかに見せている。不恰好な低い屋根が地震でもあるかのように動揺しながら過ぎて行く。ふと気がつくと、車は止っていた。かれは首を挙げて見た。
楊樹の蔭をなしている処だ。車輌が五台ほど続いているのを見た。
突然肩を捉えるものがある。
日本人だ、わが同胞だ、下士だ。
「貴様は何だ?」
かれは苦しい身を起した。
「どうしてこの車に乗った?」
理由を説明するのが辛かった。いや口を利くのも厭なのだ。
「この車に乗っちゃいかん。そうでなくってさえ、荷が重過ぎるんだ。お前は十八聯隊だナ。豊橋だナ。」
点頭いて見せる。
「どうかしたのか。」
「病気で、昨日まで大石橋の病院にいたものですから。」
「病気がもう治ったのか。」
無意味に点頭いた。
「病気で辛いだろうが、下りてくれ。急いで行かんけりゃならんのだから。遼陽が始ったでナ。」
「遼陽!」
この一語はかれの神経を十分に刺戟した。
「もう始ったですか。」
「聞えんかあの砲が……」
先ほどから、天末に一種の轟声が始ったそうなとは思ったが、まだ遼陽ではないと思っていた。
「鞍山站は落ちたですか。」
「一昨日落ちた。敵は遼陽の手前で一防禦遣るらしい。今日の六時から始ったという噂だ!」
一種の遠い微かなる轟、仔細に聞けばなるほど砲声だ。例の厭な音が頭上を飛ぶのだ。歩兵隊がその間を縫って進撃するのだ。血汐が流れるのだ。こう思った渠は一種の恐怖と憧憬とを覚えた。戦友は戦っている。日本帝国のために血汐を流している。
修羅の巷が想像される。炸弾の壮観も眼の前に浮ぶ。けれど七、八里を隔てたこの満洲の野は、さびしい秋風が夕日を吹いているばかり、大軍の潮の如く過ぎ去った村の平和は平生に異らぬ。
「今度の戦争は大きいだろう。」
「そうさ。」
「一日では勝敗がつくまい。」
「無論だ。」
今の下士は夥伴の兵士と砲声を耳にしつつ頻りに語合っている。糧餉を満載した車五輌、支那苦力の爺連も圏をなして何事をか饒舌り立てている。驢馬の長い耳に日が射して、おりおりけたたましい啼声が耳を劈く。楊樹の彼方に白い壁の支那民家が五、六軒続いて、庭の中に槐の樹が高く見える。井戸がある。納屋がある。足の小さい年老いた女が覚束なく歩いて行く。楊樹を透して向うに、広い荒漠たる野が見える。褐色した丘陵の連続が指される。その向うには紫色がかった高い山が蜿蜒としている。砲声は其処から来る。
五輌の車は行ってしまった。
渠はまた一人取残された。海城から東煙台、甘泉堡、この次の兵站部所在地は新台子と言って、まだ一里位ある。其処まで行かなければ宿るべき家もない。
行くことにして歩き出した。
疲れ切っているから難儀だが、車よりはかえって好い。胸は依然として苦しいが、どうも致し方がない。
また同じ褐色の路、同じ高梁の畑、同じ夕日の光、レールには例の汽車がまた通った。今度は下り坂で、速力が非常に早い。釜の附いた汽車よりも早い位に目まぐろしく谷を越えて駛った。最後の車輌に翻った国旗が高梁畑の絶間絶間に見えたり隠れたりして、遂にそれが見えなくなっても、その車輌の轟は聞える。その轟と交って、砲声が間断なしに響く。
街道には久しく村落がないが、西方には楊樹のやや暗い繁茂が到る処にかたまって、その間からちらちら白色褐色の民家が見える。人の影は四辺を見廻してもないが、碧い細い炊煙は糸のように淋しく立あがる。
夕日は物の影を総て長く曳くようになった。高梁の高い影は二間幅の広い路を蔽って、更に向う側の高梁の上に蔽い重った。路傍の小さな草の影も夥しく長く、東方の丘陵は浮出すようにはっきりと見える。さびしい悲しい夕暮は譬え難い一種の影の力を以て迫って来た。
高梁の絶えた処に来た。忽然、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。
草叢には虫の声がする。故郷の野で聞く虫の声とは似もつかぬ。この似つかぬことと広い野原とが何となくその胸を痛めた。一時途絶えた追懐の情が流るるように漲って来た。
母の顔、若い妻の顔、弟の顔、女の顔が走馬灯のごとく旋回する。欅の樹で囲まれた村の旧家、団欒せる平和な家庭、続いてその身が東京に修業に行った折の若々しさが懐い出される。神楽坂の夜の賑いが眼に見える。美しい草花、雑誌店、新刊の書、角を曲ると賑やかな寄席、待合、三味線の音、仇めいた女の声、あの頃は楽しかった。恋した女が仲町にいて、よく遊びに行った。丸顔の可愛い娘で、今でも恋しい。この身は田舎の豪家の若旦那で、金には不自由を感じなかったから、随分面白いことをした。それにあの頃の友人は皆世に出ている。この間も蓋平で第六師団の大尉になって威張っている奴に邂逅した。
軍隊生活の束縛ほど残酷なものはないと突然思った。と、今日は不思議にも平生のように反抗とか犠牲とかいう念は起らずに、恐怖の念が盛に燃えた。出発の時、この身は国に捧げ、君に捧げて遺憾がないと誓った。再びは帰って来る気はないと、村の学校で雄々しい演説をした。当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言っても勿論死ぬ気はなかった。心の底には花々しい凱旋を夢みていた。であるのに、今忽然起ったのは死に対する不安である。自分はとても生きて還ることは覚束ないという気が烈しく胸を衝いた。この病、この脚気、仮令この病は治ったにしても戦場は大なる牢獄である。いかに藻掻いても焦ってもこの大なる牢獄から脱することは出来ぬ。得利寺で戦死した兵士がその以前かれに向って、
「どうせ遁れられぬ穴だ。思い切よく死ぬサ。」と言ったことを思出した。
かれは疲労と病気と恐怖とに襲われて、如何にしてこの恐しい災厄を遁るべきかを考えた。脱走? それも好い、けれど捕えられた暁には、この上もない汚名を被った上に同じく死! さればとて前進すれば必ず戦争の巷の人とならなければならぬ。戦争の巷に入れば死を覚悟しなければならぬ。かれは今初めて、病院を退院したことの愚をひしと胸に思当った。病院から後送されるようにすればよかった……と思った。
もう駄目だ、万事休す、遁れるに路がない。消極的の悲観が恐ろしい力でその胸を襲った。と、歩く勇気も何もなくなってしまった。止度なく涙が流れた。神がこの世にいますなら、どうか救けて下さい、どうか遁路を教えて下さい。これからはどんな難儀もする! どんな善事もする! どんなことにも背かぬ。
渠はおいおい声を挙げて泣出した。
胸が間断なしに込み上げて来る。涙は小児でもあるように頬を流れる。自分の体がこの世の中になくなるということが痛切に悲しいのだ。かれの胸にはこれまで幾度も祖国を思うの念が燃えた。海上の甲板で軍歌を歌った時には悲壮の念が全身に充ち渡った。敵の軍艦が突然出て来て、一砲弾のために沈められて、海底の藻屑となっても遺憾がないと思った。金州の戦場では、機関銃の死の叫びのただ中を地に伏しつつ、勇ましく進んだ。戦友の血に塗れた姿に胸を撲ったこともないではないが、これも国のためだ、名誉だと思った。けれど人の血の流れたのは自分の血の流れたのではない。死と相面しては、いかなる勇者も戦慄する。
脚が重い、気怠い、胸がむかつく。大石橋から十里、二日の路、夜露、悪寒、確かに持病の脚気が昂進したのだ。流行腸胃熱は治ったが、急性の脚気が襲って来たのだ。脚気衝心の恐しいことを自覚してかれは戦慄した。どうしても免れることが出来ぬのかと思った。と、いても立ってもいられなくなって、体がしびれて脚がすくんだ――おいおい泣きながら歩く。
野は平和である。赤い大きい日は地平線上に落ちんとして、空は半ば金色半ば暗碧色になっている。金色の鳥の翼のような雲が一片動いて行く。高梁の影は影と蔽い重って、荒涼たる野には秋風が渡った。遼陽方面の砲声も今まで盛に聞えていたが、いつか全く途絶えてしまった。
二人連の上等兵が追い越した。
すれ違って、五、六間先に出たが、ひとりが戻って来た。
「おい、君、どうした?」
かれは気が附いた。声を挙げて泣いて歩いていたのが気恥かしかった。
「おい、君?」
再び声は懸った。
「脚気なもんですから。」
「脚気?」
「はア。」
「それは困るだろう。よほど悪いのか。」
「苦しいのです。」
「それア困ったナ、脚気では衝心でもすると大変だ。何処まで行くんだ。」
「隊が鞍山站の向うにいるだろうと思うんです。」
「だって、今日其処まで行けはせん。」
「はア。」
「まア、新台子まで行くさ。其処に兵站部があるから行って医師に見てもらうさ。」
「まだ遠いですか?」
「もうすぐ其処だ。それ向うに丘が見えるだろう。丘の手前に鉄道線路があるだろう。其処に国旗が立っている、あれが新台子の兵站部だ。」
「其処に医師がいるでしょうか。」
「軍医が一人いる。」
蘇生したような気がする。
で、二人に跟いて歩いた。二人は気の毒がって、銃と背嚢とを持ってくれた。
二人は前に立って話しながら行く。遼陽の今日の戦争の話である。
「様子は解らんかナ。」
「まだ遭ってるんだろう。煙台で聞いたが、敵は遼陽の一里手前で一支えしているそうだ。何んでも首山堡とか言った。」
「後備が沢山行くナ。」
「兵が足りんのだ。敵の防禦陣地はすばらしいものだそうだ。」
「大きな戦争になりそうだナ。」
「一日砲声がしたからナ。」
「勝てるかしらん。」
「負けちゃ大変だ。」
「第一軍も出たんだろうナ。」
「勿論さ。」
「一つ旨く背後を断って遣りたい。」
「今度はきっと旨く遣るよ。」
と言って耳を傾けた。砲声がまた盛んに聞え出した。
新台子の兵站部は今雑沓を極めていた。後備旅団の一箇聯隊が着いたので、レイル上の、家屋の蔭、糧餉の傍などに軍帽と銃剣とが充ち満ちていた。レイルを挟んで敵の鉄道援護の営舎が五棟ほど立っているが、国旗の翻った兵站本部は、雑沓を重ねて、兵士が黒山のように集って、長い剣を下げた士官が幾人となく出たり入ったりしている。兵站部の三箇の大釜には火が盛に燃えて、烟が薄暮の空に濃く靡いていた。一箇の釜は飯が既に炊けたので、炊事軍曹が大きな声を挙げて、部下を叱咤して、集る兵士に頻りに飯の分配を遣っている。けれどこの三箇の釜は到底この多数の兵士に夕飯を分配することが出来ぬので、その大部分は白米を飯盆に貰って、各自に飯を作るべく野に散った。やがて野の処々に高梁の火がいくつとなく燃された。
家屋のかなたでは、徹夜して戦場に送るべき弾薬弾丸の箱を汽車の貨車に積込んでいる。兵士、輸卒の群が一生懸命に奔走しているさまが薄暮の微かな光に絶え絶えに見える。一人の下士が貨車の荷物の上に高く立って、頻りにその指揮をしていた。
日が暮れても戦争は止まぬ。鞍山站の馬鞍のような山が暗くなって、その向うから砲声が断続する。
渠は此処に来て軍医をもとめた。けれど軍医どころの騒ぎではなかった。一兵卒が死のうが生きようがそんなことを問う場合ではなかった。渠は二人の兵士の尽力の下に、わずかに一盒の飯を得たばかりであった。為方がない、少し待て。この聯隊の兵が前進してしまったら、軍医をさがして、伴れて行って遣るから、先ず落着いておれ。此処から真直に三、四町行くと一棟の洋館がある。その洋館の入口には、酒保が今朝から店を開いているからすぐ解る。その奥に入って、寝ておれとのことだ。
渠はもう歩く勇気はなかった。銃と背嚢とを二人から受取ったが、それを背負うと危く倒れそうになった。眼がぐらぐらする。胸がむかつく。脚が気怠い。頭脳は烈しく旋回する。
けれど此処に倒れるわけには行かない。死ぬにも隠家を求めなければならぬ。そうだ、隠家……。どんな処でも好い。静かな処に入って寝たい、休息したい。
闇の路が長く続く。ところどころに兵士が群をなしている。ふと豊橋の兵営を憶い出した。酒保に行って隠れてよく酒を飲んだ。酒を飲んで、軍曹をなぐって、重営倉に処せられたことがあった。路がいかにも遠い。行っても行っても洋館らしいものが見えぬ。三、四町と言った。三、四町どころか、もう十町も来た。間違ったのかと思って振返る――兵站部は灯火の光、篝火の光、闇の中を行違う兵士の黒い群、弾薬箱を運ぶ懸声が夜の空気を劈いて響く。
此処らはもう静かだ。四辺に人の影も見えない。俄かに苦しく胸が迫って来た。隠家がなければ、此処で死ぬのだと思って、がっくり倒れた。けれども不思議にも前のように悲しくもない、思い出もない。空の星の閃きが眼に入った。首を挙げてそれとなく四辺を眴した。
今まで見えなかった一棟の洋館がすぐその前にあるのに驚いた。家の中には灯火が見える。丸い赤い提灯が見える。人の声が耳に入る。
銃を力に辛うじて立上った。
なるほど、その家屋の入口に酒保らしいものがある。暗いからわからぬが、何か釜らしいものが戸外の一隅にあって、薪の余燼が赤く見えた。薄い煙が提灯を掠めて淡く靡いている。提灯に、しるこ一杯五銭と書いてあるのが、胸が苦しくって苦しくって為方がないにもかかわらずはっきりと眼に映じた。
「しるこはもうお終いか。」
と言ったのは、その前に立っている一人の兵士であった。
「もうお終いです。」
という声が戸内から聞える。
戸内を覗くと明かなる光、西洋蝋燭が二本裸で点っていて、罎詰や小間物などの山のように積まれてある中央の一段高い処に、肥った、口髭の濃い、莞爾した三十男が坐っていた。店では一人の兵士がタオルを展げて見ていた。
傍を見ると、暗いながら、低い石階が眼に入った。此処だなとかれは思った。とにかく休息することが出来ると思うと、言うに言われぬ満足を先ず心に感じた。静かにぬき足してその石階を登った。中は暗い。よく判らぬが廊下になっているらしい。最初の戸と覚しき処を押して見たが開かない。二歩三歩進んで次の戸を押したがやはり開かない。左の戸を押しても駄目だ。
なお奥へ進む。
廊下は突当ってしまった。右にも左にも道がない。困って右を押すと、突然、闇が破れて扉が明いた。室内が見えるというほどではないが、そことなく星明りがして、前に硝子窓があるのが解る。
銃を置き、背嚢を下し、いきなりかれは横に倒れた。そして重苦しい呼吸をついた。まアこれで安息所を得たと思った。
満足とともに新しい不安が頭を擡げて来た。倦怠、疲労、絶望に近い感情が鉛のごとく重苦しく全身を圧した。思い出が皆な片々で、電光のように早いかと思うと牛の喘歩のように遅い。間断なしに胸が騒ぐ。
重い、気怠い脚が一種の圧迫を受けて疼痛を感じて来たのは、かれ自らにも好く解った。腓のところどころがずきずきと痛む。普通の疼痛ではなく、丁度こむらが反った時のようである。
自然と体を藻掻かずにはいられなくなった。綿のように疲れ果てた身でも、この圧迫には敵わない。
無意識に輾転反側した。
故郷のことを思わぬではない、母や妻のことを悲まぬではない。この身がこうして死ななければならぬかと嘆かぬではない。けれど悲嘆や、追憶や、空想や、そんなものはどうでも好い。疼痛、疼痛、その絶大な力と戦わねばならぬ。
潮のように押寄せる。暴風のように荒れわたる。脚を固い板の上に立てて倒して、体を右に左に踠いた。「苦しい……」と思わず知らず叫んだ。
けれど実際はまたそう苦しいとは感じていなかった。苦しいには違いないが、更に大なる苦痛に耐えなければならぬと思う努力が少くともその苦痛を軽くした。一種の力は波のように全身に漲った。
死ぬのは悲しいという念よりもこの苦痛に打克とうという念の方が強烈であった。一方には極めて消極的な涙脆い意気地ない絶望が漲るとともに、一方には人間の生存に対する権利というような積極的な力が強く横わった。
疼痛は波のように押寄せては引き、引いては押寄せる。押寄せる度に脣を噛み、歯をくいしばり、脚を両手でつかんだ。
五官の他にある別種の官能の力が加わったかと思った。暗かった室がそれとはっきり見える。暗色の壁に添うて高い卓が置いてある。上に白いのは確かに紙だ。硝子窓の半分が破れていて、星がきらきらと大空にきらめいているのが認められた。右の一隅には、何かごたごた置かれてあった。
時間の経って行くのなどはもうかれには解らなくなった。軍医が来てくれれば好いと思ったが、それを続けて考える暇はなかった。新しい苦痛が増した。
床近く蟋蟀が鳴いていた。苦痛に悶えながら、「あ、蟋蟀が鳴いている……」とかれは思った。その哀切な虫の調が何だか全身に泌み入るように覚えた。
疼痛、疼痛、かれは更に輾転反側した。
「苦しい! 苦しい! 苦しい!」
続けざまにけたたましく叫んだ。
「苦しい、誰か……誰かおらんか。」
と暫くしてまた叫んだ。
強烈なる生存の力ももうよほど衰えてしまった。意識的に救助を求めると言うよりは、今は殆ど夢中である。自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪の叫び、人間の悲鳴!
「苦しい! 苦しい!」
その声がしんとした室に凄じく漂い渡る。この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥していた。日本兵が始めて入った時、壁には黒く煤けた基督の像が懸けてあった。昨年の冬は、満洲の野に降頻る風雪をこの硝子窓から眺めて、その士官はウオッカを飲んだ。毛皮の防寒服を着て、戸外に兵士が立っていた。日本兵のなすに足らざるを言って、虹のごとき気焔を吐いた。その室に、今、垂死の兵士の叫喚が響き渡る。
「苦しい、苦しい、苦しい!」
寂としている。蟋蟀は同じやさしいさびしい調子で鳴いている。満洲の広漠たる野には、遅い月が昇ったと見えて、四辺が明るくなって、硝子窓の外は既にその光を受けていた。
叫喚、悲鳴、絶望、渠は室の中をのたうち廻った。軍服の釦鈕は外れ、胸の辺は掻むしられ、軍帽は頷紐をかけたまま押潰され、顔から頬に懸けては、嘔吐した汚物が一面に附着した。
突然明らかな光線が室に射したと思うと、扉の処に、西洋蝋燭を持った一人の男の姿が浮彫のように顕われた。その顔だ。肥った口髭のある酒保の顔だ。けれどその顔には莞爾した先ほどの愛嬌はなく、真面目な蒼い暗い色が上っていた。黙って室の中へ入って来たが、其処に唸って転がっている病兵を蝋燭で照らした。病兵の顔は蒼褪めて、死人のように見えた。嘔吐した汚物が其処に散らばっていた。
「どうした? 病気か?」
「ああ苦しい、苦しい……」
と烈しく叫んで輾転した。
酒保の男は手を附けかねてしばし立って見ていたが、そのまま、蝋燭の蝋を垂らして、卓の上にそれを立てて、そそくさと扉の外へ出て行った。蝋燭の光で室は昼のように明るくなった。隅に置いた自分の背嚢と銃とがかれの眼に入った。
蝋燭の火がちらちらする。蝋が涙のようにだらだら流れる。
暫くして先の酒保の男は一人の兵士を伴って入って来た。この向うの家屋に寝ていた行軍中の兵士を起して来たのだ。兵士は病兵の顔と四方のさまとを見廻したが、今度は肩章を仔細に倹した。
二人の対話が明かに病兵の耳に入る。
「十八聯隊の兵だナ。」
「そうですか。」
「いつから此処に来てるんだ?」
「少しも知らんかったです。いつから来たんですか。私は十時頃ぐっすり寝込んだんですが、ふと目を覚ますと、唸声がする、苦しい苦しいという声がする。どうしたんだろう、奥には誰もいぬはずだがと思って、不審にして暫く聞いていたです。すると、その叫声はいよいよ高くなりますし、誰か来てくれ! と言う声が聞えますから、来て見たんです。脚気ですナ、脚気衝心ですナ。」
「衝心?」
「とても助からんですナ。」
「それア、気の毒だ。兵站部に軍医がいるだろう?」
「いますがナ……こんな遅く、来てくれやしませんよ。」
「何時だ。」
自ら時計を出して見て、「道理だ」という顔をして、そのまま隠袋に収めた。
「何時です?」
「二時十五分。」
二人は黙って立っている。
苦痛がまた押寄せて来た。唸声、叫声が堪え難い悲鳴に続く。
「気の毒だナ。」
「本当に可哀そうです。何処の者でしょう。」
兵士がかれの隠袋を探った。軍隊手帖を引出すのが解る。かれの眼にはその兵士の黒く逞しい顔と軍隊手帖を読むために卓上の蝋燭に近く歩み寄ったさまが映った。三河国渥美郡福江付加藤平作……と読む声が続いて聞えた。故郷のさまが今一度その眼前に浮ぶ。母の顔、妻の顔、欅で囲んだ大きな家屋、裏から続いた滑かな磯、碧い海、馴染の漁夫の顔……。
二人は黙って立っている。その顔は蒼く暗い。おりおりその身に対する同情の言葉が交される。彼は既に死を明かに自覚していた。けれどそれが別段苦しくも悲しくも感じない。二人の問題にしているのはかれ自身のことではなくて、他に物体があるように思われる。ただ、この苦痛、堪え難いこの苦痛から脱れたいと思った。
蝋燭がちらちらする。蟋蟀が同じくさびしく鳴いている。
黎明に兵站部の軍医が来た。けれどその一時間前に、渠は既に死んでいた。一番の汽車が開路開路の懸声とともに、鞍山站に向って発車した頃は、その残月が薄く白けて、淋しく空に懸っていた。
暫くして砲声が盛に聞え出した。九月一日の遼陽攻撃は始まった。
(明治四十年作)