映画と文藝 日本の文豪が表象する映像世界

はじめに

 『映画と文藝 日本の文豪が表象する映像世界』は、外国映画化された日本の文豪の文学作品とその映画化を論じる。

 ここで取り上げる文学作品が超一流であることは疑いもないが、その映画化は、優劣において、好悪において、さまざまである。一般に原作がすぐれていればいるほど、その映画化が原作を凌ぐのはむずかしいとされる。

 だが、映画には小説の出版以上に制約される厳しい事情がある。文学作品の映画化は、文字による芸術を、役者の肉体を使った演技によって表現されたものをカメラで記録して新たな表現形式に変換するのだから、原作通りのイメージがそのままスクリーンに映ることは常に期待できない。読書という無限の時間をさくことを許される活動を、銀幕上の作業はわずか二時間前後でまとめあげなければならない。映画化においては、スタッフやキャストへの支払い、ロケのための経費、映画に必要な背景、衣装や装置を整えるための費用、それに原作者への著作権も含めて莫大な費用が生じる。何千万あるいは何億円という費用を捻出するプロデューサーの確保が先決であるが、最終的にその出費を赤字にしない観客数の確保ができなければ破綻する。経済的には、映画は出版以上に大事業である。小説が読んでもらわなければならない以上に、映画は見てもらわなければやってゆけないビジネスなのである。それゆえ、よほど強力な経済的後ろ盾がある場合を除いて、映画は観客の嗜好を意識して製作しなければならない。そのうえ、文学作品の映画化は、原作者が存命であれば心強いとばかりは言えず、原作のニュアンスとは違うとか、あの女優、あの男優が演じるのは嫌だとか、原作者の思い入れゆえに映画化の障害になる場合もあると聞く。

 このように幾重にもわたる困難を抱える文学作品の映画化に意味があるかと言えば、大ありである。観客は、お気に入りの文学作品の映画化を待ち望んでいるからである。映画より原作の方がよかったと感想を漏らす観客は、それでも映画化それ自体を喜んでいる場合が多い。自分の読みを映画化と比較検討できたからである。活字によって頭の中で描いていた印象が、役者の姿と具体的な景色や背景を伴った映像によってビジュアルに確かめられたので、自分の読みに自信がついたり、映像化によって自分だけの読書では気づかなかった点にはっとしたり、まったく別の角度からの解釈を教えられることもある。映画は舞台となる場所でロケを行うことが多く、綿密な時代考証を経た建物、家具、衣装等によって小説の背景を忠実にリアルに再現するので、読書の裏付け、是正をしてくれる。さらに、忙しい現代人は、読書の時間はないけれど、二時間程度ですめば映画で小説を読む手間に変えたい、その方が楽だし、知らないよりはいいでしょ?と思う。その結果、映画が気に入ると、原作を手にとってしまう。それだから映画化が決定した小説は、映画の写真入りの帯がついて書店に並ぶわけである。このように原作から映画の流れは、一方通行ではなく、双方通行である。

 本書の挑戦は、外国で映画化された日本の文豪の小説を原作および日本の映画化と比較して論じることにある。外国での映画化に際して、製作者も出演者も日本での映画化を当然参考にしたと思われるが、中には外国だけで映画化された作品、清少納言の『枕草子』や三島由紀夫の『午後の曳航』がある。

 目次を見ると、妖艶で怪しく、不気味というか、怪奇にして華麗なデカダンスに満ちた作品がひしめいている。日本文学がすべて妖艶な変態的傾向の作品群で構成されてきたわけではないのに、外国で映画化された日本の文学作品は暗い官能の甘美に満ちたものばかりが選ばれている。小説家の田中慎弥は、川端康成の『虹いくたび』を評して「日本文化そのものが妖美ようびと奇怪と変態に彩られているのだ」(『虹いくたび』解説)と述べるが、外国人の眼にも同様に映ったのに違いない。西洋の人々にとって、日本は依然として東洋の神秘をまとう遠い国と映り、そういう非日常の妖しい日本の世界に心を遊ばせることを西洋の人々は密かに望んでいるということになる。しかし日本文化の特徴をうす暗い妖しさに見るのは、外国人の錯覚や偏見とは言い切れないのも事実である。谷崎潤一郎は随筆『陰翳礼讃』で、日本人の芸術的感性と美意識は、陰翳の中にこそ存在する、朦朧たる薄暗闇の中の陰翳を認め、陰翳を生かすことによって育ったのであり、日本の美は闇との調和によって生みだされた、と説いている。谷崎は日本家屋独特の薄暗い陰翳と座敷の暗さに触れているが、気密性と機密性の低い、薄暗い家屋の暗がりの中で魑魅魍魎が徘徊する奇怪な空想が日本の文学に集結したともいえる。谷崎の言う部屋の陰翳なくしては、本書で扱う名作の数々は生まれなかったかもしれない。

 また本書の文豪の多くが活躍した20世紀は、サイコロジーとその応用が盛んな時代だった。谷崎、川端、三島の小説に表れたSM嗜好、人格分裂、母性への固着は、フロイトを始めとする精神分析学者がその原因を明らかにして人間の理解を深めようと苦心してきたテーマでもある。日本の文豪は、日本らしさを誇り、日本人のアイデンティティを表明するが、このことはとりもなおさず万人が隠し持つ心の闇の追求に他ならなかった。近代の日本文学者は、欧米経由の精神分析を熟知して、人間の陰の部分への研究を怠らず、関心を深めていた。ほの暗い日本家屋の闇にも似た人間の暗い部分の描写と精緻な分析に、外国の映画関係者は理解を容易にして深く共感したに違いない。

 陰翳礼讃に満ちた大文豪の小説とその映画化についての理解を深め、楽しんでいただければ幸いである。   

第三章 江戸川乱歩「陰獣」 闇に葬られた欲望

1.窃視者の欲望

 映画におけるシーンは、すべてカメラのレンズを通して行動(アクション)を観察する時空の点、つまりカメラの視点によって映像化され、観客に享受される。観客はこのカメラの眼から物語を見て感覚を刺激され、物語に感情移入するように映画は仕組んでいる。映画が内包する物語の視点、つまり物語の見方は、あらかじめ監督を主とする映画の作り手によって、ある程度決定されていると考えなければならない。

 映画「陰獣」は、小説の映画化という間テクスト性(インターテクスチュアリティ)を前提に成り立つアートであるから、映画の背後にはさらに原作者の江戸川乱歩の視点が潜んでいることになる。映画「陰獣」の特徴として、視線を投げかける担い手がすべて男性だという事実が挙げられる。原作者の江戸川乱歩は、男性上位の明治時代末期の日本に生まれ、昭和の半ば過ぎまで活躍した生粋の日本男児である。三本の日本映画と一本のフランス映画は、昭和末期から平成において製作された比較的新しいものだが、それらはすべて、男性の監督によって撮られ、製品化された。つまり「陰獣」は徹頭徹尾、男の視線が支配する作品だといえる。その結果、映画「陰獣」のカメラのファインダー(カメラの構造を決める時に使う覗き窓)は、男の「見たい」という視線の欲望が充満することになった。観客は、乱歩を含めてそれぞれの映画監督が見た覗き窓から、作り手の好みどおりにかたどられたフレームから物語を再度覗き見して、楽しむ構造に作られている。

 「陰獣」は、幾通りもの「覗き見」を許す映画だ。第一の覗き見人は、雑多な現実という現象を窃視者の視点で、興味ある素材を切り抜き、編集し、物語に仕立て上げた原作者の江戸川乱歩、第二は、乱歩の小説から、必要な事物を選別して映画化した監督を始めとする映画人である。第三は、小説内の人物としての覗き魔の大江春泥であり、第四番目は、言うまでもなく、すべての物語を観客席から鑑賞する観客である。

 映画「陰獣」の覗きのからくりが出色であることが明白になるのは、この作品のモチーフであり、映画内の登場人物である謎の探偵小説家、大江春泥(つまり平田一郎)の視線がナレーター「私」である探偵の寒川光一郎のそれと重なる瞬間である。大江春泥の天井裏の穴からの覗き見に脅えた小山田静子は、全く同じ位置から同じフレームで自分を覗くように寒川を巧妙に仕向ける。「私」が覗き見を実行に移した時、大江春泥の窃視者の欲望は「私」に乗り移り、映画が始まった時点での登場人物のアイデンティティと役割分担は崩れ、混乱をきたし、現実と虚構が反転する。大江春泥のヴォワイユーリズム(覗き見)の快楽は、寒川である「私」に重なり、「私」の視線は「私」を背後で操作してきたオフ・スクリーン・スペース(スクリーンの外の空間)にいる、監督と原作者の江戸川乱歩の視線の欲望を暗示するに至る。作品の種明かしになるが、大江春泥は、小山田静子の隠れ蓑としての架空の人物であり、存在しない存在である。静子を監視する春泥の視線は虚構であり、現実に静子を覗いていたのは、寒川本人である。覗き見をやめさせる目的のもとに、寒川が覗き見役を代行し、独占したことになる。

 覗き見によって性的快楽を満足させる倒錯者の大江春泥は、静子に捨てられた昔の恋人、平田一郎だと静子は言う。しかし春泥は現実には存在しない、ジェンダーを飛び越えた静子の文壇向けの偽装工作としての架空の存在である。探偵小説の大御所である寒川は、その事実を知ることなく、怪奇と幻想を売り物にして、俄かに人気を博した大江春泥の作風をけなしたので、春泥こと静子は、密かに傷つくことになる。だが寒川のライヴァルの大江春泥には、原作者の乱歩の影が投げかけられている。作品中のすべての登場人物は、煎じつめていくと原作者の江戸川乱歩に収斂される。登場人物は、なんらかの形で作者の影法師であり、作者の分身であることは必然だ。しかし、映画「陰獣」を鑑賞する観客は、原作者がスクリーンの中にこっそり潜んでいたうえに、知らないうちに虚構の世界から這いずり出て、自分の隣の座席に身を潜めているような錯覚を覚える。観客は本物の「陰獣」は原作者の江戸川乱歩自身だったのではないか、乱歩は物語を観客に見せると言っておきながら、実は自分の作った物語を見ている観客の背後に潜んで、観客の反応を覗き見る快楽にほくそ笑んでいたのではないかと脅える。ここで見る側に属すと思っていた観客の優越感は崩れる。見られる側のスクリーン内の小山田静子の偽装された恐怖と被害者意識(本当は、静子は見られることを期待し、楽しんでいた)と観客のそれらとが重なり、現実と虚構は逆転し、見る(対)見られる、あるいは観客(対)スクリーン内の人物、の二つの世界の垣根は崩される。

 覗かれる被害者を装っていた静子は、自分の美しい肉体を露出して、天井裏の穴から覗き見させることによって相手を幻惑し、くわえ込むことをたくらむ。静子の正体は、露出狂の見世物としての「蜘蛛女」(「陰獣」334) であることを観客は最後に知らされる。しかし、静子は、敬愛し、性愛の対照に選んだ寒川に正体を見破られて、自殺する。つまり、女性作家の静子の存在は、人知れず、寒川に吸収されて消滅する作りになっている。ここでも、乱歩を含めて映画製作に関わる側の観客に仕掛けた罠が効力を発揮する。究極の露出狂は、乱歩自身であり、映画製作者一同であり、窃視の快楽を貪っていたのは、観客自身であることになる。映画というメディアを通じて、製作者も観客も視線に関わる架空の犯罪に加担することになるのだ。

 乱歩を含めた男性の映画製作陣は、自分の覗き見への禁じられた欲望をスクリーンに投影して露出させ、その映像を有料で覗き見させることによって、観客も窃視という犯罪行為の共犯に仕立てた。しかし、時代を経て生き延びることができる書物と映像は、新たな観客をその時々獲得することが可能である。昭和初期、あるいは30年前の観客には見えなかったものが、21世紀の観客の網膜を通して伝わることもある。「陰獣」を小説化した当時の枠組み、映像化した男性陣がスクリーンからとりこぼしたかもしれない情報を後の時代の観客は、想像によって再構築することも可能なのだ。実際にスクリーンに映る像とカメラ(特にコンパクトデジタルカメラ)のファインダーに見える像の間には視差(パララックス)が生じるというが、「陰獣」においてもそれはあてはまる。昭和初期の読者あるいは70年代の観客にはっきりと見えてこなかったもの、時代という視差によって作品および映像画面の外に追いやられて、認識されなかったものがある。それは、男性側の欲望に覆い隠されて、外側からしか描写されていない「闇に葬られた女の欲望」である。窃視者としての男性の欲望の対象でありながら、作品において十分に明らかにされていない被写体として裸体を披露した女自身がその肉体の内部に抱えていた欲望である。「陰獣」は女の自我の叫び、自立への渇望、性の解放への女側の欲望の存在に触れ、この幻想的探偵小説の中心的謎である秘密という重要な位置づけを与えながら、その中身を検証し、内奥に到達して探るという踏み込み作業をしていないのである。

2.闇に葬られた女の欲望

 江戸川乱歩は、「陰獣」のナレーター「私」であり、探偵小説家である寒川に、しとやかな令夫人を装う悪女、男を肥やしにして小説を密かに描き続ける、一人三役の妖艶な毒婦の小山田静子を以下のように描写させる。

 僕は思い当たることがありますよ。いつか或る批評家が春泥の作を評して、女でなければ持っていない不愉快なほどの猜疑心に充ち満ちている。まるで暗闇にうごめく陰獣のようだといったのを思い出しますよ。あの批評家はほんとうのことをいっていたのですね。(中略)だが、あなたがどうしてあんな怖ろしい罪を犯す気になったか、その心持は男の僕にはよくわからないけれど、変態心理学の書物を読むと、ヒステリイ性の婦人は、しばしば自分で自分に当てて脅迫状を書き送るものだそうです。(中略)自分が化けていた有名な男性の小説家から、脅迫状を受け取る、なんというすばらしい着想でしょう。(「陰獣」390)

乱歩の分身である寒川の言う「闇にうごめく陰獣」の欲望こそが、この作品のテーマであり、筆者が興味を惹かれ、本稿の標的に定めた点である。

 「幻想怪奇」を特徴とする乱歩は、日常に潜む非日常の闇の世界の恐怖を耽美的デカダントな言葉の綾をもって、幽玄に、妖しく、危うく描く。光にたとえられる科学的合理的知性が、闇の領域の幻想的妄想と格闘せざるをえない状況、光の下では淑女に見えるが闇の中では悪女、悪が善に敗北したように見せかけて悪の所在への疑念を提示しながら、永遠の闇の中に真実を封印する構造を用いて、読者を煙に巻く。乱歩の世界では、事物も登場人物もすべて見た通りではない――太陽の指す合理的昼間の世界は、その対極にある夜の世界が持つ秘密に触れたことによって、一変する。突然昼の見慣れた世界は、歪み、変質する。主人公が「うつし世は夢 よるの夢こそまこと」(乱歩の好んだ言葉)と認識した瞬間に、読者の視覚までもが歪められ、正常と異常、現実と妄想の境界線は取り払われ、それまで安全に区切られていた二つの世界は、行き来の可能なフリー・ゾーンに変貌する。

 「陰獣」の「私」である寒川は、淑女の仮面を被った悪女にして才女の小山田静子の奸

計による危うい関係を「魅力ある遊戯」(「陰獣」390)とみなし、「同じ猟奇の徒」(「陰獣」390)として怖れ怪しみながら、静子の「あやつり人形」(「陰獣」391)になって楽しんだ。静子の妖しい魅力に惑わされ、情念の虜になって理性の力を鈍らせた寒川は、持ち前の合理的推理力を呼び戻して、静子の素顔を暴き、理性を取り戻して宣言する。

 「僕はこのひと月ばかりのあいだ、あなたのお蔭で、まだ経験しなかった情痴の世界を見ることができました。そして、それを思うと、今でも僕はあなたと離れがたい気がするのです。しかし、このままあなたとの関係を続けて行くことは、僕の良心が許しません…..ではさようなら」 私は静子の背中のミミズ脹れの上に、心をこめた接吻を残して、しばらくのあいだ彼女との情痴の舞台であった、私たちの化物屋敷をあとにした。(中略)私はからだじゅう無気味な汗にひたりながら、そのくせ歯をカチカチいわせて、気ちがいのようにフラフラと歩いて行った。(「陰獣」392-93)

 乱歩が「陰獣」において発掘した後、また隠ぺいした「闇に葬られた欲望」とは何なのか。本論では、「陰獣」の映像化――3本の日本の映像と1本のフランス映画を比較検討する。「陰獣」における「闇に葬られた欲望」、とりわけ「闇に葬られた女の欲望」の正体を異文化理解の視点によって明らかにする。

邦画「陰獣」

 3本の日本の映像(映画版1本とTV版2本)が共通して画面に表したのは、静子のサディズムとマゾヒズムの嗜好と、「私」を名乗る探偵の寒川が静子に請われて静子を覗くシーンである。この二つの場面を中心に年代順に日本で映像化された「陰獣」について述べ、その意味を考察する。

「陰獣」1. 香山美子、あおい輝彦主演、1977年

江戸川乱歩の「陰獣」DVD

スタッフ/ 監督:加藤泰、脚本:加藤泰、仲倉重郎 

キャスト/ あおい輝彦、香山美子、加賀まりこ、野際陽子、田口久美、花柳幻舟、倍賞美津子、中山仁、尾藤イサオ、菅井きん、仲谷昇、藤岡琢也、川津佑介、若山富三郎 他

松竹、1977年、発売&販売/ 松竹株式会社映像商品部

VHS: 内容は上と同じ、1995年、松竹ホームビデオ

 香山美子版は最初の場面から、男性性と女性性のコントラスト、そしてジェンダーの境界線への疑いを暗示する。最初に画面に現れるのは、金色に輝く、ふくよかな女体を思わせる仏像である。しかし、仏像は女性に見えても、性別を特定できない存在であり、視覚のみを信じていいのかという疑いを呼び起こす。仏像の美しさにみとれる着物姿の探偵作家「私」(寒川)役のあおい輝彦の独白が流れる――「先頃現れた大江春泥というような男である。私は軽蔑する。不賛成である。私は本格派探偵小説を目指して世界の作家に挑戦する」と雄々しく告げる。きりりとした美男の寒川は、自分の男性性を強調したうえで、春泥に男同士の競争意識を露わにする。ここで寒川は、春泥の性別に関する先入観を観客に植え付けようとする。美術館を出た直後の寒川がすれ違いざまにその美しさにみとれる対象は、白い和服に日本髪を結った、小山田静子である。女に見える仏像に次いで、人間の静子の女性美に幻惑される寒川という構図が存在する。この二場面は、寒川が女性美の極致だとみなしたものが本物の女性だったのか、特に静子は当時のジェンダー(文化的意味合いにおける性役割)において女性だったのか、というドラマチック・アイロニー(観客が承知していることが登場人物にはわからない皮肉な状況)を提示する。寒川の女性を見る目の不確かさは、列車の中で浮かれ騒ぐ女性写真記者が、寒川に「女が描けないってことよ。女を知らないってこと、あんた恋愛経験がないんじゃないの」とからむ場面が裏付ける。後日、寒川は、古本屋の店先で、静子とぶつかって、その白いうなじに刻印されたみみずばれにはっとする。その直前の何気ないシーンでは、日本の幽霊の画集を寒川が悦に入って購入しているが、これは寒川の怪奇幻想嗜好を表わすと同時に、次の場面に表れる静子の不気味な正体を暗示する。

 静子の傷は、夫の小山田六郎のサディズムのせいである。実業家の小山田は、出張先のロンドンで、美女ヘレンからサディスティックな性行為を学ぶ。日本に愛人として同行したヘレンは、碁を打つようになるが、碁石を置く時の「パシッ」という音が鞭の響きに似ているので、マゾヒストのヘレンには碁をうつことは、たまらない快楽である。

 日本髪を結い、真っ白な背中を鞭うたれる静子の顔が正面から映り、静子の悲鳴と共に画面は変わる。汽船発着所の便所の水面から開かれた目をした死体が浮かび上がり、身元が小山田六郎であることが判明する。はげ頭をさらす死体になった小山田氏と鞭うたれる静子、つまり小山田夫妻の寝室でのSM(サド・マゾ)プレイとの関連性は、推理の進行上明かされず、画面上の暗示にとどまる。

 「陰獣」に登場する女性は性的欲望が旺盛な女性が多い。小山田静子はしとやかな外見にもかかわらず、ニンフォマニア(色情狂の女)である。静子は、静子が殺害したかもしれない少女時代の愛人の平田一郎を相手にするのにとどまらず、夫とのサド・マゾ・プレイ、寒川への積極的アプローチに及ぶ。静子が金で買った偽の春泥と平田役を演じる三文役者の無言の青年の市川荒丸との愛欲の場面に静子の性欲の激しさの一端がうかがえる。静子は不細工な大江春泥夫人に変装して、丸眼鏡をかけ、金歯をはめ、こめかみに膏薬を貼って、汚い着物で、あばら家の藁の上に死体のように横たわり、薄汚いパンツをはいたこの青年に乗っかられての機械的性行為を無表情に享受し、その料金を支払う。静子は純愛だけでなく、変態セックス、疑似レイプの機械的性行為など、あらゆる性的遊戯に参加し、有償でその機会を楽しむ。小山田邸に雇われている平凡な女中の初代も隅に置けない。この女は、無口で無表情で乱暴者の運転手の青木に密かに惚れて、雇い主の眼を盗んで、逢引きを楽しむ――「あたし、青木さんが好きでした。それで昨夜はどうしても会いたかったんです。会いたかったんです」と刑事に告白する。また、小山田六郎が溺死体となって発見される汽船発着所の便所の第一発見者の老女も、いくら鍵をかけても開いてしまう便所の扉の前で、船賃の支払いを求めて追ってきた男の車掌に向かって「あたしゃ、おしっこ!なんだい、この人はいやらしい。あたしがおしっこするとこ見ようってのかね。出歯亀!」とわめく。菅井きんの老女は、小気味よく、ユーモラスだが、この老女も窃視へのオブセッションにとりつかれている。性的な意味合いにおいて「見られる」状況でないにもかかわらず、冗談めかしてこのようなことを言うのは、この老女の深層心理における「私はまだ覗かれる価値がある女だ」という隠蔽された露出狂的自己顕示欲を表わす。老女の無意識の欲望に応じたのは、便所の底の水に沈んで溺死体となった焼き魚の目のような小山田六郎の眼球であった。死体になった後も、小山田六郎は窃視者の欲望を露わして、老女の秘部を眺めていたことになる。

 小山田の死後、寒川と急接近した静子が用意した「二人だけの世界」は、貸家の二階にある赤い部屋だ。中央に等身大の鏡、その横に白い洋風の椅子が置かれた、静子の倒錯的嗜好を開示するのにふさわしい部屋である。真っ赤な色は、狂気を表わす色であり、犯罪者静子が周りの男に流させた血、そして静子の女の欲望の生産と消費を象徴するメンストレーションの血を暗示する。静子はこの部屋で、寒川に一人三役のトリックを見破られる。静子は、日本髪のかつらをひきはがされて、おぞましい犯罪者、性倒錯者としての正体を暴かれる。気違いじみた笑い声を上げる春泥である静子、正体を知られた静子は、帯を解いて白蛇のような裸身をさらし、白い花束の中に隠した鞭を取り出して「ぶって!」と寒川を誘惑する。寒川に娘時代の恋人の平田殺しを指摘された静子は、サディストになり変わり、寒川を鞭でうつ。「あなたを愛していました」と涙ながらに立ち去る寒川の背後に、裸のままの静子が泣きわめきながらぐったりと横たわる。「原稿用紙の上ではなく、現実に忌まわしい作品を描こうとした」、「満たされぬ欲求の代償として書いた」女は、自分の隠蔽すべき素顔を暴かれ、寒川に棄てられ、死に装束の白い着物を着て、崖から身投げする。

 「陰獣」を日本で映像化したものの中では、1977年版が一番原作に忠実である。時代考証は確かであり、小道具も当時を思わせるものが使われ、乱歩の生きた時代の雰囲気が伝わる。ストーリーのおもしろさだけでなく、大正時代の日本がレトロな感覚で心地よく、なつかしく甦るお薦め版である。

「陰獣」2. 古手川祐子、三田村邦彦 主演TV. 1991年

「陰獣」フジテレビ・ドラマシリーズ VHS: 

スタッフ/ 監督:藤田明二、脚本:安倍徹郎 

キャスト/ 古手川祐子、三田村邦彦、西岡徳馬、松本留美、橋爪功 他

フジテレビ、共同テレビ、1991年、発売/ フジテレビ映像企画部、販売/ ポニー・キャニオン

 このテレビ・ドラマでは、時代は大正12年の初夏に設定されている。寒川は、ビアズレーの展覧会会場に向かう黒塗りの高級車に乗った葵色の着物姿の静子を窓越しに見る。

静子と偶然(あるいは静子の計画通り)に、ビアズレーの「サロメ」のイラストの前で出会った寒川は静子と初めて会話を交わす。

 静子:サロメはヨカナーンを愛したのでしょうか。生首、愛する男の血のしたたる生首、その冷たい唇。なぜでしょう、サロメはなぜ愛する男の首を求めたのでしょう?

 寒川:たぶん、復讐でしょう。自分の愛に応えようとしなかったヨカナーンに対する憎悪というか・・・

 静子:いいえ、サロメは、ヨカナーンを愛していたのです。サロメは最後の最後までヨカナーンを愛していたのです。その愛はヨカナ―ンを殺すことによってのみ満たされる深い愛だったのです。それだからこそ、サロメはヨカナーンの冷たい唇に接吻できたのです。

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley, 1872~1898)は、ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する、悪魔的な画風を持ったイギリスのイラストレーター、詩人、小説家として知られる鬼才である。静子の「サロメ」への関心と心理分析は、静子自身のサディズムとマゾヒズムへの傾倒を暗示する。静子は言いたかったのだろう――「私はサロメよ!あなたが好きだから、あなたの首をちょうだい。キスしてあげるから」と。

 静子宛ての脅迫状が春泥らしき陰気な男の声で「私はおまえをいつも見張っている」と小山田邸の日本間で読み上げられている間、黒猫の金色の瞳が、赤く、時として青く画面いっぱいに光る演出法は、不気味な効果を上げる。また寒川が主宰する「探偵猟奇会」で、寒川が自分の推理を講演し、静子を含む関係者が金色の覆面をした聴衆として集う趣向も工夫されている。

 静子は、犯罪を暴く寒川に、着物を脱いで傷だらけのやわ肌を見せて言う。――「愛、私が誰を愛しているか。サロメは誰を愛したか。預言者のヨカナーン。嘘、かわいそうに! サロメは誰も愛してなんかいなかった。残るのは飲み残した苦い酒。絶え間のない死の世界への誘惑。愛したかった。誰でもいい。人並みの平凡な愛が欲しかった。でも私の体はもう誰も愛せない。私はそういう女にされてしまった。そういう小山田を私は罪に. . . それが罪ならば地獄に降ります。天国なんか神様にくれてやる。遊びたいんです。今は何も知らなかった時のように。踊ります」と言って月明かりの下のベランダで踊り出す。静子は出会いの初めに予告したかのように、サロメに成り変わって、白い着物姿で踊る。画面には、皿に盛られた男の首が、幻覚のように次々と浮かぶ――まず、若い男の首、次にはげ頭の小山田六郎の首、そして寒川の皿に盛られた首が浮かぶ。踊る静子を映す上部遠距離からのショットにより、静子はビアズレーの「サロメ」のイラストレーションの上で舞っていたことが観客にわかる。

 古手川版「陰獣」では、静子の悪女度は低く描かれ、男に弄ばれて破滅した哀れな、弱い女としての側面が強調されている。経済力のない静子は、夫のサディズムに虐げられ、耐えかねてとっさに夫を殺害してしまった女であり、敬愛し、頼りにしていた寒川に罪を暴かれ、すがるものを失って絶望のあまり入水して果てる。静子はエロスに弄ばれ、タナトスに身を委ねるしかない運命の女だと解釈できる。静子が寒川に身をすりよせてきたのは誘惑しようとする悪女の演技ではなく、静子の本音だということになる。テレビ放映用であるせいか、過激なセックス・シーンもなく、退廃的側面は抑えられた。静子も毒婦には見えず、男のおもちゃにされた幸薄い女として、視聴者の同情を煽るように作られている。テレビ版では大胆な退廃性を演出するのは難しい点がもどかしい。しかし、大正ロマンをモダンに美しく表現している点は楽しめるし、芸術性豊かな秀作ではある。

「陰獣」3. 「闇の脅迫者」川島なお美、佐野史郎主演、2001年   

「陰獣」3 「江戸川乱歩の≪陰獣≫より 闇の脅迫者」DVD

スタッフ/ 監督:国本雅広、脚本:尾崎将也

キャスト/ 佐野史郎、川島なお美、佐藤仁美、中丸新将、山下真司 他

テレビ東京、ビー・エス・ジャパン、2001年、発売/ 大映、販売/ 徳間ジャパンコミュニケーションズ

 21世紀になってテレビ用に製作された川島なお美版は、きわめて現代的設定に作り変えられている。寒川を演じる佐野史郎が、パソコンに向かって作品を打ち込んでいる姿が映し出される。人嫌いの探偵小説家の大江春泥は、メールで作品を送る生意気な新人である。小山田静子は、寒川の出演する広告の大物スポンサー夫人であり、真っ白なスーツの似合う、てきぱきとした、歯切れのいい言葉で明るく話す現代のビジネス・ウーマンだ。登場する建物は、すべて近代的な明るい構造の都会のオフィスと新築のモダンな家屋である。人物にも背景にも上記の二作に見られるような日本特有の湿った、薄暗さのかけらも感じられない。したがって、覗き魔が潜む天井裏という空間は存在しない。「陰獣」という作品が成り立つために必要な空間の欠落を、現代版「陰獣」は、小山田夫妻の寝室に隣接する物置の秘密の通路から侵入できる隠し部屋の覗き穴という設定構造に変更して埋め合わせる。

 寒川の覗き穴だけでなく、盗聴装置と隠しカメラの存在をチェックするという行動も、現代の視聴者を納得させる。夫の死後、未亡人の静子は嬉々として女社長の座と事業を引き継いで手腕を示す。

 乱歩のおどろおどろしい怪奇性を期待する観客は、肩すかしを食らわされたと感じるほど、からっとして、クリーンな理知に訴える物語に改変されている。この作品もテレビ版という制約のためか、濃厚なラブシーンはない。乱歩作品に特徴的な何通りにも解釈できる曖昧性を残して、読者の想像力を刺激する要素も残されていない。鑑賞後に残る、もやもやしたおどろおどろしさは微塵もなく、明快で、疑問の余地のない、納得できる形に収められている。静子は自殺することなく、犯罪者として逮捕され、警察に犯行を自供し、その動機も明らかにする。静子は、男に弄ばれた不幸な女でも、蜘蛛女のような毒婦でもない。

 静子は、書くという楽しみを自分から奪った夫を殺すという明確な犯行の意志と動機を持った犯罪者である。独房で静子は、作家としての「書く」という切なる欲望を訴える。看守に、「ねえ、何か書くものない? 新しい作品のアイディアが浮かんだの。今度こそ誰にも見破られない完全犯罪の話。今すぐ構想をまとめておきたいの。何か書くもの、お願い、ふふふふ」と不気味な笑みをたたえる。静子の女の業は、物書きであることに集約される。静子は紙に書くにとどめるべき犯罪を現実の上に書くという過ちを犯した女、現実と虚構の区別がつかない狂った女であることが示される。

 独房の中でもなお書くことがやめられない作家という種族の性(さが)は、マルキ・ド・サドの生涯を描いた映画『クイルズ』(Quills, 2000年)を連想させる。静子も獄中で今後も作品を次々と発表するという含みであろうか。この最後は、挑戦的で興味深い。ただし、時代設定を現代に移し替えたことは、静子の殺人動機の説得力を弱めた点でもある。21世紀は才能ある女性作家を歓迎する。「書く」ことが女らしくない行為として排斥される時代ではない。静子の夫が「書く」ことに反対であったとしても、夫を殺すほどの動機にはなりえない。他に解決策はあったはずだ。静子が春泥として書いた作品の内容は明らかにされないが、サドのようにその内容によって投獄されるほどのこともなかっただろう。乱歩の「陰獣」の時代設定を現代に置き換えた試みは評価すべきだが、原作の持つ謎に包まれた淫蘼な妖しさの魅惑を削ぎ、説得力を弱めることにもなったのではないだろうか。しかし、研ぎ澄まされたシャープな感性で、現代の魔女をクールに演じる川島なお美の静子は、一見の価値がある。

女性作家はモンスターだった

元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。

今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな青白い顔の月である。 ――平塚らいてう 「青踏発刊に際して」

 上の文章は、1911(明治44)年、近代における女性解放運動ののろしを上げる雑誌『青踏』創刊の辞として、平塚らいてうが寄稿した有名な文章の一部である。明治政府が掲げる「良妻賢母主義の教育」は、明治30年代に現実に作動しはじめた(堀場17)のだから、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」宣言は、国家が理想とする社会の基盤を根底から揺るがしかねない反逆であり、危険な思想の表明だった。『青踏』発刊の前年の1910年は、日韓併合と、社会主義者が明治天皇暗殺を企てたが未遂に終わった大逆事件によって、日本の天皇制国家としての抑圧性、侵略性を特徴づけた。「富国強兵」を掲げる明治政府は、天皇を頂点とする家制度を重視し、その家父長制を支え、奉仕する存在としての女性を念頭に置いていた。軍国主義で塗りつぶされた明治時代末期の日本において、男性は拒否権なく戦場に駆り出され、心身を損なわれ、命を落とすことも多かったので、女性だけが国家権力の犠牲になったわけではない。しかし、国家が承認する天皇制ピラミッドの最底辺に置かれた女性の自我は、男性のそれ以上に虐げられていた。女には当時のジェンダー規範としての「家を守るもの」という役割が与えられたため、「女性の性は全く封じ込められた存在」(米田 85)であり、「女性が性を意識することすら『みだら』として『隠す』ことを強要する『良妻賢母』教育により、女性の性認識をタブー化したのも、国家的要請によるものであった」(米田 86)。女性作家は「閨秀作家」と呼ばれることが多かった。女を表わす「閨」という字は、「女の居間、寝室」を意味した。女性は閨に閉じ込めておくものとされたため、閨を出た女は堕落した存在とみなされた(堀場15)。

 江戸川乱歩は、1894(明治27)年に生まれ、「陰獣」は1928(昭和3)年に『新青年』に発表された。乱歩は、1986年生まれのらいてうよりも8歳年下であるが、『青踏』の創刊時にはすでに青年であり、軍国主義の日本という同じ時代の空気を吸って生きた。したがって乱歩は、らいてうのようなニュー・ウーマン、閨秀作家の存在を知っていた。「陰獣」における魅惑的な悪女、小山田静子のような女性は、乱歩の妄想にも似た創造力によって生み出された人物である。社会の上層部に安閑と暮らすことができるはずの上流婦人が、満たされない欲望のはけ口として密かに創作活動に従事して成功を収め、自己の性欲の充足を図るためにファム・ファタールを演じたあげく犯罪者になって転落していく――ヒロイン静子の造型には、乱歩のニュー・ウーマンに対する幻想怪奇趣味の変形が投影されていないだろうか。

 ニュー・ウーマンは乱歩が生きた時代において、公序良俗を乱す、領域侵犯のモンスターであった。外面は、完璧な上流婦人を演ずる小山田静子は、当時の婦人の道徳に背く存在である。結婚してからの夜行性SMプレイと、連続殺人の件は別にしても、静子は、性的にもともと奔放なたちで、娘時代に平田一郎(大江春泥だと思われていた)と自由恋愛をして、処女を喪失していた。さらに静子は、夫の欧州滞在中に「書く」快楽を覚え、秘密裏に女らしくない小説を書いて、流行作家になり、寒川のライヴァル作家になった。貞淑を装う美貌の裏に潜む静子の秘密は、探偵としての寒川の好奇心を掻き立て、寒川を静子に接近させる。しかし、モンスター・ウーマンとしての静子を見た寒川は、防衛本能から男性としての優位性――自分こそが本格派探偵小説家であるばかりでなく、本物の男性であること――を一方的に宣言して、静子を自滅に追いやる。寒川は陰獣としての静子の抑圧された女の欲望を白日のもとにさらすことに成功したが、静子を太陽としての女性に戻すことなく、再びその心身を闇に葬った。探偵小説の変革派の大江春泥、つまりジェンダーの変革派の小山田静子は、文壇の権威であり、本物の男を名のる寒川に敗北したのだ。

4.フランス映画版「陰獣」(Inju)、2008年

フランス版「陰獣」4(Inju:La Béte dans l’Ombre)DVD

キャスト/ 監督&脚本:バーベット・シュローダー

スタッフ/ ブノワ・マジメル、源利華、石橋凌、西村和彦、藤村志保、菅田俊

発売&販売/ ハピネット

「愛のコリーダ」VHS 

スタッフ/ 監督&脚本:大島渚、キャスト/ 松田暎子、藤竜也、殿山泰司、小山明子

1976年、発売/ 東宝

 バーベット・シュローダー監督によるフランス映画「陰獣」は、時代設定は現代であるが、乱歩の怪奇幻想の持ち味を存分に生かして、原作と映画の時代落差を感じさせない見事な出来栄えを示す。原作の時代背景と映画製作時の時間的隔たりは、登場人物のキャラクタライゼーションの変更によって巧みに補われる。ヒロインの玉緒(原作は静子)は、富豪夫人ではなく、ヤクザの大物に囲われる京都の芸妓という設定である。原作の「私」である寒川は、フランスの新進探偵小説家、アレクサンドル・ファヤールに変更される。

 原作では、寒川が探偵小説の大御所で、謎の大江春泥が後を追う新進作家であるが、シュローダー版では、両者の力関係は転倒する。日本の大江春泥の熱狂的研究者であるフランス人アレックスの最近発表した『黒い瞳』が、世界的ベストセラーになり、新米のアレックスが大家の春泥の地位を脅かさんとしている。アレックスは心酔する春泥の国、日本へ自分の著書の宣伝のためにやって来る。アレックスの成功による躍進を嫌う春泥が、影のようにアレックスの行く先々で「フランスに帰れ」と脅迫と嫌がらせを繰り返す。映画資本の出所はフランスであり、シュローダー監督はイランで生まれたフランス国籍のドイツ系スイス人なので、登場人物中、唯一人のフランス人であるアレックスの視点から日本を眺めた物語につくられている。シュローダーの「陰獣」は、一人のフランス人男性の東洋の国、日本での妖美で淫蘼な、怖ろしい幻想的経験を綴る映画になった。

 映画はフランス人にとっての現実の世界であるフランス、幻想の世界としての日本の両国の境界線の危うさを描くにあたって、映画というものの構造を巧みに利用する。フランスの大学の教壇で春泥の作風を解説するために見せる春泥の作品の映像化では、芸妓が夜の京都をあでやかな黄色い着物を着て一人、しゃなりしゃなりと歩く。闇の中にあでやかな羽を広げた蝶々、夜の蝶、つまり美しい蛾が舞うような絵空事の世界が、現実であるかのようにスクリーンに映し出される。芸妓の住む京都の茶屋では、現実とは思えない、不気味な非日常的惨劇が起こる――松本警部が仏壇の前で正座する女性の背に手をかけると、その生首がころっと落ちる、松本はふすまの陰に隠れていた赤い鼻の天狗の仮面の男と日本刀で格闘し、松本の生首は切り落とされ、死体になって横たわっていた恋人と首を並べる、仮面の男は勝ち誇って玄関から京都の町中に逃げおおすという場面である。これらの京都でのシーンは劇中劇であるが、観客は映画の中の現実として見させられる。しかし、この映像について解説するフランスの大学の教壇に立つアレックスの姿が続いて映し出されるので、観客は初めて、この映像が映画の中におけるさらなる虚構であったことを知らされる。この京都での幻覚のような場面は、来日したアレックスが、芸妓の玉緒に恋し、翻弄されるだけの下地、つまり日本女性に対する幻想としてのステレオ・タイプがアレックスの心の中に宿っていたことを暗示する。アレックスにとって、日本は西洋の男が快楽を自由に求め、支配できる、幻想を満たすはずの国であり、ゲイシャ・ガールこそがその望みの対象としての彼の先入観だった。

 春泥の小説の映画化は、ある意味でアレックスの隠れた心的風景を象徴しているともとれる。アレックスは春泥のモラルのなさ、悪徳の賛美、現実と虚構の混在を批判して、自分の小説のモラルと善の健在性を誇る――「自分が闇の世界を描けるのは、それが作り話だと知っているからだ、しかし春泥は虚構と現実の区別がつかなくなっている」。しかし、春泥の悪徳の世界を嬉々として非難するアレックスの姿は、アレックスの無意識に潜んで、実行の機会を待ち望む欲望の存在を観客に覗き見させている。この時点でアレックスはこの映像が、春泥のイメージであって、自分とは関わりのない、別世界のことだと思いこんでいるが、これはドラマチック・アイロニーである。

 来日したアレックスが、祇園の高級茶屋で日本舞踊を舞う芸妓の玉緒に一目惚れするのは、必然的成り行きであった。玉緒の誘惑的視線にいとも簡単にアレックスが陥落するのは、彼の心の中で存在していたゲイシャ・ガールのイメージが肉体化する機会を待ちわびていたからである。シュローダーは、古手川版「陰獣」と同様に、玉緒にサロメのイメージを投影する。アレックスの夢の中に、春泥らしい風貌の男が、地面に置かれた春泥の絵に血しぶきのような赤いペンキをかけている、それをみつめるアレックスの背後の暗闇から、白い着物を着た玉緒が「アレックス、踊りましょうか」と誘う。血しぶきをあげる顔は、皿に乗ったヨカナーンの首を、踊る玉緒はサロメのイメージを連想させる。

 「芸妓の仕事は男性を虚構の世界へ導くことです、芸妓は男性の心を映す鏡なのです。本人も気づかない欲望を引き出す、セックスよりも奥が深いんですよ」と最後の場面で、春泥(玉緒)の著作の編集者は獄中のアレックスに告げる。玉緒はアレックスの意識の底に潜んでいる、危険な欲望の代弁者だったのだ。「大江は快楽と苦痛の関係を知っている。あなたも実際に経験してみなければ」と意味ありげな笑みを浮かべてアレックスを誘う玉緒は、アレックスの隠されたサド・マゾの欲望を見抜いていた。玉緒はアレックスの覗き魔の欲望を知っていたからこそ、春泥が家の内部に潜んでいて恐いという理由をみつけてアレックスに自分ののびやかな肢体を何気なく、しかし意図的に覗き見させる。原作でも小山田静子は、ナレーターの寒川の欲望を写し出して実行してくれる装置だったが、シュローダーは、男の欲望の鏡としての女の存在をどの版よりも強調している。その意味では、原作に忠実な側面も備えている。

 しかし、シュローダーは、日本女性のみかけ上の受動性とその下に潜む毒婦性の強調に加えて、どの日本映画よりも、女性の能動性と創作意欲の強烈さを表現する。日本女性の欧米におけるイメージは、耐え忍ぶ蝶々夫人に固定されていると考えるのは間違いである。蝶々夫人の対極にある近代の毒婦、阿部定のイメージは、大島渚監督の映画「愛のコリーダ」(1976年公開、日仏合作)を通じて欧米(特にフランス)映画界では有名になった。昭和11年におきた阿部定事件は、料亭の女中であった阿部定が、愛欲の果てに妻子ある愛人男性、吉蔵の性器を切断するという猟奇性によって、世間を騒がせた。玉緒がSMプレイの時に羽織る紅色の長襦袢は、「愛のコリーダ」での阿部定役の松田暎子を連想させる。シュローダー監督が、玉緒に貞淑に見える日本女性の裏側を暴く阿部定のイメージをかぶせていることは明らかある。

 玉緒の欲望としてシュローダーが最終的に強調するのは、作家としての創作意欲であり、この点は、川島なお美版と共通する。川島版が女性作家である事実を隠蔽する必然性への説得力が弱いのに対して、シュローダー版は、玉緒が芸妓だという立場によって説得上の強みを発揮する。玉緒は芸妓を続けるために人気作家であることを隠し、結婚の後の作家活動引退をしつこく迫るパトロンの茂本を消すという現代女性の立場から見て、無理のない構造に変更して成功した。ヒロインを金持ちの夫人から、芸妓に変えたことには、「愛のコリーダ」の阿部定が女中として住み込む前には芸妓であったこととの関連性が見られる。日本映画「愛のコリーダ」を知るフランスの観客にとっても、芸妓という設定は物語の理解を容易にする仕掛けである。

おわりに

 フランス映画版では、最後に勝つのは東洋の魔女である玉緒であり、敗北するのは西洋の男のアレックスである。玉緒のそそのかしに乗って、茂本を銃殺した罪で牢獄に捕われるアレックスは、川島なお美版とさかさまの結論になっている。日本の牢屋に入れられ、日本の囚人としての規律を強いられて、ロボットのように看守に敬礼するアレックスの姿は、東洋に屈辱を強いられる西洋をイメージ化している。しかし、弱いと思っていた日本の女に組み敷かれて、彼女の文化的枠組みに囚われ、痛めつけられることこそが、アレックスの抑圧された、密かに待ち望んでいた西洋男のマゾヒスティックな欲望だったと言えないだろうか。東洋に組み伏せられて、凌辱されることを密かに期待する西洋男の屈折したプライド、自虐的願望に玉緒は応えたのだ。フランス版は、女の強さを見せる結末であるが、実は男の欲望、西洋の欲望が主体であり、女の欲望、東洋の欲望は客体である。主体は西洋男性であり、日本女性はその鏡としての位置づけにある。

 アレックスの牢獄で終わる結末は、デヴィッド・ホアン(David Henry Hwang) の『エム・バタフライ』(M. Butterfly)を連想させる。中国系アメリカ人の劇作家ホアンは、西洋の男につくして棄てられた末に自害する、男にとって、西洋にとって都合のいい日本の女としての蝶々夫人のイメージを大胆に逆転させることによって、西洋文明を手厳しく批判した。戯曲『エム・バタフライ』とその映画化は、西洋のエリート、フランス人外交官の独房での自害と、女装していた京劇役者である蝶々夫人の国外逃亡をもって終わる。シュローダーの「陰獣」も、フランス人アレックスの破滅と玉緒の京都からの安全な逃亡、西洋男の東洋女への幻想を手玉にとって破滅させる逆転劇である点に、ホアンの作品の影響が見られる。

 シュローダー版がホアンの戯曲と違うのは、西洋の東洋に対する蹂躙といった攻撃的ニュアンスが見られない点である。シュローダー監督は、政治的メッセージを織り込むことなく、一人の芸術家として日本文化に対するあこがれとオマージュを率直に表現している。映画の撮影地として、京都、金沢、東京を選び、スタッフは日本人90人、フランス人10人、京都風の作法は引退した芸妓に指導を頼み、着物の着付けからメークまですべて日本人の専門家を動員(DVD「陰獣」の「メイキング映像」)という配慮が成果を上げたのか、日本文化の特徴を的確にとらえて正確に映像化している。「陰獣」を映画化するにあたって、シュローダー監督がこだわったことは、一にも二にも「日本的である」ことだった(DVD「陰獣」の「メイキング映像」)。日本の小説を日本で、日本人のスタッフの手を借りて、フランス人が作りあげるという作業にこだわったシュローダーは、日本人が見ても奇妙ではない日本文化を演出することに成功した。外国人男性アレックスが日本への幻想の罠にかかった末の悲劇を描いたが、この映画は、外国人が扱った日本でありながら、日本に対する誤解と偏見がほとんど見当たらない、稀有な現象を見せる。その理由は、撮影の舞台をまるごと原作の舞台である日本で行ったこと、シュローダー監督を始めとする、フランスの製作者の正確な乱歩作品への理解と日本文化に対する造詣のおかげだと推察される。さらに、シュローダー監督の出身も重要な要因かもしれない。バーベット・シュローダーはイランのテヘランで生まれたフランス国籍のスイス人であるから、インターナショナルな視点を持っている。さらにイランは、フランス人から見ても西洋ではなく、西アジアであり、中東のイスラム共和国である。シュローダーが西洋文明の外部での経験と他者の視点を持っていたことが、西洋人にとっての異文化である日本理解に勝利した原因であろう。

 エドワード・サイードは、著書『オリエンタリズム』で西洋の権威によって押しつけられた幻想としての東洋のイメージに強く反発している。シュローダーの「陰獣」も日本通を誇る西洋人男性の幻想を土台にするが、映画そのものは西洋の権威と幻想としての日本を押しつけず、肯定することなく、的確に江戸川乱歩の意図をくみ取ったうえで、フランスの「陰獣」に仕立てることに成功している。シュローダーの「陰獣」を見た日本の観客は、サイードの言う西洋の東洋蔑視という屈辱感を味わうことはない。

 悪徳は自国以外の外国から伝染病のようにやってくる、と考えるのはどの国でも共通の偏見である。香山美子版では、夫の小山田六郎はロンドン滞在中に、SMプレイをイギリス人のヘレンから教わったことになっている。シュローダー版では、フランス人のアレックスの書いた探偵小説はモラルが大切で、最後には善が勝つのに対して、日本の春泥は、悪徳を賛美する倒錯的汚濁の世界を描くという。ただし、「陰獣」の重要なモチーフであるサディズム・マゾヒズムについては、その起源は西洋とも日本とも特定せず、昔からあったものとされる。香山美子版において、SMプレイは狩猟民族である西洋人は鞭を使うが、農耕民族である日本人は縄を用いるようだと言われる。シュローダーは玉緒のSMシーンにおいて鞭で打つだけでなく、縄で四肢を縛らせていることは、香山美子版での言及に照らし合わせれば、特筆すべき研究心である。

 シュローダーの「日本的に」という意図は各場面で生かされている。外国人が描く「日本的」な世界こそが、日本人にとって最も興味深いものである。天井裏からの覗き見という、西洋建築ではむずかしい原作の設定から純日本家屋を背景に選び、ヒロインを伝統を重んじる祇園の芸妓に変更したことは賢かった。背景や中味はそのまま日本に置き、視点を提供する寒川だけをアレックスに変え、外人男性が見た日本という視点の転換をはかったことにより、異文化理解を無理のないものにしたことがこの映画を成功させた。

 西洋において、日本を表現する際には、西洋的視点を添えながら同時に「日本的であること」、つまりエキゾチックであることが、観客の嗜好に応えるこつである。観客の多くは、一定の選べる時間内に、現実を忘れて虚構の世界に遊びたいという願望を持つ。遠く離れた東洋の国、日本独自の伝統的世界の内部で起きた怪奇幻想こそが、西洋の観客が密かに待ち望んでいる、覗き見したい虚構である。純和風建築、神社と仏閣、着物を着て日本髪を結った芸妓、日本刀、天狗の仮面、祇園の祭り、日本的儀礼と風習、血のような朱色の漢字で書かれた春泥の脅迫状など、日本特有の事物をふんだんに織り込むことにより、西洋の観客の目を奪う仕掛けは成功した。シュローダー監督の映画「陰獣」は、異文化日本を正しく理解して、その特徴を生かしたうえで、西欧人の視点を付加して、加工に成功した好例である。状況等の設定を変更して、異文化の境界線を越えて受け入れられたということは、原作の価値を高めることである。その原作は、文化を超えて発信と受信が可能な普遍性を持っている、同じ人間であれば共有できる芸術だ、という名作の条件を満たすことを立証するからだ。

参考文献目録

江戸川乱歩「陰獣」(『鏡地獄 江戸川乱歩怪奇幻想傑作選』角川ホラー文庫)角川 1997年

サイード、エドワード・W.『オリエンタリズム』上&下、板垣雄三 他訳、平凡社 1993年

志村有弘 他『江戸川乱歩徹底追跡』勉誠出版 2009年

田中慎弥 解説『虹いくたび』 新潮社 2016年

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』中央公論新社 1975年

平塚らいてう「元始女性は太陽であった――『青踏』発刊に際して」『平塚らいてう評論集』 岩波書店 1987年 

堀場清子『青踏の時代――平塚らいてうと新しい女たち』岩波新書15 岩波書店 1988年

米田佐代子『平塚らいてう 近代日本のデモクラシーとジェンダー』吉川弘文館 2003年

Hwang, David Henry. M.Butterfly. London: Penguin Books, 1986.

Marran, Christine L. Poison Woman: Figuring Female Transgression in Modern Japanese Culture. Minneapolis: University of Minnesota Press, 2007.

詳しいDVD、VHS情報は文中。

出典:清水純子「はじめに」「第三章 江戸川乱歩『陰獣』闇に葬られた欲望」『映画と文藝 日本の文豪が表象する映像世界』彩流社 2020年