――多重構造のサイコ・スリラー
映画『ブラック・スワン』
(原題: Black Swan)2010年 アメリカのサイコ・スリラー映画、日本ではR15+指定作品。
スタッフ: 監督:ダーレン・アロノフスキー 脚本:マーク・ヘイマン、アンドレス・ハインツ、ジョン・マクラフリン 衣装デザイン:エイミー・ウエストコット
キャスト: ニーナ…ナタリー・ポートマン、トマ…ヴァンサン・カッセル、リリー…ミラ・クニス、エリカ…バーバラ・ハーシー、ベス…ウィノナ・ライダー
はじめに
映画『ブラック・スワン』は多重構造に作られている。この映画の特徴は、「夢と現実」の二層に仕切られた世界が時間と空間の境界線を超えて行き来することである。この多重構造の軸になり、内容解明の鍵を握るのは、相反する二項対立の二つの見解――フロイトに始まる精神分析の科学的見方とその正反対にあるオカルト的魔術による神秘主義――である。最初のわずか七分で、映画の二重構造を支える重要な項目である夢、鏡、地下鉄、多重人格、痣を登場させて、ヒロインのニーナ(ナタリー・ポートマン)を取り巻く複雑怪奇な幾層にも渡る世界の存在を観客に暗示する。
A.ニーナの夜見る白日夢
(1)夢と現実――オープニング・クレジットを表示する冒頭のシーンはヒロインのニーナの夢で始まる。夢の中で白鳥の女王、オデットになったバレリーナのニーナの背後には、黒い服を着てがっしりした体格の人相の悪い男が忍び寄る。ニーナを捕えようとするこの男は突然悪魔のロットバルトに変身する。黒い羽根毛でおおわれた毛深い男の手に包みこまれた白鳥のニーナは、白い羽を散らしてもがく。次のシーンでニーナは現実に戻り、ベッドの上で目覚め、にっこり微笑んで母エリカ(バーバラ・ハーシー)にホワイト・スワンを踊る奇妙な夢を見たことを告げる。
ニーナの夢は夜見たものだが、フロイトの言う「白日夢」にあたり、「願望の充足、すなわち野心や性愛的な願望」などの充足を意味する。「夢の中での体験が、睡眠状態の諸条件下で可能になった変形された表象行為、つまり『夜の白日夢』であるならば、夢形成の過程は夜の刺激を取り去って願望の充足をもたらすことができる」のであり、「覚醒夢も願望の充足と結びついた活動であり、むしろ人は願望の充足のためにこそ白日夢をみる」(フロイト 二一三-一四)。ニーナの主役を踊る白日夢は、夢の主要な二つの性格である「願望の充足と幻覚体験」(フロイト二一五)を満たした後、夢に終わらず映画上の現実に移行する。ニーナのプリマドンナになる白日夢は、将来現実になる夢であったことから正夢であったといえる。二重構造に組み立てられた夢と現実は、当初は異次元に属するように見えたが結果的に同一平面上でぴったりと重なる。夢と現実は相反するように見えるが、実はその境界線を容易に取り払うことが可能な連続した世界の上に築かれていることが暗示される。
(2)サイコ・スリラーとオカルト――『ブラック・スワン』は「サイコ・スリラー」(“Psychological thriller” Dicharia)であり、プリマを演じるバレリーナのニーナの精神的崩壊がサスペンス・タッチで描かれている。優等生タイプのニーナは、清純で繊細なホワイト・スワンのオデットを踊ることにかけては非の打ちどころがないが、魅惑的で邪悪な悪魔ロットバルトの娘、ブラック・スワンのオディールを演じきれないことが悩みであった。正反対の性格を持つ二役を完璧に演じ分けられることが主役獲得の条件なのでニーナには荷が重い。しかしニーナは、唇を奪った芸術監督トマの舌を噛んで内に秘めた激しさを示し、ライバルを倒して白鳥の女王役を射止める。だが映画上の現実の世界でもバレエの役柄の上でも過度の潔癖症のために自分を抑圧しすぎているニーナは、ブラック・スワンに変身できない。大役のプレッシャー、映画の物語の奥に隠れている本物のブラック・スワン役でありニーナの隠された分身役であるリリー(ミラ・クニス)に対する嫉妬、トマ(ヴァンサン・カッセル)への屈折した恋心に苦しむニーナは、次第に幻覚を見るようになる。現実と妄想の間をさまようニーナの意識は混濁する。
最終的に頑張り屋のニーナは、心身の異変と引き換えにブラック・スワンへ見事な変身を遂げ、公演を成功させるが、腹部殺傷という究極の自傷行為によって多量に出血し、意識を失う。「感じたわ、完璧だったってことを」とニーナは、氷のような微笑を浮かべたまま動かなくなり、視界はぼやけ、暗くなっていく。ニーナの精神の変容とそれに伴う肉体の不気味な変化、たとえばブラック・スワンへの変貌に成功した瞬間に腕から黒い羽が生え、体中が黒い羽毛で覆われるシーン、また精神が歪むとバレリーナの命である脚が変形して折れる幻覚などの映像から『ブラック・スワン』は異常な心理描写を画面に表し、観客にスリルを与えるサイコ・スリラーに分類される。
『ブラック・スワン』の不気味な魅力は、サイコ・スリラーとオカルトの二重構造を持つ点である。ニーナの夜の白日夢をフロイト流の欲望充足の夢ととらえることが可能な反面、悪魔ロットバルトの呪いがニーナにかけられた場面をオカルトの儀式ととらえることもできる。冒頭の夢のシーンは、悪魔にみそめられたニーナがホワイト・スワンとしての無垢を捨てて邪悪なブラック・スワンに変身し、悪に染まり、破滅する生贄としての運命を背負う瞬間を表す。映画のシナリオでは、三人の美女(ニーナ、ニーナの代役でありブラック・スワンを巧みに踊るリリー、破滅する前任者プリマのべス)は、すべて悪魔の手下である。なぜなら映画の後半にリリーとべスはニーナの「ダブル」として幻のように現れるからである。
錯乱したニーナの目は、ニーナが信奉し、密かに愛する舞台監督トマが悪魔の仮面をかぶってリリーと交わるところをとらえることから、トマも悪魔の手先とみなされる。ニーナのフェティシズム的呪術嗜好は、あこがれの先輩ベス(ウィノナ・ライダー) の口紅やイヤリングなどの所持品をこっそり盗むことによって、ベスの完璧性を身に着けようとする行為が示す。主役獲得を望むニーナは、ベスの口紅をこっそり塗ってトマの心を盗もうとするが、自制心が災いして誘惑を遂行できない。しかし意外なことにトマがニーナの優柔不断に魅力を覚えたためにニーナは女王役を獲得できた。偶然とはいえ、ベスの口紅に埋め込まれた魔力が功を奏したのかもしれない。しかし、それゆえにニーナはベスに準じて悪魔の手中に落ち、悪魔に心を操作されてさまざまの邪な幻覚を見るようになり、ベス同様、悪魔の餌食になって破滅の道をたどることになる。中村樹基が指摘するように、ニーナの「行為は相手のパワーを自分のものにしようとする一種の呪法に通じ、かけた呪いは自分に返ってくることになる。盗んだ口紅で化粧して演出家を口説こうとしたところはあまりに罪深いのだ」(中村 映画パンフレット)。
ニーナが悪魔の支配下に墜ちたことは、生命を奪うことになる自傷癖が初期段階においては、肩をかきむしった後の痣として表れ、その痣から黒鳥の羽状の黒いとげが引き抜かれる場面が示す。この黒いとげは、ニーナの心に突き刺さったとげを指すが、とげ(thorn)は、「肉欲の誘惑を表す」(ド・フリース、“thorn”の項目)こともあるので、悪魔の仕業がニーナに及んだと解釈できる。
(3)「白鳥の湖」と映画のストーリーのオーヴァーラップ(重複)
『ブラック・スワン』のメタシアター手法による二重構造の組み立ては、ヒロインのニーナと『白鳥の湖』の白鳥の女王オデットの姿がオーヴァーラップ(重複)して現れ、ニーナもオデットと同じ運命をたどる点に示される。『白鳥の湖』のオデットは、悪魔ロットバルトの魔法によって白鳥に変えられる。王子ジークフリートの愛が呪いを解くはずだったが、王子は悪魔の娘オディールに誘惑され、絶望したオデットは湖に身を投げる。あやまちを悔いる王子もオデットの後を追って入水する。結末については、悲劇(来生で二人は結ばれる)とハッピー・エンド(オデットの呪いが解けて二人は甦り、結婚する)の二種類が存在する。映画の結末はどちらなのかあきらかではなく、観客の判断にまかされるが、悲劇だととる人が多いのではないだろうか。映画はニーナの意識が薄れていくところで終わるが、その後ニーナが病院に運ばれても蘇生しなければ悲劇になる。もし手術が成功してニーナが甦ればハッピー・エンドになる可能性もあるが、それはわからない。
映画『ブラック・スワン』がサイコ・スリラーの側面を持つだけでなく、オカルト仕立てになっている点も原作『白鳥の湖』のストーリーに忠実である。映画のこわいところは、オデットを演じるニーナ自身もオデット同様に悪魔の呪いをかけられる点である。非現実(童話の世界)でのみ有効なはずのオカルトが、現実(映画内)のバレリーナに直接降りかかる。夢と現実の混同は、内枠にあるはずのおとぎ話の非現実の世界を破って、外枠の映画内の現実にまで呪いが及ぶ点にみられる。非日常と非現実の魔術の世界が日常と現実のリアリズムの相反する状態と融合する点は、マジック・リアリズム(魔術的リアリズム)の手法を連想させる。さらにコンピューター・グラフィックス利用による映像処理がリアルであると同時にマジカルであり、現実と非現実の区別をますますあいまいにして、映画の枠の外である本当の現実の世界にいる観客を翻弄する。現実の観客席に座るものは、虚構である映像『ブラック・スワン』によって、さらなる内側の虚構の原作『白鳥の湖』が意図した二層構造の非現実の世界(映画から童話)へとより深く吸い込まれ、溺れていく。
映画が原作と異なるのは、ニーナの意中の人は相手役の王子ではなく、舞台監督トマだった点である。完璧なブラック・スワンを演じきったニーナは、トマの「僕のお姫様」(“My little princess”)という絶賛と受容の言葉に聞き惚れながら意識が薄れていくので、芸術家として恋する女として目的を達成した。『白鳥の湖』では、白鳥の女王オデットは悪魔の呪いを破って王子との純愛を得るが、ニーナが得たのは悪魔の仮面をかぶっていたトマの愛である。
トマは、能力と魅力に恵まれた男だが、次々と踊り子と浮名を流すプレイ・ボーイであり、ニーナを官能と悦楽へ導く地獄落ちの悪魔である。そのトマの計略に乗って大役を果たしたニーナに与えられるのは、死をもって報いられる褒美である。ピューリタンの国アメリカで制作された『ブラック・スワン』では、悪魔の誘惑に負けた白鳥は罰を免れえない。トマを演じるのがピューリタンの厳しい掟から自由な国フランスのヴァンサン・カッセルであることは計算された演出である。ニーナのめざす芸術の達成のためには、自分の育ての親であるアメリカと母エリカが課してきたピューリタンの性的抑圧は放たれなければならない。しかしその結果、ピューリタンの娘としてのモラルを踏みはずしたニーナには罰が待っている。掟を破った代償が楽園追放だと知りながらなおも、禁じられた果実の甘さを求めずにいられないニーナの心に、アメリカ文化内の芸術と宗教の葛藤が表現されている。
B.鏡
(1)バレリーナの必需品
鏡はバリーナのニーナの必需品である。ニーナは、自分の姿を写してダンサーとしての体形を保ち、テクニックをチェックするために鏡に向かうことを習慣にする。ニーナは観客の前でバレエを踊り、観客の視線を浴びることによってのみ、価値が与えられる存在なので、いつどこから見られてもいいように気を配って、心身を鍛えていなければならない。プリマを踊る夢から朝目覚めたニーナがまず第一にすることは、居間に据え付けられた等身大の巨大な三面鏡の前でのバレエのトレーニングである。
バレエの劇場内の楽屋は、上半身を映す大きな鏡が部屋の隅から隅まではめ込まれ、化粧台の前には小さな手鏡が置かれている。バレリーナたちは、メーキャップと衣装の仕上げのために大小の鏡を覗きこんで余念がない。リハーサル・スペース(バレエの練習場)は、四方八方が等身大の巨大な鏡で覆われている。鏡はダンサーが自分の踊る姿をいろいろな角度から写し出し、自己点検させる機能を持つ。鏡は自分がどう見られるかを常に意識しなければならない職業である踊り手の宿命を映し出している。突然やってきた舞台監督のトマですら、鏡の反射の機能に触発されて鏡に向かって自分の髪型をチェックするしぐさを禁じえない。
鏡だらけの練習場に閉じ込められた踊り子たちの本物の肉体はどこに存在するのか? 鏡はスクリーンを覗き見る観客には見分けがつかないほど現実と虚像を混乱させる媒体である。一番外側の世界である現実の世界にいる観客の内側に虚像を映し出すスクリーンがあり、そのスクリーンの内部に現実と虚の世界を混乱させる鏡が氾濫し、その鏡のさらなる内部に映画の出演者であるダンサーたちが存在するという四重の入れ子細工が『ブラック・スワン』において構成される。観客はヤン・ファン・アイクの《アルノルフィニ夫妻の肖像》を見ている気分になる。一組のカップルの結婚式を描くこの絵の場面は寝室で、新郎新婦の間、つまり絵の中央には凸面鏡が描かれ、その凸面鏡には部屋全体が映っている。これは若い二人の後ろ姿や天蓋付きベッド、窓、戸口に立つ二人の人々(そのうちの一人は画家アイク自身)が描かれた遠近画法による一四三四年作の有名な絵である。
(2) 虚栄心
鏡はバレリーナの虚栄心を映し出す媒体である。バレリーナは日夜、鏡の前で化粧をし、身づくろいをしてポーズをとり、自分がどれだけ美しく見えるか鏡の中を覗きこみ、ナルシスティックに自惚れ心を育てる。それだからこそ鏡が理想とする美しい自分を映し出さなくなった時、鏡は攻撃され、破棄され、鏡そのものが凶器に変貌させられる可能性がある。トマ率いるバレエ団の経営方針変更のためにプリマの座を奪われ、強制的に引退させられた前任者のベスは、楽屋の自分の部屋を去る時、鏡に向かって八つ当たりして、罵声を投げかけ、暴れた末に鏡を割って出ていく。ベスの去った後、ベスの鏡の前に密かに忍び寄るニーナは、うっとりと鏡をみつめ、ベスになり変わろうとするかのようにベスの口紅を盗む。ニーナにとってベスの鏡は、未来のプリマである自分を映し出す自惚れ鏡である。それだから地下鉄の車両の中でニーナは、窓ガラスを鏡の代わりにして口紅を塗り、ベスの後釜をめざしてトマ誘惑を企てる。
(3)嫉妬心の反映
鏡は嫉妬心を反映する。童話『白雪姫』の白雪姫の継母が鏡を覗いてライバルの白雪姫の存在を確かめた逸話を反転させるかのように、『ブラック・スワン』で鏡はジェラシーを映し出す。ニーナのプリマ決定が発表された直後に喜ぶニーナの目に飛び込んでくるのは、トイレの鏡に赤い口紅で殴り書きされた「売女」(“Whore”)といういわれのない中傷だった。
鏡は分身を映し出すこともある。多重人格障害の患者は、鏡の中にさまざまな分身を見るといわれる(ペンダーグラスト 四三七)。鏡に映った自分の像は、左右が逆になった虚像である。鏡は、自分の姿を映していながら自分自身そのものではない影の存在を映像化する。大昔から人間は「鏡のなかにいるのは誰か? 私なのか、私に似ている別人なのか」という疑問にとりつかれてきた。「鏡に映っているのは本当に私なのか。そうとは言い切れない。私が見るのは自分の本当の姿ではなく、左右が反転しているからだ」(ペンダーグラスト 四三〇)。鏡の中の自分を考える時、それはアイデンティティへの疑問、自分という存在の本質に触れる問題を提起するので、鏡は心理学で扱われる魂の問題の領域に踏み込む。
(4)ダブル
『ブラック・スワン』では、ホワイト・スワンを具現化したニーナとその対極にあるブラック・スワンを見事に踊るニーナの代役待機組リリーの対照的な二人のキャラクターが登場する。ニーナとリリーは映像上、別人格として独立して登場するが、映画のシナリオではダブル(そっくりな人、分身、生霊)と表現される箇所もあるので、二人の女性のアイデンティティの分化はきわめて不確かである。ニーナの前にリリーが現れるのは、ほとんどいつもと言っていいほど鏡の前においてである。ニーナが初めてリリーに出会うのは、楽屋の鏡の前である。黒い服を着たリリーは、まるで鏡の中から抜け出てきたかのように新入りとして皆の前に姿を現す。二度目のリリー登場も鏡に囲まれたリハーサル・ルームにおいてであり、リリーは遅れてやって来て、オーディション中のニーナを驚かして足元を狂わせ、失敗させる。
リリーが直接ニーナと会話するのは、スポンサーのパーティー会場の化粧室においてである。黒い服に黒いパンティーをはいたリリーは、鏡の前で化粧中のニーナをせかして目の前でパンティーを脱いで便座に座り込む。鏡に囲まれたリリーは親しげに話しかけるが、ニーナはとまどってそそくさと出て行く。トマの望み通りにブラック・スワンの妖艶さがうまく表現できず、一人悩むニーナの前に、再びからかうようにリリーが現れるのは、等身大の巨大な鏡をしつらえたリハーサル・ルームである。また母親による性的抑圧のために女性のセクシュアリティを表現できず悩むニーナに性的開花あるいは性的堕落の手助け役として現れたリリーは、バーで自分の黒い下着をニーナに与える。リリーが与えた薬のためにはめを外したニーナは、鏡の前でその黒い下着を身に着け、別人になって奔放に危険なアヴァンチュールを楽しむ。大胆になったニーナは、自宅の自室にリリーを引き入れ、レズビアン・ラブを楽しむが、これが現実の出来事なのか、ニーナの妄想なのかは定かでない。
怒る母エリカを尻目に、酔いのまわったニーナとリリーはもつれあうように部屋へとなだれ込むが、二人の姿は鏡の中に映されるので、この情事がニーナの幻覚、つまり鏡の中の非現実のできごとにすぎない可能性も示唆される。初日の舞台でブラック・スワンを踊ろうとするニーナをあざ笑って役を取り合い、あげくのはてにリリーは殺されるが、その場所は楽屋のニーナ専用個室の鏡の前である。ニーナのリリー殺しの凶器は、割った鏡の破片である。この凶行は幻想の入り口をつかさどる鏡の前で行われた鏡を用いた行為なので、現実に起きたことなのかどうか怪しい。映像上はニーナがリリーを殺傷して大量のどす黒い血を流させ、リリーの死体を片づけるが、観客が見せられたものはすべてニーナの視覚によって認知された映像にすぎないことが後の場面で明らかにされる。
(5)魔物
一般的に鏡を見る機会の多い女性は「夜に鏡を覗くと魔物が出てくる」と脅える傾向があるという(柴山 五六)。解離性障害の患者、俗にいう多重人格者は、「鏡が、特に夜の鏡が怖い」(柴山 五六)とされる。なぜ鏡が怖いのかについては二つの理由が挙げられる。第一の理由は「鏡を見てもそこにうつっているのが自分の姿であるという実感がないこと」、第二は「鏡に自分以外の何か、普通は映らないものが映っているような気がする」、「自分の背後に何かがいるのが映っていそうでとても怖い」あるいは「鏡にもうひとりの自分が映っている」と考えるからだ(柴山 五六-五七)。主として第二番目の理由で鏡を怖がることが解離の特徴的症状であり、健康な人とは違う点である(柴山 五七)。
鏡は私を、そしてこの世を映しだすものであるが、それとともに鏡の向こう側を、つまりもうひとりの私、もうひとつの世界を映し出すのだろう。(中略)この世とあの世、昼と夜、内と外を仕切る境界、幕、仕切りにはあの世や夜、外の世界など向こう側の世界を遮蔽する力があるが、その一方でその力がときに減弱し、向こう側の世界がその境界に影として立ち現れるのではないか。そういった不安をわれわれは共通して持っているのではないだろうか。そのような境界、境、仕切りなどの例として、鏡や膜、水鏡などをあげることもできるであろう。鏡にはさまざまな心理学的な意味がある。解離の眼差しでそれを見るとき、こちら側にいる眼差す私は夢のようにはかなく影のように感じられることがある。それとともに鏡の向こう側からこちらを眼差す他者の気配は鏡にありありと影として映しだされる。このように解離と「かげ」の関係は深い結びつきがある(以下略)(柴山 五八)。
本番を迎え、緊張が高まったニーナは、鏡の中の自分が現実の自分自身と違って見える、あるいは違った動きをするのを見る――少なくとも観客がスクリーン上に映る鏡の中のニーナは、目の前にいるニーナをそのまま映しだしていないことを知らされる。本番前日の衣装合わせの時に、前夜一人で遅くまで残って練習を続ける時に、ニーナは鏡の中の自分が勝手なポーズをとるのを見てあわてる。
極度の緊張とストレスのために本番前夜のニーナは鏡の中に異様なものを次々と見る。リハーサル・ルームのライトが突然消え、闇の中に残されたニーナは、リリーらしき影が鏡の中を横切るのを見て後を追うと、リリーがトマと性的に交わっているのを目撃する。歓喜のためにあえぐリリー、そして振り向いたトマは悪魔ロットバルトの仮面をつけているとニーナは見る。盗んだ小物を返しにベスの病院に向かうとベスはナイフで自分の顔を切りつける自傷行為を繰り返し、泣き叫んで逃げるニーナの家に出没する。ニーナの家の鏡の中からベスの亡霊が浮き彫りになって睨みつける。かき傷だらけの肩を気にしてニーナが鏡を覗きこむと、その痣からは黒い黒鳥のとげのような羽が突き出て、ニーナの白目は真っ赤に変わっている。母エリカが「病気よ」と絶叫するように解離性障害の患者に転じたニーナにとって、鏡は「夜覗くと魔物が出てくる」向こう側の世界、日常性の下に隠され、抑圧された影の存在を映しだすものであり、魔界への入り口なのである。
C.多重人格(解離性同一障害)
映画『ブラック・スワン』は、バレエ『白鳥の湖』を演ずるバレリーナの多重人格(解離性同一障害)の状況をホワイト(白)とブラック(黒)の二役を軸に表現した。多重人格とは、「複数の交代人格を有し、それぞれが異なったアイデンティティや記憶、ないしは対象関係の持ち方を示す」(『精神分析事典』)。
現代心理学の一般的見解は、哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉が意味するように、「本当の自分」など存在しない、自我は一つの型にはめこむことのできるものではなく、自己は本来多面体だとしている(岡野 七八-七九)。人間の人格は心の中にある複数のネットワークが並行処理され、同時に働くことによって総体となった状態である。さまざまな自分を心の中で調和させ、使い分け、バランスよくどの自分を出すかを調整して表現できるのがふつうの状態である。多重人格発症者は、場面や相手に応じてスイッチが切り替えられず、多層な人格同士のネットワークが断絶した状態にあり、心の中の複数の人格の階層のバランスが分裂している。その場合、別人格同士では記憶が共有されない場合が多いが、互いに記憶を共有し、監視し合っている場合もある。現代の精神医学では、多重人格者はトラウマやストレスの犠牲者だと考えられている(岡野 八〇-八五)。
(1)地下鉄
ニーナが多重人格障害の兆候を最初に見るのは、地下鉄内においてである。地下鉄は英語で“subway”あるいは“underground”と呼ばれるが、この二つの単語の形容詞形は、「地下の、隠れた」(subterranean)、「埋められた、葬られた」(buried)、「秘密の」(secret)、「隠された」(hidden)、「隠れている、見えない、潜在性の」(latent)と同意義である。また“underground”と同意語とみなしてよい“underworld”は「冥界」の意味であり、心理学では「無意識の世界を表す」(ド・フリース「異界」の項目)。
ニーナは、リハーサル・スペースに通うため毎日ニューヨークの地下鉄に乗るが、ガラスに映った自分の顔を見ているうちに、反対車両にいる自分にそっくりの女性が下車するのに気づく。この時は後ろ姿しか確認されないので、はたして彼女が自分のダブルであるかどうかはっきりしない。しかし、ニーナがベスの口紅を盗んだ後地下鉄構内ですれ違う薄暗いイメージの女性は瓜二つの顔立ちをしているのが観客にはわかる。ニーナとそのダブルは顔を合わせるが、ダブルは知らん顔で通り過ぎていく不思議な場面である。驚くニーナを現実に戻し、警告するかのように母がニーナの携帯のベルを鳴らす。ニーナは、プリマ抜擢の正夢を見た後、あるいは悪魔に呪いをかけられた後から人格分裂の悪夢を見るようになる。プリマ獲得のプレッシャーからベスの所持品、特に欧米では女性側の性的挑発を暗示する口紅を盗んだ自分を密かに罰するかのようにニーナは自己の意識下に潜り、もう一人の自分を見る。ニーナが無意識に、自分の隠された野望とそのための盗みを非難する他人の目を意識する心、つまり罪意識がニーナにダブルを見させたと解釈できる。
エドガー・アラン・ポーのドッペルゲンガーを扱った「ウィリアム・ウィルソン」の中で、悪玉ウィルソンが悪事を企もうとすると、善玉ウィルソンが登場して非難するように、ニーナのダブルも地下鉄という無意識を表す空間に突然姿を現したのである。またブラック・スワンの官能性を表現しきれず悩むニーナが、帰り道の地下鉄で遭遇するマスターベーションをしてみせる変態老人も、ニーナの意識下の歪んだ自我が生んだ多重人格の一人であろう。
無意識の世界を象徴する地下鉄は、ニーナにとっては男女の性的交接を暗示している。女性性の象徴であるトンネルに侵入し、暗い内部で蠢き、通過していく男性的なものとの接触は、ニーナに抑圧された欲望の正体を暴き、意識下に隠蔽されたもう一人の自分を見させる。
(2)ドッペルゲンガー
(a) ニーナとリリー
ドッペルゲンガー(doppelgänger)の意味は、「生霊、特に本人だけに見える自分の生霊、もう一人の自分、分身、瓜二つの人」である。地下鉄構内のニーナにそっくりのダーク・レディーはニーナだけが見る亡霊かもしれないが、ニーナの分身とされるブラック・スワン役のリリーは、映画の他の登場人物すべてに、そして観客に認知される実在の人物として設定される。ニーナとリリーの対面が鏡に始まり、鏡の中で起こる場合が多いことはすでに述べたが、映画『イブの三つの顔』(一九五八年)のように、ニーナがイヴ・ホワイト役を、リリーがイブ・ブラック役を演じていると考えるとわかりやすい。多重人格の実話に基づく『イヴ』は、心理学的観点のみから描かれているのに対して、『ブラック・スワン』は精神分析的アプローチにとどまらず、オカルト的要素を加え、さらなる映像上のスリルを高める。
映画の前半では、純粋で繊細なホワイト・スワンの性質を持つニーナは常に白い服、官能的で誘惑する悪徳の化身のブラック・スワン役リリーは黒い服で登場する。二人が白と黒のドレスではっきり区別されるのは、レズビアン・シーンまでである。白い下着を着たニーナが、薬の作用で積極的になり、自分の殻を破って、黒い下着のリリーに挑み、性的に合体を果たすシーンで明確な区別は終わる。
二人の女の愛欲の場面がニーナの一方的幻想だったのか、現実に起きたことなのか、よくわからないが、映画の後半においてリリーとニーナは、以後白と黒の混ざり合った服を着用する。薬の作用で寝過ごして練習に遅刻したニーナの代役を嬉々として踊るリリーのクラシック・チュチュ(裾の短いバレー服)は、黒を基調として縁取りは白である。リリーの悪の要素を吸収して挑発的踊り手に転じたニーナがリハーサル用に着るチュチュは、上半身は黒色、スカート部分は白色である。
ホワイトとブラックの両方の要素を身に着けることに成功したニーナは、バレリーナとして大成功を収める。しかし、それはホワイト・スワンとしてのニーナの特性を捨てることであり、ニーナのアイデンティティの危機を意味する。『イブの三つの顔』では、イブ・ホワイトとイブ・ブラックが統合してバランスのとれた第三の人格ジェーンが誕生するハッピー・エンドである。
しかし、『ブラック・スワン』では、踊った題目『白鳥の湖』に準じてオデット役のニーナは瀕死の状態で幕が下りるが、ライバルのリリーは無傷で生きている。ニーナはリリーを鏡の破片で突き刺して殺したつもりだったが、実は自分自身を刺してしまったことが観客にはわかる。リリー殺しは、ニーナの幻覚であったことがスクリーン上明らかにされ、ニーナは意識下でもう一人の自分を抹殺したにすぎないことがわかる。ポーの「ウィリアム・ウィルソン」では、悪玉ウィルソンが善玉を殺すことによって自分自身を殺した男になり、結局破滅するが、『ブラック・スワン』も分身殺しによる人格崩壊という点で同様の結末である。ただし『ブラック・スワン』はウィリアム・ウィルソンとは違って、善玉ホワイト・スワンが悪玉ブラック・スワンを刺し殺すひねりのきいた設定になっている。
(b) ニーナと他の女たち(先輩ベスと母エリカ)
バレエ団の方針変更のためにプリマの座をニーナに奪われる先輩ベスは、ニーナの生霊でもある。ベスもリリー同様、映画内の登場人物として認知される存在だが、シナリオの後半ではダブルと表示されるように、ニーナのデジャヴュ(既視感、経験したことがないのに見たことがある、あるいは以前に夢で見たと感じること)であり、予知夢(すでに起こったことが繰り返されるという「反復生起の意識」)を具現化した存在である。先に述べたニーナが夜見た「白日夢」は予知夢の一種だが、ベスは反復生起の意識が肉体化されてニーナの前に現れた例だといえる。ニーナがベスに惹かれ、ベスのまじないのかかった口紅を盗んで、ベスに同化してまで成功を収めようとするのは、ベスがニーナの未来を体現する分身だからである。ニーナはベスにならって予想通りにトマから「僕のお姫さま」と呼ばれるが、ベス同様、悪魔の呪い通りに精神崩壊に導かれる。
母エリカも、映画の後半でニーナのダブルとして亡霊のような姿を顕す。母はニーナに一番影響力を及ぼし、ニーナを成功に導くと同時にニーナの人格分裂の原因をつくった。二八歳の時、過ちのためにニーナを妊娠して引退を余儀なくされた元バレリーナの母は、ニーナに多大な期待をかけ、厳しく管理し、過保護に世話をする。ニーナの居場所にうるさいほど携帯電話をかけて安全を確認し、ニーナの交友関係に眼を光らせ、ニーナの自傷癖による痣をチェックする。母は性的堕落によってバレリーナの地位を失ったために、娘を必要以上に監視し、性的に抑圧する。ブラック・スワンの官能性が表現できず、苦しむニーナにトマはマスターベーションをすすめるが、自室で実行の最中に母エリカの幻覚が突如出現して、ニーナは快楽を中断せざるをえない。母はトマの誘惑を先手を打って阻止しようとニーナに執拗に二人の関係を尋ねる。
母は、ニーナのバレリーナとしての技術を磨く大きな手助けになってきたが、娘を性的に抑圧する存在である。エリカはニーナを監視するスーパーエゴ(自我を監視する無意識内の良心)の役割を担う。母エリカも女であり、人間であるから娘ニーナに対する感情は複雑で、娘の成功を喜び、誇らしく思うと同時にライバル意識を燃やしてもいる。ニーナはブラック・スワン役を「私の番よ」(“ My turn”)と奪おうとするリリーを殺害するが、本番の前夜、アパートで帰りを待つ母エリカも同じせりふを吐いてニーナを威嚇する。母エリカの動作がリリーのそれ同様、ニーナの幻覚なのかどうか明らかにされないが、母と娘は明らかに一卵性双生児の類似性、影響力を持たされている。ニーナは最強のダブルである母の過保護と影響力を振り切ることによって解放され、芸術家として自由な表現を得て成功するが、そのことはニーナ自身のアイデンティティを崩し、瀕死の白鳥を実生活でも演じきることになる。
結局、『ブラック・スワン』に登場する主たる女性のすべて(リリー、ベス、母エリカ)がニーナのダブルとしての機能を負わされていたことになる。プリマの座を争うバレリーナの執念には年齢も立場も関係ないという意味で、すべてのダンサーはニーナのライヴァルとして登場する。彼女らをダブルにさせたのは、ニーナの過度の被害者意識と防衛本能がなせる幻覚だったのかもしれない。しかし、バレリーナにとってプリマになることは職業上の宿命的オブセッション(妄執、執着、取りつかれていること)だったといえる。
おわりに
『ブラック・スワン』が多重構造に作られた理由は、第一にはこの作品が劇中劇の構造を持つからである。「白鳥の湖」を踊るバレリーナたちの葛藤を描いた物語が映画『ブラック・スワン』であり、観客が映画化された物語を映し出して語るスクリーンを見るという幾層にもわたる入れ子細工の仕掛けのせいである。第二の理由は、ヒロインのニーナが精神的抑圧から多重人格の症状を併発したことによる。ニーナがいくつものダブルを見るにいたる理由は、主役を演じることが喜びであると同時に重荷であり、ストレスとなったため、現実逃避の必要があったからである。
優等生ニーナの弱点は、ブラック・スワンの官能性、悪への堕落を演じきれないことである。ニーナは強引なキスを拒絶して、トマの舌を噛む激しさを持っているのだから、ブラック・スワン的要素を秘めた女性である。しかし、ニーナが実生活でも演技のうえでも官能性を豊かに開花できないのは、主として母親エリカによる抑圧のためである。快楽をむさぼった罰でバレリーナの地位を奪われた母は、娘に二の舞を踏ませないように、セックスをタブー視して娘を育てた。その結果、ニーナは処女ではないが、恋愛に喜びを感じない冷感症に育った。ニーナはトマに惚れているのに、本腰を入れて誘惑することができず、常に受動態のままであり、トマのキスすら拒むような自分の欲望に正直になれない娘である。ニーナの性的開花には悪の化身、ブラック・スワンに変身するために人格分離という口実あるいは手だてが必要なのである。
しかし、なぜニーナはそれほどまでに性的誘惑を退けるのだろうか。母エリカの教育が功を奏したにせよ、自分の欲望を偽ることにおいて極端ではないだろうか。ニーナが性的誘惑を敵視して、セクシャルなものを厭わしく思えば思うほど、ニーナの無意識には性的オブセッションがはびこる。地下鉄の中で誘惑する変態老人、悪魔の仮面をかぶったトマとセックスするリリー、タクシーの中でニーナの脚の間に手を入れ、ニーナとセックスするリリー、王子役のダンサーの股間をまさぐるリリーもすべて抑圧されたニーナの性夢(ウェット・ドリーム)だったのではないかと観客は疑うことだろう。ニーナの性的意識は、リリーとの情事によって解放され、ニーナは見事なブラック・スワンを踊りきる。
しかしよく考えてみると、ニーナは性的行為を何一つ成就していないのである。リリーとのことも現実か幻想なのかはっきりしないし、ニーナは男性とは何もできないままで終わっている。本番の合間に、勇気を得たニーナはあこがれのトマの唇に進んでキスをすることまで、それで終わりである。ニーナの心は悪徳を経験したが、肉体は元のままに保たれてエンディングを迎える。ニーナは果たして本当に性的に解放されたのだろうか。
ニーナにアメリカの伝統的ピューリタンの娘としての純潔を保たせたまま、舞台の幕は下りる。『ブラック・スワン』の悩ましいところは、現実には何も起こらないのに、いや起こらないからこそ、性的妄想によってありえないほど淫らで歪んだ幻覚がスクリーンの上を闊歩するところである。『ブラック・スワン』は禁欲的であるということが逆にいかに淫蕩な世界を生み出すかを不気味なまでにわくわくさせる映像によって証明してくれた。その意味で、『ブラック・スワン』は、性的抑圧による歪んだ官能の暗い世界を描いたアメリカの文学者ナサナエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne)の系譜を継ぐピューリタンの産物なのである。ホーソンの「若いグッドマン・ブラウン」(“Young Goodman Brown”)は、信心深いブラウンが自分にそっくりの男によって暗い森に導かれ、悪魔と魔女の淫らな悪夢のような饗宴を覗き見し、妻もそこに参加していたことを知り、人間不信の陰鬱な男として余生を送る話である。ニーナもブラウンが暗い森に導かれたように芸術の暗い森に連れ込まれ、無意識の領域に沈殿していた悪への共鳴に目覚めた。ニーナの性的抑圧は、母エリカの禁制のためだけではなく、もっと大きな枠組みであるアメリカの文化の一翼を担うピューリタニズムとの関連において考える必要がある。冷感症のニーナが芸術家として十分に開花できないこと自体が、ピューリタンの禁欲から自由になれず、もがくアメリカ文化の悩みを体現しているからである。
DVD
『イブの三つの顔』(The Three Faces of Eve)監督:ナナリー・ジョンソン、出演:ジョアン・ウッドワード、ディヴィッド・ウェイン、20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント、二〇〇五年。
『ブラック・スワン』(Black Swan)監督:ダーレン・アロノフスキー、出演:ナタリー・ポートマン、ヴァンサン・カッセル、ミラ・クニス、バーバラ・ハーシー、ウィノナ・ライダー、20世紀フォックス・ホームエンターテイメント・ジャパン、二〇一一年。
シナリオ
Heyman, Mark, Andres Heinz & John McLaughlin. Black Swan Script. 11 Jan.2010.IMSDb.23 March.2012.
.
参考文献
岡野憲一郎『多重人格者―あの人の二面性は病気か、ただの性格か』、講談社、二〇〇九年。
小此木啓吾ほか『精神分析事典』(「多重人格」の項目)、岩崎学術出版社、二〇〇一年。
ド・フリース、アド『イメージ・シンボル事典』(Dictionary of Symbols and Imagery)(“underworld” 「冥界」の項目)、山下主一郎ほか訳、大修館書店、一九八四年。
柴山雅俊『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理』、筑摩書房、二〇〇七年。
中村樹基「Review-『ブラック・スワン』―かけられた呪いと魔法」、映画パンフレット『ブラック・スワン』、東宝、二〇一一年。
フロイト、シグムント『精神分析入門』上巻、高橋義孝ほか訳、新潮社、一九七七年。
ペンダークラスト、マーク『鏡の歴史』樋口幸子訳、河出書房新社、二〇〇七年。
Dicharia,Tom.“‘Black Swan’Reviews:Portman’s Psychological Thriller Dances its Way into Critics’Hearts.”.MTV Movies Blog. 3 Dec. 2010.
Hawthorne, Nathaniel.“Young Goodman Brown.”Young Goodman Brown and Other Tales (Oxford World Classics). Oxford: Oxford University Press, 2009.
Poe, Edgar Allan. “William Wilson.”The Borzoi Poe: The Complete Poems and Stories of Edgar Allan Poe.New York:Alfred A.Knopf,1946.