「ふるえる足取りで乗物を降りた私は、壮大きわまりない鉄壁により現世から遮蔽された異世界へと近づいていた。突然、視野が開け、金婚式のデコレーションケーキのごときクリーム色の城がそそり立っていた。そのけばけばしい姿を一目見るなり、堪えがたい憂いが私の胸にしみわたった。その城こそ、現存する最古の怪物ミカエル、あるいはミシェル、マイクル、ミゲル、遠くはシュメールの鼠と呼ばれる原始神の神殿なのであった」
タイトルは『シュメールの鼠』だったのか。今では記憶は曖昧だ。憶えているのはそれだけで、著者も出版社も定かではない。パーソナルコンピュータで検索してもそんなタイトルの本は出てこない。だから、書名もおそらく正確には『シュメールの鼠』ではないかも知れない。
還暦を過ぎて、記憶力の衰えを痛感する。以前は好きな映画や演劇、読んだ本のことは細かく憶えていたものだ。特に私は映画ファンだから、タイトルや公開された年代、監督、出演者、主役はもとより脇役の名前まですらすらと出てきて、映画好きの友人を感心させるのが自慢だった。昔は味わいのあるベテランの俳優がたくさんいて、映画界を裾野から豊かにしていたものだが、今では固有名詞がとっさに出てこない。有名な映画スターの顔がくっきりと浮かんでいるのに、えーっと、名前を思い出すのに苦労する。
つい先ごろも、散歩の途中、いきなりたおやかな美女の顔が脳裏に閃き、さて、だれだったかわからない。よく知ってる顔なんだがなあ。往年の日本映画のスターであったろうか。それとも古いTVで見た顔か。さんざん頭を悩ませたあげく、なんということはない。意識の奥底で光り輝くその美女こそ、若い頃のわが妻であることに思い至った。散歩から帰って、さっそく妻に話すと、喜ぶかと思ったのに、逆に機嫌を損ねられた。
「いや、いや、もちろん、今でも全然変わらないんだけどね」
ともかく、その鼠の本に出会ったのは、京浜急行蒲田駅前に続くアーケードの古い商店街、その中の小さな古本屋だった。蒲田であるのは間違いないが、かれこれ二十年、いや三十年以上も前のことなので、店の位置も名前も定かではない。大阪で生まれ、当時杉並区のアパートに住んでいた私は、蒲田へ行ったのはその日が初めてだった。それ以後も、ほとんど行ったことがない。
その日、なぜ蒲田へ行ったのかはよく記憶している。映画を観に行ったのだ。封切で見逃し、三鷹オスカーのウディ・アレン特集でも見逃していた『カメレオンマン』をどうしても観たくて、国鉄蒲田駅の近くの二番館まで足を伸ばしたのだ。その頃、JRはまだ国鉄と呼ばれていた。JTはまだ専売公社と呼ばれていたし、NTTはまだ電電公社だった。公共機関の民営化というのは、つまり、名称のアルファベット化のことなのだな。
ともかく、八十年代の前半、家庭用VTRはさほど普及しておらず、DVDは存在さえせず、観たい映画があれば映画館へ行くしかなかった。各家庭にVTRはなかったが、幸いなことに、東京中に映画館は何百軒とあったのだ。
国鉄蒲田駅前の映画館(どうしても名前が思い出せない)は楽園であった。すべての愛煙家の映画ファンにとって。スクリーンの両脇に赤地に白い文字で「場内禁煙」の垂れ幕はあったが、すべての観客はそれを無視して堂々と胸を張り威厳を込めて紫煙をくゆらせていた。禁酒の表示はどこにもなく、ワンカップの日本酒や五百ミリリットルの缶ビールを優雅に嗜む客もいた。前の座席の背もたれに自分の土足を乗せてリラックスする客もいた。そこは映画を愛する自由人にとって、何でもありのアカデミーだった。その上、銀座や日比谷の映画館のように上映中ペチャクチャおしゃべりする厚顔な中年の婦人客はひとりもいなかった。
いや、上映中にバリバリとコンビニエンスストアのビニール袋から弁当やペットボトルを取り出して、ガサゴソガサゴソクチャクチャグピグビと食い続ける若い女性客さえひとりもいない。
当時の蒲田では観客は全員が男性だった。もし上映中に何か言いたいことがあれば、男らしく大声で「表へ出ろ」と叫ぶのだ。蒲田の客は。
フィルムの状態は悪くなく、映画は申し分なし。内容は今でもよく憶えている。私は主人公がカメレオンに変身する怪談映画をなかば期待していたのだが、ウディ・アレンのことだから、ストレートなオカルトというわけにはいかない。ただ、あの当時のウディはどんな駄作でも称賛される売れっ子で、不発のギャグの並ぶ全然笑えないコメディから、ベルイマン風の似非芸術作品まで、ヒットはしなくとも映画マニアの間では必ず話題に上っていた。私はウディ・アレンのマニアではない。むしろ映画ならなんでもいい。選り好みはしない。なんでも観るから、今でも週に二、三度は映画会社の試写室に出入りする。月に一度は寄席で落語を聴くし、半年に一度は芝居を観るし、年に一度ぐらいは観音様の北にある御稲荷様にお参りする。
「たいそうはやる御稲荷様は、どっちの方角だと言ってたい」
「なんでも浅草の観音様のうしろのほうだそうでございます」
映画の選り好みもそれほどなく、なんでも観る。だがあの当時、洋画邦画を問わず、主人公が異形に取り憑かれて変異する怪奇映画が特に好みだった。だからウデイ・アレンのこの作品、カメレオンのように周囲の人物に次々同化する特異体質者のフェイクドキュメンタリーをわざわざ観るために、蒲田まで足を伸ばしたのだ。ただし、蒲田の映画館は喫煙者の楽園であるため、煙草アレルギーの私は頭痛がひどくなって、映画の途中でロビーへ飛び出し、思い切り深呼吸することになる。
私は悲しいことに煙草の吸えない体質だった。灰皿のある場所ではいつも肩身の狭い思いをしていた。一度、あるパーティで長身のゴージャスな美女と意気投合したことがある。背丈はハイヒールを履いて私とほぼ同じ、裸足でも百七十センチメートルは超えていただろう。新宿伊勢丹婦人服売場のマネキン人形のように均整の取れた肢体の持ち主で、異常に脚が長かった。顔も少し長かった。私は夢見心地で彼女と楽しく語り合っていた。何の話をしたんだろう。そう、私の得意は怪談映画の話題だ。私は政治も宗教も哲学もスポーツも話題にするのは苦手だったが、怪談映画は別だ。私の怪談映画の話題に乗って来ない女性はいない。
私たちはそっと会場を抜けて中庭に出た。私は怪談映画のあれこれを彼女に語り続けた。この世に未練を残した魂が浮かばれずに現世をさまよう怨霊譚の傑作『天国から来たチャンピオン』をはじめとして、現代に甦る吸血鬼の恐怖を措いた『ドラキュラ都へ行く』、女に化身した半人半魚の怪物が青年に取り憑く『スプラッシュ』、狼人間の血をひく若者の悲劇『ティーンウルフ』、日本映画では旅の女が魔性の野鳥に変身する『つる』など、私は映画に現れる幽霊や吸血鬼、怪物や異形に関する知識をひけらかせ、彼女の心をとりこにした。
「もうやめてよ、それ以上は」
薄闇の中でも、彼女が青ざめているのがわかった。稲川淳二を思わせる私の語り口に、彼女は『妖女ゴーゴン』の犠牲者のごとく凍りついた。
「その時、巨大な鶴に変身したおつうの鋭い嘴が」
「お願い、聞きたくない」
あまりの恐ろしさに、彼女はとうとう私にしがみついてきた。
月の輝く夜だった。彼女の潤んだ瞳を今でも思い出す。その彼女の唇に私の唇がそっと触れそうになり、舌と舌がそっとからまりそうになり、唾液と唾液がそっと混ざりそうになる直前、私は思わず顔をそむけた。
私はとっさに吐き気を我慢した。その瞬間、彼女が再び凍りつくのがわかった。彼女はゴージャスな美女だったが、残念なことに重度の愛煙家だった。ヘビースモーカーの吐く息はどんなに甘く切なくとも、私に吐き気を催させる。私は嫌煙権論者ではない。煙草をたくさん吸う人よりもその横に立っているだけの吸わない人が肺癌になる確率が高いなどと主張はしない。人通りの多い繁華街の路上をくわえ煙草で歩いている男に「この野郎、危ない真似はよしやがれ」と抗議したりはしない。ただ、悲しいことに私は煙草が苦手な体質だった。私の彼女への想いは、ニコチンと納豆と餃子とレバニラ定食の入り交じった彼女の口臭とともにはかなく消え去った。煙のように。
話が随分と横道に外れた。すいません。
蒲田の二番館に戻ろう。そこは映画を愛する自由人の聖地であり、愛煙家の憩いの場であった。『カメレオンマン』の途中で私は頭を抱えて客席を飛び出したが、いくらロビーで深呼吸しても灰皿のたくさん設置されたロビーの空気は客席と変わらない。結局、頭痛はおさまらず、紫煙たなびく客席に戻ることはできなかった。
おかげで『カメレオンマン』は途中までで諦めた。残念と言えば残念かも知れない。一度見逃した『カメレオンマン』の後半と再び巡り逢うのは困難だ。あの日から二十年、いや三十年、私は未だに後半を観ていないし、これから先も一生観ることはないだろう。だが、後悔などするものか。後半どころか、予告編だけでいやになった映画はたくさんある。私は映画を愛するが、愛がどうのこうのという面倒臭い映画は苦手で、『ある愛の詩』も観ていない。『愛と死を見つめて』も『愛と誠』も『愛のコリーダ』も観ていない。『愛のむきだし』も『愛についてのキンゼイ・レポート』も観ていないが、どうってことない。私が好きな変身怪談の傑作は、なんと言っても『美女と野獣』であり、『初春狸御殿』であり、黒澤明の『生きる』である。
美女に恋する純情な獣人を措いた『美女と野獣』や、人間に変身した狸たちが歌ったり踊ったりする『狸御殿』シリーズが怪奇譚であることに疑いの余地はない。が、黒澤監督の『生きる』は一般には変身怪談と認識されていないようだ。実は古代エジプトのミイラ男が復活するミイラ怪談の巧みなヴァリエーションではないかと私は考えている。生きる屍が自らの死期を知り、苦悩し町を徘徊した挙句に人間らしく変身するというもので、外見をまったく変化させず別人に生まれ変わる志村喬の迫真の演技に、思わず目を見張ったものだ。
ふるえる足取りで映画館を出た私は、頭痛のおさまらないまま、大田区の新鮮な空気を胸いっぱいに呼吸したくて、町をあてもなく彷徨していた。かつての映画の都キネマの天地、マダムと女房、松竹蒲田。つかこうへい原作の舞台劇を映画化した『蒲田行進曲』のテーマソングのコーラスが、きりきりと痛む頭の中を静かに流れていた。好きな歌かというと、全然そうではないのだが。
国鉄蒲田駅からだんだん遠ざかり、閑静な住宅街を歩きながら、私は知らず知らず京浜急行蒲田駅へと近づいていたのだ。突然、視野が開け、エメラルド色の商店街が現れた。同じ蒲田駅と名がついているのに、国鉄蒲田駅と京浜急行蒲田駅はまったく離れた場所にあった。知らない人なら満足に行き着けないだろう。そういえば、新宿駅から西武新宿駅までの道も遠くてよく迷う。ある年の秋、大阪から上京した私の母は、新宿駅西口から西武新宿駅前のホテルへ行くのにうろうろうろうろ、歌舞伎町に迷い込んでしまい、どこをどう行ったのか、新宿二丁目の露地裏にある怪しげな中年女性向け風俗店から脱出するのに三日かかった。本当の話だ。
「嘘です」と母は言う。が、私の母こそ嘘つきだ。子として親を悪く言うのは人の道に外れることだ。でも、そもそも母は人ではない。実を言うと、私の母は豚の化身なのだ。唐の時代、烏斯蔵国の国境にある高老荘で、大地主の婿に来た猪剛鬣という青年は最初は太ってはいるが苦み走ったいい男であり働き者でもあった。ところがある日、急に耳が大きくなり、鼻が突き出した。その顔はまるで豚そのものだった。かつて天の河の天蓬元帥が天上で罪を犯し、下界に追放され豚に生まれ変わったが、もとは天人だけあって神通力のある豚の化け物となり、悪事を働く。この豚が観音菩薩に帰依して猪悟能の法名を貰い、やがて西天取経の唐僧に出会って弟子となり、猪八戒と呼ばれる。
母はそんな由緒ある高貴な豚ではないが、父との結婚の状況は似ている。母はかつては独特のコケットリーを有する美人であったそうだ。大地主の一人息子で世間知らずの父は、いとも簡単に籠絡された。ところが、主婦としての能力もやる気もまったくなく、家事をしないから、我が家はまるで豚小屋のように汚く散らかり放題だった。料理を作るのは死ぬほど嫌いだが、食い意地は張っており、がつがつ食べる。もともと背は低かったが、見る見る横幅が広がって、あっという間に豚の正体が現れた。ただし猪八戒のような中国産ではなく、外見は英国産のヨークシャー種に近い。最悪なのは、性格も知能も豚並で、金の計算ができず、浪費家で金遣いが荒いくせに、欲張りだった。我が家は何百年も続く大地主であったから、父の死後も少なからぬ財産と、大阪郊外の屋敷と広い土地が残された。本来、私が相続すべきものである。愚かなくせに悪知恵だけ働く母は、私を騙して名義を変更し、私の財産を全部横領してしまったのだ。
父の死後、母は狂喜し、父が私のために遺してくれた財産を残らず遣い果たした。貯金が底をつき、先祖から伝わる刀剣宝石書画骨董もなくなると、次々と土地を担保に高利の借金を作っては遊び狂った。破滅型の豚である。
また話が外れた。いやな気分はぬぐいさり、あの日の蒲田に戻ろう。爽やかな早春の午後、私は吸い寄せられるように京浜急行蒲田駅前商店街のエメラルド色のアーケードの入口をくぐっていた。その中にあったのだ。何の変哲もない小さな古本屋が。
初めて行く見知らぬ町の商店街。私は「古本」の看板を見つけると吸い寄せられるように必ず入る。古本屋には何がしか発見がある。新刊本屋に並ぶのは陳腐で日常的なべストセラーの山だけだ。売れる本が必ずしも面白いとは限るまい。売れる本というのは要するに、読書と無縁の、本など滅多に買わない人たちがマスコミュニケーションに煽動され、中身も見ないで後先考えずに買うから売れる本なのだ。もちろん、出版業界を活性化させるベストセラーの存在そのものを悪く言う気はない。私は平日の午後三時にさえ長蛇の行列のできるラーメン屋のラーメンは、昼食時や夕食時にがらがらのラーメン屋のラーメンよりは美味しいと信じている。が、ラーメンはラーメン、本は本、唇は唇、溜め息は溜め息、同列に論じることは不毛だ。結局、新刊本屋のディスプレーはどの店も概ね同じで、京浜急行蒲田駅前の新刊本屋であろうと、西武線所沢駅ビルの新刊本屋であろうと、東京駅地下街の新刊本屋であろうと、際立った違いはない。
ところが古本屋はどの店もまるで違う。入ってみるまで、何が並んでいるかはわからない。見知らぬ町の未知の古本屋には思いもよらぬ本との出会いがあるのだ。ある本を長年探し求めている場合はなおさらだが、私は特に探し求めている本がなくとも、「古本」の看板を見かけると、我を忘れて飛び込んでしまう。一度「古本」の看板を見て飛び込んだら、書物とは無縁の乾物屋だった。「古本」ではなく「吉本」というのがその店の屋号だったのだ。「古」と「吉」とは遠目には区別がつきにくい。店番の老婆にすすめられるまま、ちりめんじゃこを三百グラム購入したが、意外に美味だった。
蒲田の古本屋は小さな店で、入口は開放されていた。それでも慣れていないと気軽には入りづらい。店の奥の帳場に座っていたのが店主なのか、店員なのか、臨時のアルバイトなのか、それはわからない。いや、男性であったのか、女性であったのか、老人だったか、中年だったか、それすら記憶にない。かなり歩いたので、頭のズキズキは晴れていた。私は本棚をさっと見渡した。どこの店でも本はその店のスタイルで分類されている。大きさ別、ジャンル別、著者別、仕入れ順別、そしてそれらの組合せ。それを把握さえすれば、私は自然に私の好む本の場所へと吸い寄せられる。
「あっ」私は小さく呟く。何年もずっと探し続けていた大沼英太郎著『ピンク色の百怪』が片隅にひっそりと並んでいた。思わず抜き取り、裏表紙を開く。鉛筆の走り書きで記された価格は妥当な値段だ。古本の場合、時には定価よりも高い値段がついていることも多い。定価わずか二円五十銭の色あせた本が三千円もすることだってある。この店の『ピンク色の百怪』はかなり安い。とはいえ、惜しいことに、一週間前、私はその本を中野富士見町の古本屋で見つけて買ったばかりだった。不思議なことに、何年も見つからなかった本と、全然別の場所で立て続けに出会うことがある。同じ本は二冊も要らないので仕方がないが、後で見つかった方がたいていずっと安かったりする。この日、蒲田で見つけた『ピンク色の百怪』もやっぱりそうだ。私が中野富士見町で買った『ピンク色の百怪』より五百円以上安かった。
私は『ピンク色の百怪』を棚に戻し、ふと、その横に並んでいる小さな黒い本に気がついた。『ピンク色の百怪』と宇能鴻一郎の『秘本西遊記』に挟まれひっそりと堪えているその本のタイトルが『シュメールの鼠』だった。と思う。が、メモを取ったわけではないので、今では記憶は曖昧だ。覚えているのはそれだけで、著者も出版社も発行年も定価もわからない。私はその本を抜き取り、ぱらぱらとページを繰った。
二十世紀フランスのロマン派を代表する女流詩人マリー・F・シャンタルの出世作『ミシェル、あるいは頭の黒い鼠』における主人公フェルディナン・グリフォンは、過去と未来が互いに矛盾したものとしては知覚されないこの楽園に鼠と同化することによって安住し、精神の健康を取り戻す。
マリー・F・シャンタルがメタモルフォシスの寓意として用いたシュメールの鼠とは、そもそも。
興味を引かれた。『ピンク色の百怪』と『秘本西遊記』に挟まれひっそりと堪えていたその本は、鼠の寓話に関するエッセイだった。だが、私はその本を買わなかった。買おうか、どうしようか、『ハムレット』第三幕第一場における主人公のごとく迷ったことだけは記憶にある。私は『マクベス』第一幕第七場における主人公のごとく優柔不断だった。
マクベス夫人 そうして一生をだらだらとお過しになるおつもり?
内容は面白そうなのに、値段がやけに高かったのだ。私は財布の中身と相談した。腹が減ったので、駅前で豚生姜焼き定食か親子丼もりそばセットでも食いたいところだが、その本を買うと帰りの電車賃がぎりぎりで、定食どころか牛丼もハンバーガーさえ食えなくなる。いずれにせよ、喉から手が出るほど欲しいという本ではなかったので、また今度、蒲田に映画を観に来る機会があれば、その時にでも立ち寄ろう。その日、私は駅前の定食屋で腹を満たして蒲田を立ち去った。
次に蒲田を訪れる好機はなかなか来なかった。蒲田の映画館では時々面白そうな二本立を上映していたが、あの日の頭痛のことを思うと、わざわざ出かける気がしなくて、私は池袋の二番館へ通っていた。池袋の映画館は「場内禁煙」であるばかりか、「酒類の持ち込みおよび酔っぱらいの入場お断り」と入口に明記されており、時折缶ビールをあおる無法な客もいないではなかったが、ほとんどの観客は概ねルールに従順だった。やがて私はVTRを購入し、池袋へも行かなくなった。
だが決してシュメールの鼠を忘れたわけではない。当時、私は杉並区の阿佐谷に住んでおり、日々の散歩の途中に立ち寄る阿佐谷にある十軒の古本屋でも、荻窪にある六軒の古本屋でも、高円寺にある十二軒の古本屋でも、シュメールの鼠に注意を払ったが、とうとう見つけることはできなかった。一度買い損ねた本と再び出会うのは困難だ。一度唇を重ね損ねた美女との再会がかなわぬごとく。
品川区の大井武蔵野館で天知茂主演『女吸血鬼』と池内淳子主演『花嫁吸血魔』と吉田輝雄主演『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』の三本立を観たついでに、二駅先の蒲田まで足を伸ばしたのは、七、八年も後のことだ。私はずっと気になっていた。『シュメールの鼠』というのは私の勝手な思い込みで、ほんとうは別のタイトルだったのかも知れない。はっきりさせるために、私は思い切ってJRで二駅足を伸ばしたのだ。その一週間前に岸田森主演の『血を吸う薔薇』と『血を吸う眼』、松尾嘉代主演の『血を吸う人形』の「血を吸う」シリーズ三本立を観たときは、まっすぐ家路についたのに、映画館の迫力あるスクリーンで『恐怖奇形人間』を観てしまった後では、あっさりと家に帰る気がしなかったのかも知れない。いずれにせよ、蒲田駅に下車するのは生涯で二度目だった。かつての映画の都、松竹蒲田。『蒲田行進曲』のコーラスが『恐怖奇形人間』の土方巽の前衛舞踏と溶け合って、頭の中を静かに流れた。
国鉄からJRへと名称は変わっていたが、駅前はほとんど変わりなかった。というよりも、変化に気づくほど、私は蒲田の町に精通していない。あの日のように夕暮れの町を歩き、私は京浜急行の蒲田駅に近づいていた。あの日のようにアーケードの商店街があり、あの日のように古本屋があった。だが、それはあの日と同じ古本屋だろうか。私にはわからない。もし同じ店であったとしても、七、八年の間に棚の内容は変化しているはずだ。
そこには『シュメールの鼠』も、それに似かよったタイトルの本も並んではいなかった。『ピンク色の百怪』も『秘本西遊記』も棚になかった。
「へええ、すると君は、そのシュメールの鼠とやらを読みたいために、自分自身でそれを書くつもりなのか。ご苦労なことだ」
友は眉間に皺を寄せた。私を非難しているわけではなく、それが学生時代からの彼の癖だった。東中野銀座の裏通りにある小さな居酒屋は、私も彼もかれこれ二十年以上は通っているが、無愛想な店主はわれわれを馴染み客として馴れ馴れしく扱わず、その潔さがうれしくて、つい足が向いてしまうのだった。
「いや、僕もさんざん迷ってのことなのだ。東京中の書店を探して回った。神保町や早稲田も歩き回った。古本屋だけでなく、八重洲のブックセンターへも行ったし、国会図書館へも行った。小金井公園の青空フリーマーケットへも行ったし、東村山市福祉センターのなごやか文庫へも行った。近所の幼稚園のバザーへも足を運んでみた。が、目当ての本はとうとう見つからなかった」
「本探しは徒労に終わったというわけか。ふん、ご苦労なことだ」
ホッピーのジョッキを見つめながら、友は薄笑いを浮かべ、軽く鼻を鳴らした。私を馬鹿にしているわけではなく、それが昔からの彼の癖だった。
「いや、本探しそのものは楽しいのだ。目的は本を見つけることではなく、その過程にある。僕はシュメールの鼠を探しながら、夥しい鼠に関する文献を集めたよ。アガサ・クリスティの『ねずみとり』からイブ・タイタスの『べイジルと犯罪王』、浅野英雄編の『浮世絵女ねずみ小僧』に至るまで」
ボーン、ボーン、ボーン、くすんだ居酒屋の壁に掛かった年代ものの時計が十度、鐘を打った。
「もう、こんな時間か」
友は大きく欠伸をした。私の話が退屈だというわけではなく、それが彼のいつもの癖だった。
「で、どんな内容になるのかね」
「うん。一種の未来小説だな。そこは一元的な価値観に統一された社会で、人間は退化し、鼠に支配されている」
「つまり、『猿の惑星』の鼠版か。時空を越えて帰還した宇宙飛行士が最後にその場所が地球と知って驚くという例の」
「違うよ、違うよ。あんな通俗的な子供だましじゃない。そこは文明の合理的に発達した社会で、人間は過酷な労働から解放されて、気楽に暮している。主食はハンバーガー。飲み物は色のついた甘いソーダ水。娯楽はTV。世界はカラフルで楽しい。が、人は気づかないで鼠に支配されている。普通に生まれて、生きて、死んで行くだけだが、実はそれを巧妙に操っているのが鼠たちでね。人類は鼠の必要に応じて、その餌にされている。つまり、知らないで鼠に飼われているんだ。養鶏所の鶏のように」
「なるほど。娯楽映画マニアの君が考えそうな内容だ。『マトリックス』のコンピュータを鼠に置き換えただけじゃないか。そのからくりに気づいた主人公がヒーローとして悪鼠と対決するんだろ。とすると、元ネタはさしずめホフマンの『胡桃割と鼠の王様』か」
「全然、違う。僕が言ってる未来社会は、実は今のこの世の中のことなんだがね」
古代人は動物の形をした神々を無際限に創造した。とりわけ人間と獣の融合物には、エジプトの犬頭のアヌービス、ヒンドゥー教の象頭のガネーシャ、クレタ島の牛頭のミノタウロスなど獣頭人身のものが圧倒的に多い。メソポタミア南部に多くの都市国家を形成したシュメール人は、鼠の頭を持った人間的な神を信仰していた。ウル王の竪琴には英雄ギルガメシュが二匹の人身の鼠に両脇を挟まれて、足を所在なげにぶらぶらさせている図が刻みこまれている。この鼠頭人身の原型がシュメールの鼠であり、後にテッサリア土着の「頭の黒い鼠」と混同され、人類の観念から生み出されたイメージのうちで、オリエントから西洋世界にもっとも流布したもののひとつとなった。
シュメールの鼠がいつも頭の片隅に居座っていたことは否定しないが、私はその鼠についてほとんど知識を持たなかった。その鼠について書かれた本にいつか出会えるかも知れない。が、一生出会えないかも。そもそも、そんな本は存在しなかったのか。パーソナルコンピュータを購入したとき、マウスを走り回らせてインターネットを隅から隅まで調べてみたが、その本に関する情報はどこにも見つからなかった。買わなかった本の内容は、買った本の内容よりも気になるものだ。ただし、さすがはコンピュータである。異形の鼠に関する記述はいくつか出ていた。もちろんネットの情報をそのまま鵜呑みにはできないが。
「体躯は二十日鼠よりも大きく、象よりも小さい。頭は異常に重いので、普段は地面の方へ傾いているが、特定の音色や香りにすばやく反応するや、天に向かって反り返らせた赤黒い額に皺を寄せ、踊りながら乳白色の唾をぴゅっととばす。こういう事情がなかったら、この獣は人類を絶滅させてしまったかも知れない。というのは、その姿を見た人間は誰でもたちどころに笑い出し、最後には喉を詰まらせ、息を止めてしまうからだ」
ローマ人プリニウスは『博物誌』第八巻四十三章にそう記述している。調和のとれた半人半獣像に吸収される以前の「頭の黒い鼠」は、巨神アトラスに向こう脛を蹴とばされたヘラクレスが苦痛のあまり手近の松の木を根こそぎ引き抜いた時、その根元から生まれ出たとされるテッサリア産の形態の曖昧な二十日鼠であった。
しゃっくりを止めようとして自分のベッドに火をつけたことで、その英雄的な決断力をジョージ三世から高く評価され、宮廷帽子製造人となったサー・アンドリュー・エーギチークは、晩年『猫と鼠の結婚』を著し、シュメール系の「頭の黒い鼠」がヨーロッパに広く伝播した土壌として、地中海系のミノタウロス伝説とゲルマン・ケルト系の「鼠の嫁とり」説話との関連を示唆している。
ミノタウロスはクレタ島にまつわる牛頭人身の怪物であり、いけにえとして毎年九名の若い男女と口直しの飼葉二桶を要求し、後にテーセウスの短剣を咽喉につかえさせて死んだとされている。合理主義的な解釈を好んだギリシャ人は、この神話の由来として、ミノス王の多淫な妃パーシパエーが白くたくましい牡牛に欲情し、発明家ダイダロスに作らせた牝牛の着ぐるみを被ってこれと思いを遂げ、そのために人と牛との混合体が生まれたとする人獣不義交配説をとった。
シェイクスピアはテーセウスの伝説を『真夏の夜の夢』に巧みに翻案し、牛ならぬロバの頭を持つ職人ボトムと媚薬の虜となった妖精の女王タイターニアとが熱い情を交わす場面を丹念に描いている。
一方、「鼠の嫁とり」は魔女の罰により鼠に変身させられた王子と彼に見そめられた処女との異種恋愛譚であり、周知のごとく、鼠と結婚した商人の末娘が柔らかですべすべした指先を巧みに使って彼の皮を剥くことで魔女の呪いを解くという処女と野獣の原型である。時代の流れとともに小さな鼠が大きな野獣へと変遷しても、可憐な娘が指先で巧みに彼の皮を剥く場面は、さほど変化していない。
ヘルメス的伝統の継承者であったサー・アンドリューは『猫と鼠の結婚』において、若くて健康的な人間の処女と、経験が浅く屈折した劣等感の持ち主である若い鼠とが新婚生活で成しうるであろう体位をあらゆる角度から詳細に考察し、彼女が懐胎した際、ミノタウロス的な黒い鼠の頭を持った赤ん坊、すなわちシュメールの鼠が生まれたのではないかと、少々穿った説を唱えている。
(ただし、シェイクスピアは人間の顔、鼠の胴体の異種を想像していた。『ハムレット』第三幕第四場)
十九世紀、象男と呼ばれる人物がロンドンの町で評判になった。ジョン・メリックは母親が妊娠中にサーカスの象に踏まれたことが原因で見るも無残な象男として生まれ、長ずるに見世物の興行で各地を巡業した。実際にはメリックは顔が象、体が人間の半獣半人ではなかった。彼の異様に膨れ上がった頭部は難病によるもので、もちろん母親が象に踏まれたせいでもない。デイヴィッド・リンチ監督の『エレファントマン』は『怪物団』に迫る見世物映画として、物見高い大衆の好奇心を刺激し、世界的な大ヒットとなった。
私は以前、見世物の鼠女を見たことがある。メリックほど脚光を浴びることはないにせよ、我が国にも様々な見世物があった。かれこれ二十年、いや三十年以上前、ある地方の古い祭礼を見物に行った私は、その神社の境内に小屋掛けの見世物を見つけた。アングラ劇団のポスターを思わせる毒々しい絵看板には着物を着て日本髪を結った女の絵姿。ただしその顔は毛むくじゃらで前歯が二本飛び出した鼠そのもの。因果な鼠女の見世物だった。鼠女なんて、どうせインチキに決まっている。顔が鼠で体が人間の女が本当にいるとは思えない。が、それならいったいどんな見世物なのだろうか。
見たい。いや、どうせ眉唾であるにしても、どのようなインチキなのか。血痕が付着した大きな板で、大イタチとか。そんなものならば、話のタネに見ておくのも悪くない。
好奇心を押さえ切れず、私は入口で木戸銭五百円を払って小屋に入った。客はまばらで、薄暗い中、裸電球に照らされてひとりの女がうずくまっている。絵看板は着物だったが、そこにいる女は安っぽいプリント地の浴衣姿であった。若くもないし、美しくもない。顔は全然鼠に似ていなかった。生活に疲れたごく普通の主婦の顔である。解説と場内整理を兼ねた痩せた中年男が何やら説明している。が、そんな説明はどうでもいいのだ。いったいこの凡庸な女のどこが鼠女なのだろうか。満月の夜に変身する映画の狼男のように、なにかのトリックでいきなり顔が毛むくじゃらに変わるのだろうか。やがて女の前に籠が置かれる。中に何が入っているのかは、すぐにわかった。
えっ。これ以上見たくない。が、最後まで見届けなければ。籠には白っぽい生きた鼠が入っていた。女は慣れた手つきで一匹の鼠をつかみ取るや、そのぴくぴく動く頭をガブリと。
鼠に似ても似つかぬ容貌の女が鼠女の看板を出して、しかも観客に五百円の返金を迫られないためには、ここまでするしかなかったのだろう。それにしても思い出すのもおぞましい芸である。食欲が回復するのに数日かかった。その日以来、甘党の私が未だに雪舟庵の最中だけは食べられない。
「親の因果が子に報い」という見世物の口上は、メンデルのエンドウ豆以前に江戸両国で遺伝学に注目した興行師がいたことを示しているが、それはそうと、ヒトと動物の交配によって、果たして新種の生物が生まれるであろうか。かつて、品種改良には交配が手っ取り早かった。ラバはロバとウマが不純異種交配したものだし、レオポンはヒョウとライオンが援助交配した結果だ。養豚場生まれのひ弱なブタ少女が野性のたくましくも粗野なイノシシ青年に一目惚れして、往年の日活映画『泥だらけの純情』のごとく周囲の反対を押し切り、雪山で交配するとイノブタが生まれる。が、遺伝子工学の進歩により、今後は性的接触以外の操作によって、まったく違う種の生物を合成することも可能なのだ。
「こんなこと有り得ない。絶対に間違っている」
というのが、妻がSF映画『ネズミ男の恐怖』を観た感想だった。
物質電送機の実験中、その中に紛れ込んだ一匹の鼠と電子物理学者が合体し、体が電子物理学者、頭が巨大な鼠の怪物が出来上がる。それとは別にもう一方、人間の頭をした小さな鼠が出来上がる。鼠頭の電子物理学者が失われた人格のもうひとつの中心を求めて次々に犯す血なまぐさい殺戮場面よりも、人間鼠が飼い猫のトムから逃げ回る場面に迫力があった。
「いくらでたらめの作り話でもこれは嘘だわ」
妻は何から何まで母とは正反対の女性である。母は背が低くて太っていたが、妻は痩せて背が高い。母は愚かであったが、妻は聡明である。母は家事がまったくできなかったが、妻はなんでもてきぱきとする。ただし、妻にも母と共通する欠点がひとつある。性格が頑なで、常に自分が正しいと主張するのだ。
「鼠が紛れ込むような杜撰な管理体制なら、この物質電送機の内側にはもっと小さな生き物がたくさんいるはずよ。空中にはハエ、床にはダニ、電子物理学者の足の裏には水虫、目に見えない無数のバクテリアもうようよしているに違いないわ。鼠と電子物理学者が遺伝子レベルで混ざってしまうのなら、他の生き物だって混ざるはずじゃない。頭だけが電子物理学者で体は小さな水虫だとか、体は電子物理学者で顔はサナダムシで手足はダニだとか、左手が電子物理学者で右手がケジラミで下半身が大腸菌だとか、そんな混ざり方だってあるに違いない。それらがもっとぐちゃぐちゃに混ざって」
さて、これは私の友人が語ってくれた鼠の話だ。
私の友人は若い頃からありとあらゆるセックスを経験し、多少の刺激では満足できなくなっていた。そこで妻に内緒で新宿歌舞伎町の露地裏にある秘密の館を訪ねた。
「ご注文は」
「とりあえずビール」
「はい」
「それから、なるべくアブノーマルを」
彼が通された部屋には一匹のうら若い雌の二十日鼠が待っていた。アブノーマル過ぎる。私の友人は戸惑いながらも、最初、やさしく二十日鼠を口説こうとしたが、悲しいことに相手が小動物では言葉が全然通じない。二十日鼠はちょこまか部屋の隅を逃げ回る。そこで、力ずくで小さな相手を押さえつけ、有無を言わさず貞操を奪ってしまった。こんな体験は初めてだ。いじらしい小動物を凌辱したことで良心の痛みを覚え、彼はいつになく満足した。
家に帰ってからも、その小さな二十日鼠のことが忘れられない。こんなこと間違っている。かつて変態男は弱い女を苛めた。が、女が強くなると、無抵抗の子供を苛めた。が、子供も生意気になると、今度ははるかに弱い小動物を相手にする。私の友人は根っからの異常性欲者であり、矢も楯もたまらず、再び歌舞伎町の秘密の館を訪れた。
「例のアブノーマルを頼むよ」
ところが、今回の部屋は先日とは異なっていた。薄暗い中で目を凝らすと、数人の男がうずくまり、煙草の煙をもうもうとさせながら、硝子越しに隣の部屋を観察している。硝子戸はマジックミラーになっていて隣の様子が丸見えだった。
私の友人は煙草を受けつけない体質だったので、一瞬、唇をとがらせたが、部屋は薄暗くてだれにも彼の表情は読み取れなかった。仕方なく、彼は先客たちの例にならい、硝子戸の向こうを眺めることにした。
驚いたことに、硝子戸の向こうでは、『真夏の夜の夢』の妖精の女王を思わせる美女が、一糸まとわぬ姿で栗毛のロバと情を交わしていた。
ロバはシェイクスピア作品のボトム、頭だけロバに変身させられた職人ではなく、哺乳類奇蹄目ウマ科に属する完全な本物のアニマルであった。
「すごい」私の友人は思わず声をあげた。
「ふん」隣の男が鼻を鳴らした。
「こんなのたいしたことありませんよ。私がこないだ見た二十日鼠をレイプするやつは、もっと凄まじかったなあ」
かくして「頭の黒い鼠」は抽象的概念をシュメールの鼠によって様式化され、十六、七世紀頃までにはヨーロッパ全域に広まった。古来より、飢餓や伝染病の原因として恐れられたため、「頭の黒い鼠」には死、恐怖、破壊といった数多くの不吉なシンボルを読み取ることが可能だが、毒団子やねずみとりに容易に引っかからない抜け目のなさから、知性の保護者とも見なされていた。
この異形の怪物は余程詩人の想像力を刺激するらしく、絵画や文学作品の多くに影響を与えている。
現在、伝説の楽園の記憶は東京湾沿岸の埋め立て地に再構築され、プラスチックと合成樹脂で型取られた中世の城に、原初の時との接触をめざす巡礼の民が日本全国、いや遠くアジアの各地からさえ連日ひきもきらず訪れる。宇宙の縮図セミラミスの庭を模したこの架空園では、鼠頭人身の幸福の使者「ミカエル」を崇める信者たちが老若男女群れ集い、列を成し、ハンバーガーと甘いソーダ水で飢えと渇きを癒し、売店で限定販売される鼠の頭部を模した帽子やヘアバンドを戴くことによって、錬金術の最後の使徒であり、この異空間の創造者であるアメリカ人マニエリスト、W・Dの霊験をその身に感じることができるのだという。