源吉むかし語り

 へぇ、源吉はあたしです。駄目ですよ、昔のことなんかきれいさっぱり忘れちまった。さかさにしても鼻血も出ねえや。さア、天保九年の生まれだから、今年でいくつになるかね、六十七か八か、そんなところでしょう。この歳で夜店を出しているのは珍しいって? はン、お客にもよく言われますよ。けど、ごらんのとおりの古道具を商って、おまんまをいただくしか能がねえから仕方がない。それでもまア、かかあとふたアり、こうやって無事に生きのびてこられたんだから、神仏に手を合わせなきゃいけませんかね。子ども?

 ハハ、そういや昔いたんですよ。こんな小せえ子どもがね。今頃どうしているでしょう。しかし、こっちは覚えていても向こうは赤ん坊だったから忘れちまっただろうな。第一、向こうだってもう四十じゃ、逢ってもわかりっこねえや。

 

 朴歯ほうばの高い下駄の音が止まった。

「その火鉢を見せてください」

 古道具屋の源吉はその声に、磨いていた瓢箪ひょうたんを置いた。いつものように客の爪先から履物、衣服を眺めてゆき、ぴたりと顔で止める。歳のころは二十五、六の侍が薄縁うすべりの右隅にある火鉢を指差している。懐具合ふところぐあいのいい上客に見えた。

 四谷の笹寺の名で知られるこの長善寺の境内は、賑やかなそぞろ歩きの人影にあふれていた。年明けからいつになく暖かい日和続きで、大道の露店も、植木屋、絵双紙屋、易者、風呂敷売りの間を縫って、焼き芋に甘酒、するめ屋、おでん屋などのそそるような匂いが立ちこめている。

 慶応四年のこの正月、京の鳥羽伏見とやらでひっくりかえるようないくさがあったらしいが、二月に入ってもまだ江戸の町はのどかで、縁日のささやかな楽しみを奪うほどの、差し迫った動きは見当たらなかった。

「その火鉢はいかほどですか」

「ああ、これでございますか」

 源吉は思わず首をすくめて叩頭こうとうした。

 (ほっ、もう目に留<と>まったか)

 嵩高かさだかでいちばん売れそうになかったものに声がかかったので、源吉は内心ほくそ笑んだ。

 その火鉢は昨日、日本橋の富沢町で仕入れたがらくたのひとつだった。

「源さん、頼むよ。助けると思って持っていっとくれよ。なに、お代はいま懐に持ち合わせのおたからでいいからさ」

 と立場の富蔵が袖を引いたのである。

「へえっ、鏡台に針箱、硯箱に火鉢までかい」

「そうなんだよ。さる大身のお屋敷でね、嫁入り道具にこしらえた一式だそうだ。それがこのご時世だろう、急に相手のお侍が江戸を引き払って帰国だというので、婚礼は中止。まあ、公方くぼう様がいくさに負けて逃げ帰るくらいだもの、一寸先はわからねえ。ましてそんなところに嫁にやる親もいねえやな」

「折角だけど、堪忍してくれ。それほどの嫁入り道具なら飛び切りの材料ものがつかってあるだろう。露店の古道具屋の手にゃ負えねえ」

「そんな薄情なこと言いっこなしだ、源さん。え、俺とお前の仲じゃねえか、この埋め合わせはきっとするからさ、いいだろう。衣桁いこう箪笥たんす文机ふづくえは買い手がめっかったが、小せえものばかり残って困ってるんだ。どうだいまとめてこれで」

 富蔵が算盤そろばんを入れた。薩摩蝋燭さつまろうそくの煙が揺れている。

「高けえや、そりゃ高けえ」

「じゃあこれだ」

 富蔵がちょいと玉を動かす。

 そうやって、一時いっときほど応酬やりとりがあった。源吉の粘り勝ちで、

「お前にゃ負けた、持ってけ泥棒」

 とまで富蔵に言われたものだ。

 荷物を積んだ車を引いて帰る道すがら、源吉はいつもの四文煙草ではなく七文煙草をおごった。思いがけない掘り出し物だったので、いい心持で、

 びんのほつれは枕のとが

 と鼻唄まで歌ったのである。

 ところが家に帰って翌朝よくあさ、陽の光の下でよく見ると、底値で買ったはずの道具は、見てくれだけのぺらぺらした安物だった。

 なんのことはない、値切った源吉より、売りつけた富蔵のほうが、役者が一枚上だった。

「どうするんだい、お前さん。またこんな二束三文をつかまされてさ。もう少しましな品を仕入れる眼力がないのかね。その眉の下に光っているのは何だい。それでも目かい」

 女房のおみねは、はっきりした口をきく女だった。ねちねちと裏でこぼされるよりいいと思っていたのだが、それでもこう面と向かって言われると腹が立った。

「うるせえな、ちくしょう。黙ってろってんだい」

「これだ。あたしはね、いつもお前さんがしくじるから、言いたくないことでも心を鬼にして言ってるんじゃないか。たまにじゃアないよ。のべつ損ばかりしてるんだから、え。それに二人だけならともかく、今月から金坊も増えたことだし、しっかりしてもらわなくちゃ、困るんだよ。ねえ、金坊、お前のお父ちゃんはまたしくじっちまったんだって。あきれるねえ」

 おみねは一歳になったばかりの金之助を抱き上げて、頬ずりをした。

 よく喋る女だった。そんなことは言われなくてもわかっている。言わずに耐えるのは女房の役目と思っていたが、連れ添って五年もたつと女はこうも変わるものだろうか。

 ——「女の腹の底はわからねえからな」

「そんなこたア、あるもんか」

「お前はまだ、ほんとうの女に逢っていねえからそんなことが言えるのよ」

「ほんとうの女って?」

「まあ、そのうち正体が知れらア。お前もかかあを貰って何年かしてみろ。そしたら俺の言うことがわかるさ」

 増田という道具屋に奉公していた時分だった。源吉がひとりもので盛んに夜遊びをしていたときに、番頭からそういう話を聞かされた。酒も入っていたが、源吉はそんな馬鹿なことがと、突っかかったものだ。いま思い出してみると、女へのあこがれが観音様を見るように輝いていたころだった。

「女の優しさは、連れ添って一時いっときだ。余計なことを言うようだが、あとは泥沼、こりゃアほんとのことだ」

 四十近い番頭がささやくように言った。その唇の形まで覚えている。——

「聞いてるのかい、お前さん。今日はあたしも普請場ふしんばに手伝いに出なくちゃアいけないから、露店には金坊を連れてっとくれよ」

「わかってるよ」

 源吉はかみつくように返事をしてやった。

 そんなこんなで、今日は金之助を背負い、車を引いて境内にやってきたのである。

 場割りした所にむしろを敷き、その上に薄縁うすべりを広げる。背後うしろの柳を利用して掛軸を掛け、根付ねつけ、筆、硯などは手前に、鏡台、小物入れなどは後ろに並べる。地べたから這い上がる寒気を少しでも和らげるために茣蓙ござを二枚重ねて坐った。膝の前には矢立てと算盤そろばん、左脇にハタキを置くと古道具屋の恰好が出来上がった。金之助は這い出すと困るので、すっぽりと身体が隠れるざるに入れてある。

 日が昇るにつれて寒さも薄れ、源吉は襟巻きを外した。客の足もとを見ながら、酒をつけた布で瓢箪を磨いている。こうすると艶が出てかなりよい値で売れるのだった。

 (昨日の損を取り返して、おみねの鼻を明かしてやらなきゃ)

 源吉は瓢箪に息を吹きかけ、丹念に艶を出していた。

 そこへこの侍のご入来じゅらいである。

 見ればやせぎすで蒼白い顔をしているが、りゅうとした身なりで、懐は暖かそうに見える。これを逃す手はなかった。

「これはこれは、毎度ありがとうございます。さすがに旦那はお目が高い。この火鉢でございますか」

 餌をつける間もあらばこそ、客の方から寄って来てくれるとはありがたい。源吉はもみ手をして愛想をふりまいた。

「えー、その辺りこの辺りの火鉢は一尺ときまっておりますが、これは少し小さめで七寸五分。そのかわり持ち運びが楽でございます。木地は贅沢な桑の無垢、あかの落としがついているという、実に念の入った仕事がしてございます。茅町の名人とうたわれた茂次郎の作か、小物の上手といわれた徳重あたりではないかとにらんでおります。どうぞどうぞ、よく御覧下さいまし」

 火鉢の裏を返せば、ただの貼り合わせで、桑の無垢でないことは一目瞭然である。しかし、そんなことを正直に言ってもはじまらない。こうなったら押しつけてでも売ってやろう、と源吉は強気に出た。

「桑にも色々ございまして、一番と申しますと伊豆七島の御蔵みくら島の桑。これが絶品でございます。次が八丈もの、三宅もの、小笠原ものと続いております。この火鉢はまず渋い光からしまして、八丈ものあたりでしょうか」

「ほう、なるほど」

「嫁入り道具でございます、ちょいとしたきっかけでこちらの手に落ちましてな、どうです。いいお品でございましょう」

「ふむ、そんなに立派な品か。別にそれほど御大層なものでなくてもいいんです」

「折角お買いになられるなら、お得でございますよ」

「いや、いま住んでいるところがちょっと寒いので、ひとつ火鉢を買おうと思ったのだが、さて、どうしょう」

 若侍は考えるようだった。考えるということはつまり、六分がたあきらめようと思う時である。源吉は長年この商売をやっているから、客の心は手に取るようにわかる。

 逃げては困る。ここで逃げられては家に帰っておみねに大きな顔ができなかった。季節も変わる時だし、今をはずすと火鉢の出番はなくなるのだった。えい、死んだ気で売っちまおう。

 源吉は心ならずも、元値で勝負した。

「くちあけでございます。七百にさしていただきます」

「七百」

 若侍は、怪訝けげんな顔をした。

「高こうございますか。ではもうひと声負けまして」

「いやいや、安い、安いですよ。いいんですか、そんなあたいで」

「こりぁ参った。お客様からいいんですかと言われたのは、初めてだ」

「だって桑の無垢ですよ」

 源吉は横鬢を掻いて苦笑した。釣られて侍もくすくす笑っている。

「いいな、やはり江戸はいい」

 侍は軽い咳をした。笑うと咳が出て困る、と続けた。

「は?」

「久し振りなんです。江戸の縁日に出かけて来るのは。それに比べると京は暮らしにくかった」

「ほう、これはこれは。旦那は京においでだったのでございますか。あちらは酒はよし、料理はよし、女がよしだそうで」

「そのようですね」

「なんとかおっしゃって、随分お遊びになったのでしょう、え?」

「それはまあ、色々ありましたが。何しろこういうご時世ですから」

「はあ、いくさはかないませんな。尊皇だか攘夷だか知りませんが、上に立つお方のなさることは我々の考えの外で」

「よし、決めた。この火鉢もらいます」

「あ、そうでございますか。やれやれ」

「え」

「いや、何こっちの話で。どちらにお届けいたしましょう」

「そこの池橋尻の植木屋平五郎の離れと訊けば、すぐわかります」

「お名前は」

「ああ、名前か。うん、そうだな。ええと、井上」

「井上様」

「井上宗次郎といいます」

「お届けは夕方になりますが、それでもよろしゅうございますか」

 そのとき、赤ん坊が目を覚まして泣き出した。

「私の方はいつでもかまいませんが……、泣いてますよ」

「これはどうも」

 源吉は後ろを振り返って、おお、よしよしと笊を揺さぶった。赤ん坊は泣き止まない。

「腹が減ってるんじゃないかな」

 宗次郎と名乗った侍は、気さくに赤ん坊の笊の前にかがみ込んだ。子ども好きらしく、ちゅっちゅっと口をすぼめて鼠の鳴き声をしてみせた。

商人あきんどの子は算盤の音で目を覚ますというから、頼もしいな」

「へえ、そんなことを言うんでございますか」

「ふむ、そのあと武士の子はくつわの音で目を覚ますと続く」

「やっぱりお侍さんは何でもよく知っていらっしゃる」

「この子の名前は?」

「はあ、金之助といいます」

「いい名前だ。おい金坊、もしかしたら、こっちの方か」

 宗次郎は笊から赤ん坊を抱き上げた。

「ほら、べちょべちょだ」

「あっこれは、これは」

 源吉はあわてて頭陀袋ずだぶくろを探り、風呂敷つつみから、おしめの替えを取り出した。

 (一時たったらちゃんと取り替えておくれよ)

 とおみねが言ったのに、仕事にかかってすっかり忘れていた。

「どうも、男親というものは気がつかなくていけません」

 取り替えようとしていると、年寄りの客が源吉に声をかけた。

「おいおい、灰落としのついた根付はないかね」

「はいただいま、それならここにございます」

 源吉は中腰になった。赤ん坊は泣いている。こういうときにかぎって間が悪いものだ。

「わたしがやってあげよう。お客さんを見てやりなさい」

 宗次郎が笑みを浮かべた。

「いえ、それではもったいない」

 すまながる源吉に代わって、いいからと宗次郎がおしめを取り上げている。源吉は目顔で礼を言った。

 やがて、うまく根付が売れた源吉は恐縮して頭を下げた。

「いや、お侍さまにそんなことまでさせて申し訳ございません」

「気にすることはない。どうせ暇なんですから」

「おそれ入ります。旦那の前ですが、実はね。この子は貰子もらいっこなんでございます」

「ほう」

「かかあと一緒になって五年になりますが、水天宮様や子安地蔵様に願掛がんかけしてもちっとも産まれねえ。しかたがないんで先月、口を利く人があったので、貰ってきたばかりなんでございます」

「それでなのか。なんとなくあやすのも、おっかなびっくりの様子だから、おかしいなと思った」

「あ、わかりますですか」

 源吉は赤ん坊を受け取り、よしよしと背中を叩いた。天龍寺の鐘が鳴っている。

 さっぱりしたので赤ん坊は泣き止んだが、今度は音を立てて親指を吸いはじめた。

「やっぱりおなかも空いているらしい。どこかで何か買ってこようか」

「いえいえ、大丈夫でございますよ。食べ物ならここに」

 源吉は袋を上げてみせた。

「干し芋がございますから、これでなんとかなります」

 おみねに言われたとおり、源吉は芋を口に含んで柔らかくしてから金之助に与えた。

「食べますね」

「これが好きでね。よく食べるんですよ」

 するとまた野太のぶとい声がした。

「おい、おやじ、その不動尊の掛軸をみせてくれ」

 忙しいときにまた客だった。宗次郎は源吉の芋を取り上げて、

「やってあげましょう」

 とうなずいてみせた。

「そうですか、すみませんね」

 源吉は掛軸の客の方を振り返った。

 

「今日は旦那にすっかりお世話になっちまって。面目ございません」

「気にすることなんかありません。気晴らしで出かけてきて、思いがけず火鉢は手に入ったし」

「いやア、そう言われるとますます面目ない」

「今に金坊が大きくなったら、親孝行してくれますよ。だいいち名前がいい、金之助だなんて分限者になりそうだ」

「それがね、こいつは去年の一月五日生まれだそうで、この日が庚申こうしんの日。それで貰われるときも名前はかえない約束なんでございます」

「どうしてです」

「どうしてって、あれっご存じねえ。お侍でも知らねえことがあるんですか。庚申の日に生まれた子は大泥棒になるって、昔っからの言い伝えでして」

「へえ、初耳だ」

「それで厄よけに金の字をつけて、金之助」

「ひとつ、利口になった」

 宗次郎はなるほどとうなずいた。

「ここだけの話でございますがね、この坊主はおれたちみてえな古道具屋のせがれにはもったいねえ。なにしろ牛込馬場下の町方名主を務める方の息子なんでございます」

「ほう、それはまた。そんな立派なうちの子どもが、どうして養子なんかに」

「それなんですよ、おかしいと思ったんです。うちのかかあがそれとなく訊いてきたところによると、なんでもこの子の母親が四十過ぎだったもので、こんな歳で産んでは恥ずかしいと言ったとか」

「それで養子に出したのか」

「まア、ご縁があったんでしょうな」

 源吉は金之助を揺すり上げた。腹がくちくなったとみえて、赤ん坊はうとうとしている。

「子どもは罪がないな」

 宗次郎が静かに笑った。

 

 青縞の単衣ひとえが背中に貼りついている。源吉は手拭を出して首の汗をぬぐった。相変わらず寺々の縁日をまわって、その日暮らしに追われているが、五月の上野のお山のいくさ以来、人出はめっきりと落ちていた。

 (今日くらいは見えるかと思ったのだが)

 源吉は念仏堂の向こうを透かしてみた。火鉢を届けてから、あの井上宗次郎という侍がときどき覗きに来てくれる。どこが気に入ったのか、小さながらくたをよく買ってくれた。なんでも、過労がたたって植木屋の離れで、養生しているという話だった。

 この間などは、

「食べ切れないから、金坊にこれをあげて下さい」

 と卵を沢山もたせてくれた。

 (そういや、この頃、ちっとも顔をみせねえな)

 そのうち掘り出し物があったらお礼をしようと思いつつ、うかうかと日を送ってしまった。先日まとめて買った柳行李のなかに、読本が二、三冊まぎれて入っていた。寝てばかりで退屈だろうから、見えたら渡そうと思って待っているのだが、宗次郎は一向に姿を現さなかった。

 (よし、帰りにでも寄ってみるか)

 出職の大工や左官が仕事をしまう七つ半に、源吉も露店を畳んだ。たまには早仕舞いの日があってもいい。水車の横を通り、それが目印の大きなくすのきの前に車を止めて、源吉は奥の離れを覗き込んだ。人の気配がなく、戸締まりがしてある。

 (引っ越しでもしたのか)

 源吉は表へ回って植木屋の大戸を叩いた。

「ああ、井上様のことですか。お気の毒に先月の末に亡くなられました」

「亡くなった」

 源吉はごくりと唾を呑んだ。そういえば、ずいぶん顔色が悪かった。ときどき咳込んだりしていたから、労咳ろうがいだったのかもしれない。

 植木屋の女房は前掛けで手を拭きながら続けた。

「何か、かかわりでもあるなら、知らないふりをしていたほうがいいようですよ」

「は?」

「なんでもね、京の都で悪名高い新選組の幹部だったそうですよ、あのお人は。あんな優しそうな顔をしているから、まさかと思いましたがね」

「新選組」

「そのなかでも、一番の遣い手の沖田総司という人だったんですって。あとで聞いて慄えましたよ」

 源吉は何がなんだかわからずに、そそくさと頭を下げた。

 新選組だの遣い手だのと聞いても、さっぱり意味がわからない。植木屋の女房が声をひそめて語ったくらいだから、お尋者たずねものなのかもしれないが、源吉の見るところ、そんな人目を忍ぶ様子ではなかった。ただ、子ども好きで、金之助の世話をしてくれたことがありがたいと思っただけなのに、どういうことなのだろう。

「人はみかけによらねえっていうからな」

 いつものように湯屋へ行った。

 武者絵のある石榴ざくろ口をくぐると、大工の長三郎に会ったので、ちょっと声をかけてみた。

「長さん、お前、京の都の新選組って知ってるかい」

「おい、そんな大きな声を出すんじゃないよ。どこで誰が聞いているかもしれねえ」

「え?」

「残党狩で官軍きんぎれがうるせえから、もっとこっちへ寄りな」

 長三郎は手拭で背中をこすりながら、低声こごえでぼそぼそと喋った。湯の中で誰かが都々逸どどいつを歌っている。

「新選組といやア、ついこの間まで京の町で泣く子も黙ると言われた鬼の集まりよ」

「鬼の集まり」

 源吉は首をかしげた。あの侍が鬼だろうか。第一、泣いていた金之助をあやしてくれたのではなかったか。

「四年ほど前の池田屋の話。知ってるだろう」

「ああ、斬ったはったのあれかい」

「三条は小橋の池田屋に、勤皇の志士が集まって、なんと京の町に火をつける談合をしていた、てんだから恐ろしい」

「へえ、めっぽう派手なことをやるもんだ」

「その火をつけたどさくさに紛れて、おそれおおくも天子様を長州まで担いでいこうという魂胆だったが、そうはいかねえ。会津肥後守様御預おあづかりの新選組が池田屋に斬り込んで、長州、肥後、土州としゅうの侍を、ばったばったと斬り斃し、その数知れず」

「おい、それじゃ万屋よろずやの講談だ」

「なにしろ凄かった。まず隊長の近藤勇に副長の土方歳三ひじかたとしぞうだろう。これが強え」

「そんなに強えのか」

「それから一番隊組長の沖田総司、これがまだ若えのに撃剣やっとうがうまい」

「出た」

「え、出たって何が、幽霊かい」

「いや、その沖田ってえ人は強えのかい」

「ああ、そりゃアただごとじゃアなかった。鬼神もかくやあらんいう形相ぎようそうで、斬っては突き、突いては斬り……」

 長三郎はいつの間にか、あわを飛ばして喋っている。誰が聞いているかしれねえと言ったことは、すっかり忘れているようだった。

 

 その夜は長三郎の話に熱をあげて、すっかり長湯をしてしまった。帰る道々、源吉は湯上がりの火照った身体に風を入れた。額にしたたる汗を手拭でふいた。どこから飛んでくるのか、蝙蝠こうもりがひらひらと舞っている。柳の下をくぐり、鳥のような素早さで沈み、また舞い上がっていく。源吉は足を止めてしばらくそれを眺めていた。

「まったく、人はわからねえな」

 源吉はふとつぶやいた。世の中には、源吉の知らない恐ろしいことが、まだまだあるようだった。剣を振り回して人を斬るなどと、思っただけで目が回る。小心翼々と暮らしてきた人間には、新選組の話は百鬼夜行の世界に思えるのである。

 (古道具屋でよかったよ)

 常日頃、なんの因果で古道具屋なんぞと不満を並べたものだが、今日ほど商人でよかったと思ったことはなかった。がらくたを売ったからといって、命をやりとりするわけでもなし、女房の小言がうるさいといっても、柳に風と受け流せばいいのだ。

 (おみねだって、それほど悪い女でもねえか)

 蝙蝠のように気ままには飛べないが、女房と金之助がいてくれるだけでありがたい、と気がついたのである。

 金之助はよちよち歩きをはじめたところで、日増しにかわいらしくなってきている。

 (これで、晩酌の一本でもありゃ、御の字だ)

 そういうあたりまえの暮らしが、かけがえのないもののように思えて、源吉はゆっくりと頭を振った。

 

 大正四年、夏目漱石は朝日新聞に連載した「硝子ガラス戸の中」にこう書いている。

 ——私は両親の晩年になってできたいわゆる末ッ子である。私を生んだ時、母はこんな年をして懐妊するのは面目ないと言ったとかいう話が、今でもおりおりは繰り返されている。

 単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生まれ落ちるとまもなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人ののち聞いてみると、なんでも古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。

 私はその道具屋のがらくたといっしょに、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店にさらされていたのである。――