第一章 たこやきの誕生
正しいたこやきの定義
たこやきを知るために、十年まえからさまざまな文献にあたっているのだが、たこやきそのものをあつかっている書物も、たこやきについてのちょっとした記事にもほとんど出会えない。たこやきなんて――というのが、ふつうの人の率直な気持ちだろう。
メリケン粉を溶いた中へ、小さく刻んだ蛸を入れ、直径一寸(約三センチ)位の型に流し込んで焼くもの。相当前から夜店などに出ていたが、週刊誌が大阪らしいものとして紹介してから流行に拍車をかけた。戦前は、二個一銭くらい。
昭和初期、大阪に生まれ育った人にたずねても、たこやきは戦後のものだ、という反応は多い。ここで一般的なたこやきの定義として『広辞苑』(岩波書店、第四版)を引用してみると、
たこやき〔蛸焼〕水に溶いた小麦粉に刻んだ蛸・乾しえび・ねぎ・紅しょうがなどを加え、鉄製の型に流しこんで、球形に焼き上げる食物。大阪から全国に広まる。
昭和三〇年に出された『広辞苑』第一版にはたこやき、お好み焼の両方とものっていないが、四四年に出された第二版にはお好み焼の項だけがある。そして昭和五八年の第三版にはたこやきが初登場する。編者の意向は知らないが、第三版にたこやきの項目が加えられたのは興味深い事実だ。
だが残念なことに、『広辞苑』の記述のとおりに、たこやきをつくったとしても、決してうまいものにはならない。なにを参考にして書かれたのか、ここでのたこやきの説明は、たこ焼の前身であるラヂオ焼のつくり方にそっくりである。
はっきりいわせてもらうと『広辞苑』の記述は正しくない。小麦粉を水で溶くところや、ねぎや乾しえび、紅しょうがまで入れてタコをごまかすところなどは、ときおり見かけるが、この場合、ソースや青のり、けずり粉が付加されることによって味が完成される。だが、ここにはソースということばがない。また細部に注目すると、乾しえびを入れるぐらいなら、そのまえに天かす(天麩羅を揚げるとき、具の本体からはずれてしまった衣の滓。関東では「揚げ玉」と呼んでいる)のことを明記する必要があるだろう。
大阪から全国に広まったというのは納得するとしても、なにわのたこ焼の兄貴分としての、明石の玉子焼はまったく考慮にはいっていないではないか。「だしをつけるたこやき」としていまや全国に知れわたっているというのに、ひとこともないのは寂しいかぎりだ。せっかく第三版でとりあげているのに、第四版での訂正は行われていない。改訂版だが、たこやきに関しては素通りである。これはどういうことなのか。『広辞苑』だけを責めるつもりはないが、この項の執筆者はほんとうにうまいたこやきを食べたことがないのだろう。彼らはたこやきの真実の姿を知らないだけなのだ。それなのにタコヤキの項が盛り込まれ、半世起前のつくり方を参考にした記述とは、世の中のたこやき認識の弱さ、いい加減さをみせつけられた思いである。
でもわたしは怒ってはいない。こんなあつかいを受けるところが、たこやきのたこやきたるゆえんなのである。たぶんたこやき愛好家たちは、たこやきらしいなあ、と笑ってすますにちがいない。
なにわのたこ焼
大阪市の西南、西成区。国道二六号線沿い西側に“会津屋”の看板はみえる。シンプルな店構え。店というより、りっぱな屋台といった方が適切かもしれない。通りに面したのれんの下に、たこ焼用の鋳物鍋が一〇枚並ぶ。
一枚が四×七=二八個の穴だから、一度に二八〇個も焼けてしまう勘定になる。この店の営業時間は朝七時から売り切れるまで。だから夕方六時には店じまいをしている。道路にはタクシーがずらりと並ぶこともある。タクシーで買いにくる人もいるし、運転手さんが一服に立ち寄ったりするからだ。
ここのたこ焼はソースたっぷりでも、だしにつける玉子焼でもない。
なにもつけない。
でもおいしい。
つまり最初から味をつけて焼いてあるのだ。なにもつけないから、指でもつまめる。よごれない。運転しながらでも口に放り込める――というのも人気の要素だ。車で走っていると、少し手前から、おしょうゆこんがりのにおいが、ただよっている。
「昔のことやったら、先代の方がよう知っとるわ。戦前から焼いてるし」
そこで今里に住んでいる遠藤留吉・ハツ夫妻をたずねてみた。
遠藤留吉さんは明治四〇年、福島県の出身。昭和初期に夫婦で大阪に出てくる。当時の大阪は工業都市として工場労働者が地方から集まってきた時代だった。遠藤さんは港区夕凪橋、京町堀、今里新地と住まいをかえる。いろいろ仕事を変えた末に、昭和八年、ラヂオ焼の屋台をはじめた。
――ラヂオ焼の屋台をはじめようと思われたきっかけはなんだったんでしょうか。
遠藤 神社とかの縁日いうて、当時は毎晩どっかで、夜店が出とったなあ。古着や古道具、焼き鳥、おでん、にぎり……いろんな屋台が出るんや。バナナのたたき売りなんかは人気あった。今みたいに娯楽がないさかい、縁日の明るさやにぎやかさは、みんなの楽しみやった。
そやからなんかの屋台をしようと思て、千日前の道具屋筋に行って、ラヂオ焼の道具を買うたんや。
――そのころもう道具屋筋には、ラヂオ焼の道具はたくさん売ってたんですか。
遠藤 売ってた。ラヂオ焼いうたら、おやつみたいなもんで、どこでもあったなあ。ブリキのカンテキに鋳物の焼型をのせて、メリケン粉を水で溶いたんを型にながす。そこにこんにゃくやねぎ、天かす、紅しょうがのきざんだんを入れて焼く。しょうゆ味や。ラヂオ焼は二個一銭。屋台のにぎりが一皿三個で五銭ぐらいしとったかなあ。
――ということは、そんなに安いもんでもなかったんでしょうか。
遠藤 そやなあ、にぎりはそんなに高いもんではなかったんや。たいやきが二銭、あんパンが五銭した時代やさかい。
――ラヂオ焼の鋳物というのはどんなものなんですか。
遠藤 たこ焼といっしょや。焼き方もほとんど同じ。
――でもまだたこ焼はなかったんですよね。それになんでラヂオ焼なんていってたんでしょうか。
遠藤 たこ焼はなかった。ラヂオ焼の屋台はようけあったけど。あの形がラヂオの真空管に似てるとか、ラヂオがハイカラで、まだめずらしい時代やったから、そんな名まえがついたんとちがうかなあ。
そやけど、それがあんましうまいものではないんや。子供相手ならいいかもしれへんけど、それでは商売にならへん。夜はおとなの客も多い。おとなが買って、おとなでもよろこぶものをつくらへんとあかんわ。それでなんとかうまいラヂオ焼を焼こうと工夫した。
いろんなもんをためしに入れてみたけど、どれもあかんかった。そやけどある日、しょうゆ味でたいた牛スジなどを切って入れてみたら、案外いけたんでしばらくそれで売ってみた。コナを流した中へひとかけら入れて焼く。“肉焼き”やな。味はラヂオ焼よりましになってたけど、まだもうひとつやった。
――それはいつごろのことですか。
遠藤 昭和一〇年の一〇月ぐらいやったと思う。もうおとなのお客さんもようけ来てくれてたころやなあ。
それで肉焼きをはじめて、ちょうどひと月くらいたったある日、お客さんが「なにわは肉かいな。明石はタコ入れとるで」と教えてくれたんや。それから肉のかわりにタコを入れるようになった。ゆでたタコを小さく切って入れる。そのころタコは安かったしな。
ついでにコナ(バイオレットという小麦粉)を溶くときに、だしもいっしょに溶くようにしたんや。幼いころ、会津で母親が粉米をついて餅にして、たまりとかつおだしにつけて、食べさせてくれたことを思い出してなあ。そんでちょっと高級品やったけど、味の素をひとつまみ入れた。これがめっぽううまいんでんが。
(一九八三年八月談)
遠藤さんは目を細めて話してくださった。赤幕に白字で“たこ焼”と染めぬき、昭和一一年には本格的になっていったという。この年の七月に生まれた長女のきみ子さんがおなかにいるときで、昼間はハツさんが一銭洋食を焼き、夜は遠藤さんが縁日や今里新地などの花街で、たこ焼を焼いた。いつのまにか芸妓さんのあいだでも評判になり、「五円分ちょうだい」とまとめて買っていく。当時は紙の袋に入れてもちかえっていったという。
生きること、自分たちのことを考えるだけで精一杯だったから、近所の屋台を意識することもなく、ただ味をよくすることだけを考えた。いくつも試作するので、そのために三食とも、たこ焼を食べなければならないという日もめずらしくなかったと、ハツさんは当時を思い出す。
こうして会津屋の味は確立されていった。
そしてこれは同時に、なにわのたこ焼の誕生の一例といってもいいだろう。遠藤さんたちは、昭和一七年に疎開するまで屋台をつづけ、二三年に大阪市生野区へもどる。
戦後は、統制もとけはじめた昭和二四年、土井勝さん(料理研究家)の母親の紹介で、現在の本店にあたる西成区に店を構え、いまは二代目の吉蔵さんがあとを継ぐ。なにわのたこ焼はますます健在である。
ラヂオ焼というネーミング
ラヂオ焼については「ラジオ」と書く方がいいのかもしれないが、ややノスタルジックな思いもこめて「ラヂオ」、「ラヂオ焼」と表記したい。たこ焼の前身として、ラヂオ焼があったことはまちがいないのだが、なぜラヂオ焼といったのか、さまざまな説がある。
ラヂオが当時は最新型の機械だったから。
ラヂオの真空管に形が似ていたから。
ラヂオ放送のマイクに形が似ていたから。
新世界のラジウム温泉のラジウムがなまってラヂオになった。
当時の大阪に住んでいた人のなかでも、ラヂオ焼の存在をまったく知らない場合もある。せまい大阪でそんなことはあるのかしら、と疑いたくもなるが、それは現代の情報社会の速度で考えているからだ。ひとつの例として、大正の末、兵庫県但馬に生まれた作家の山田風太郎さんのコラムがある。彼が握り鮨をはじめて口にしたのは、なんと戦後しばらくしてからだという。都会の屋台ではおそくとも明治期には馴染みの握り鮨だが、それは都市に限られたものだったようだ。少なくとも戦前までは、情報の伝播速度はゆったりとしたものだった。ましてたべもののことがすぐにマスコミに拾われることなど、ありえなかったのだろう。
たこやきに話をもどすと、道具屋筋では、のちのたこ焼用鋳物鍋が、ラヂオ焼用の鍋として販売されていたのは確かである。ここでラヂオ焼、と唐突にいわれてももうひとつピンとこない。ラヂオは聞くもので、食べることにはなんら関係ない。ましてラヂオというモノにハイカラな感じやプラスのイメージをもつことはないのだが、当時としてはかなりおしゃれな語感だった。
ラヂオは無線全般を意味し、一般的には電波による音声放送とその受信機を指す。一九〇六年にアメリカで世界初のラヂオ放送の実験がおこなわれ、翌年には三極真空管が発明され、ラヂオ放送に欠かせない装置の基礎ができる。一九二〇年代にはアメリカはもとより、ヨーロッパでも放送局が開設され、日本では一九二一年(大正一〇年)、民間人によってはじめて電波が発射された。ラヂオへの関心は高まる一方で、一九二五年(大正一四年)には東京、大阪、名古屋で放送局が開局され、ラヂオドラマの放送、国産第一号のラヂオも発売される。昭和三年にはラヂオ体操がはじまって、いよいよ広く親しまれた。
たこ焼がラヂオ焼から派生してきたものであるとするなら、ラヂオ焼はどこからやってきたのだろう。ラヂオ焼の前身には二章で述べるようなちょぼ焼を考えることができる。だがそれでもいくつかの疑問にぶつかる。まず形、焼型の窪みの大きさがちがう。さらに焼型の材質が銅から鉄鋳物へと変化している。
ひとつの仮説として、ちょぼ焼ではあまりにままごと遊びのようで、客層が幼い子供に限定され、客の回転も悪いので、ちょぼ焼を大きくしてみてはどうかという発想だ。もうひとつの推測は、もしそのときに明石の玉子焼が完成されていたならば、その道具を鉄鋳物で安価につくって、屋台のたべものとして売り出す。こんないきさつも考えられるだろう。
いずれにしても、鋳型で焼いた屋台の新商品にどんな名まえをつけようか。悩んだテキヤのおじさんは、風俗の最先端であるラヂオをつかいたくなった――こんな感じで生まれたアイデアだったのだろう。ラヂオ焼というネーミングは戦後もしばらくはつかわれていた。しかしラヂオが一般にいきわたると同時に、ラヂオ焼というネーミングは、魅力を失う皮肉な運命にあった。
第二章 たこやき前史
鋳型のたべもの
たべものを好きな形につくる、ということはそれほど容易なことではなかった。少なくとも餅がハレのたべものであった時代、米が常食ではなかった時代、または小麦粉をつくりだす摺臼が発達していなかった時代は、団子といえどもつくるのはたいへんだった。
穀類を粉にする技術と、型にはめるという発想を得て、ひとつひとつ両手で形づくる系列とは別の成形、調理の方法が可能になったのである。小麦粉を水で溶いて、鉄板や型に流して焼くというやり方はいつごろからあるのか。さらに窪みのある鉄板、鉄鋳物という焼型を用いたたべものは、いつごろはじまったのだろうか。
鋳物の焼型でまず思い浮かぶのは、たいやきである。たいやきの元祖、麻布十番の浪花家総本家三代目の神戸守一さんにおはなしをうかがうことにする。
――たいやきを始められた神戸清次郎さんは大阪の出身だとききましたが。
神戸 そうです。祖先は江戸の文化(期)のころに船問屋をしていました。生国魂神社の辺に住んでいたようですね。銀行もやったりするほど繁栄してた家でしたけど、清次郎が道楽者だったので、家をつぶしてしまいまして、もう関西では商売もできないようになって東京に出てきたんですね。
袋張りとか華道、茶道の先生とかいろいろしましたが、どれもうまくいかなくて、当時はやっていた亀の甲焼をはじめたようですが、そうこうするうちに鯛を型にして、餡を入れる「たいやき」を考案したんです。そのころは飛行船のツェッペリンがやってくるとツェッペリン焼が出てきたり、野球の人気が高まると、ボールの形をしたホームラン焼とか、そういうはやりのものがすぐに焼型のデザインに反映されました。
――なぜ鯛になったんでしょうか。
神戸 そりゃあ鯛はめでたい、ということで昔から縁起ものの魚ですからね。それに高級品でしたから、特別なときしか食べられません。腐っても鯛というでしょう。あのころは特に、庶民の口にはなかなかはいるものではありませんから、鯛の形はすぐに評判になりました。それが明治四二年のことだと聞いてます。
大正昭和にかけてすごい人気になりまして、のれん分けも数多くしました。むつみ会というのをつくって、赤のれんに「たいやき」と染めぬいて、一世を風靡したんです。昭和初年から一五、六年くらいの間に一五〇軒もの浪花屋があったということです。
――たいやきの型は鋳物ですね。
神戸 そうです。彫刻師にたのんで、木型をつくってもらって、川口の鋳物工場で鍋をつくらせます。目玉を大きくしたり、しっぽをかえてみたり、時代によってデザインは微妙に変わりますが、基本は同じです。いまはいくつものタイが連なった焼型も多いですが、やはりひとつひとつの鍋で火加減をみながら焼いたものでないといけませんね。
(一九九二年七月談)
お菓子には型をつかうものが多い。たとえば今川焼。これは地方によって名称も焼く道具も変化しながらいまも健在である。もとは銅板に銅の輪っかをのせて、そこにコナを流し込んで、餡を入れて焼いた。今川焼をはじめ江戸期に登場した型のお菓子は、駄菓子、雑菓子をふくめると数えきれないくらいの種類におよぶ。
菓子については守安正『お菓子の歴史』(東京書房社)がくわしい。これによると少なくとも平安期までは、菓子とは果物や瓜、茄子、苺などの野菜的な果物、そして餅や飴など、穀物の加工品を指し、江戸期元禄年間の菓子の発達によって、現在のような区別が成立したという。
型をつかって焼くお菓子には、古いものでせんべいがある。唐から帰ってきた空海が亀甲型せんべいの製法を伝えたといわれる。九世紀にはいってすぐのことである。ごく一部の階級のたべものだったせんべいが文化・文政期、製法において新たな展開をみせる。神奈川の若菜屋の「亀甲せんべい」は、土地の浦島太郎伝説にちなんでこの型を用いた。小麦粉と砂糖、卵を混ぜて、薄めたタネを亀甲型の鉄の皿範に流し、炭火で両面を焼いたものである。このつくり方をまねて、せんべい業者は一気にふえていった。京菓子ではなかったせんべいが、江戸庶民の気分にぴったり合って、このころ一般的に普及したしょうゆと出会い、草加せんべいをはじめ各地のせんべいを生み出す。
せんべいと一緒に売られていたもなかも、皮は焼型によるものである。皮を焼く専門の業者がいたらしく、「最中の月」の丸いもなかから、四角い「窓の月」まで、風流なネーミングが考え出された。もなかの中身には雑多な菓子くずを一緒にして練り上げるものだったので、生菓子屋は必ずもなかをつくっていたという。
せんべいで人気の菓子屋では、平鍋焼や皿範焼といった銅板や鉄板、鋳物をつかう、せんべいとはまたちがった焼菓子を出していた。寛永年間(一六三三年頃)に江尸麹町三丁目にあった助惣が麩の焼をはじめる。「まずくて下品な菓子」といわれながらも、『富貴地座位』(一七七七年)には「助惣のふの焼」として掲載されている。これは小麦の粉を水でこね、鉄板でうすくのばして焼く。片面に味噌をぬって食べるものだった。そして元禄年間(一六九〇年頃)には餡が発明され、「麩の焼を丸く紙のようにうすく焼き、餡をまん中に入れ四角にたたんだ」銅羅焼を考案している。銅羅で焼くからどら焼であって、はじめは四角いものだったようだ。
『「南方録」を読む』(淡交社)を見ていると、お茶事の菓子として「麩焼」がたびたび出てくる。著者の熊倉功夫さん(国立民族学博物館教授)に利休の麩焼がどんなものだったか、おたずねしてみた。
今でいうとクレープのようなものですね。おそらく鍋にメリケン粉を溶いたものを流して、クレープのような生地をつくり、そこに味噌をぬってロールケーキのように、巻いていくんです。それを適当な大きさに切って出したと思われますね。もちろん利休の手づくりでした。
(一九九二年一二月談)
お茶事につかわれていた麩焼が、百年後には商品化され、江戸庶民の味になっているとは、文化そのものの普遍化の過程を見るようだ。麩焼をお好み焼のルーツという人もある。この説を強引におしすすめると、現代の焼き焼きグルメは、利休の懐石料理に端を発し、展開していることになるではないか。
助惣は江戸末期になくなるが、日本橋大伝馬町の梅花亭森田清のアイデアで、それまでは小麦粉を水で溶くだけだったが、彼は砂糖を入れて甘くした。銅羅の形をした丸いどら焼が人気を呼ぶ。これも現在のどら焼とはやや異なり、小麦粉の皮がうすい。
平鍋焼は鍋にコナを流して焼いて、餡はあとで包んだり、はさんだりしているが、のちの皿範焼は凹凸の激しい両面をもった鍋で焼く。こうした道具の変化からコナを流してそこに餡を入れ、うえから同じ鍋をかぶせて、ひっくり返して裏面を焼く方法が編み出された。ワッフルも皿範焼のアメリカ版と考えていいだろう。江戸末期には店を構えた菓子屋でも、また地方巡業する駄菓子の屋台でも、平らや型になった金属の鍋をつかっての流し焼は広くおこなわれていた。その型やタネの材料など技術的な要素は自然に一般化し、明治のたいやきへとつながっていく。
五厘ッと呼ばれていたべっ甲飴はしんちゅうの型に飴を流し込んだものだ。キセル、ピストル、かんざしなど、大人の道具が型になっているのが、子供には受けたのだろう。そのほか空洞の金花糖も朴や樫の木をつかった型で、鯛の形はポピュラーなものだった。
こういった木型の技術は、落雁に代表される干菓子など、打ち物とよばれる菓子の発達とは無縁なものではないはずだ。落雁は穀類の粉に砂糖や山芋の粉などを混ぜて、木型で搗き固める。もとは明から伝わった「軟落甘」から、近江八景の「堅田の落雁」にひっかけて、白地に黒ごまを散らしたものを喜ぶようになったのが落雁の語源のようだ。古くから伝わる菓子屋には、こういった打ち物の木型がのこっているが、そのなかには細長い板に二列に半球の窪みがついた、ちょうど玉子焼の鍋を思わせるようなものもある。
近藤弘著『日本うまいもの辞典』(東京堂出版)によると、落雁の木型が種々つくられるようになるのは、明和年間(一七六四~七二年)。金沢には一八世紀末に流行った疱瘡を追いやるために考えられた、疱瘡見舞落雁の鯛の木型がのこっており、文化、文政期(一八〇四~二九年)に現在の落雁の木型の基本的な造形が完成したという。駄菓子にも型を用いたものは数多くあるが、それらもこのころに本格化し、露店商の活躍がはじまる。
利休の愛した麩焼からはじまる一連の焼菓子の亜流として、皮にも餡にも砂糖を入れて甘くなった焼菓子が、江戸末期にはしょうゆ味の甘くない間食として、子供文化に再デビューする。打ち物につかわれた木型を利用して鋳物鍋がつくられたかもしれないとなると、一部の高級な食文化から庶民へのおこぼれの一形態として、ちょぼ焼やラヂオ焼、玉子焼、つまり広義のたこやきが登場したことになるだろう。
焼菓子の系譜のなかでも、最後に登場する一面の型に流してから、ひっくり返す方法は、近代にはいってからの創作ではないかと思う。そしてコナの溶き方が、今川焼やたいやきのようにねっとりとして、ふくらし粉などもはいっている量感のあったものだった。これはたこやきとの大きなちがいである。
平鍋焼から進化した、皿範焼の両面の鍋の片面を省略したのが、たこやきの鍋である。道具の省略が、たこやきのひっくり返し技の必然性を生み出した。さらにそのなんどもひっくり返す技によって、大阪のたこ焼にみられるような、薄い溶き粉による表面のおこげと、なかが半熟状の絶品を、はからずも生み出したのである。思いもかけない、味の副産物である。うまいたこ焼のためのこれらの作業は、菓子の領域では考えられなかった発想だった。
駄菓子屋さんのちょぼ焼時代
近ごろ駄菓子屋さんが脚光を浴びている。もちごめや新粉を用いた、いまでいう和風生菓子や、卵、小麦粉、白砂糖、バターをつかった洋菓子とは異なる菓子、つまりマメやアワといった雑穀を主体に、黒砂糖やしょうゆで味つけした駄菓子をあつかう子供たちの社交場として、ひと昔まえの駄菓子屋はにぎわっていた。
横町を曲って、そこからもう一つ、露地にはいると、駄おもちゃ――。そういうことばはしらないが――屋があって、店先に駄菓子が並んでいた。
三角形のはっかの砂糖ガシ、あんこ玉、茶玉というぺたんこなまるいあめ、細いガラスのくだにはいったみかん水、きんかとう、等々、思い出せばきりがない。(中略)
駄菓子屋には口やかましいおかみさんがいた。大店の坊ちゃんだろうと、長屋のはなったれだろうと区別はない。ちょっとこづかいが余計にあって、もう一つ、もう一つと、あんこ玉などを食べていると、「いいかげんにおし。腹も身のうちだよ」などとたしなめられた。こういう、下町の露地裏のおかみさん達が、町の子をしつけてくれたのだ(池田弥三郎・長谷川幸延著『味にしひがし』読売新聞社)。
これは東京下町の駄菓子屋風景である。もんじゃ焼も、たこやきの前身と思われるちょぼ焼も、駄菓子屋の店先にあったたべものだという気がする。気がするというのは、駄菓子をはじめ、一見とるに足らないようなたべものについては記録として残りにくいからだ。そしてようやくちょぼ焼についての記述を得た。
北区役所近くの神明(今もその碑が残っている。大阪三大神明の一つ)さんの前に、おばはんが床几を出し、今はもう見ることもないが、小さい長方形のかんてき(焜炉)の上に、アカの小さい手鍋に穴がいくつも凹んでいて、それに自分の好みでエンドウ豆や小切れのコンニャクをチョボチョボと入れ、うどん粉のといたのを入れる。これをチョボ焼という。
私にはたまらない魅力であった。思い切って一セットあつらえた。初め、チョボチョボと焼いていたのは、何とか醤油を注いで、うまく食べた。ところが、隣にいた女の子が、そんなの初歩や――といわんばかりに、サッと手鍋いっぱいにうどん粉をみたし、それへ醤油をたっぷりと入れて、ホカホ力に焼いた。いわばお好み焼のハシリである(長谷川幸延「カルメラ・チョボ焼・アテモン」『たべもの世相史・大阪』毎日新聞社)。
これを見るとたしかにちょぼ焼というものが大阪の片隅に存在していたことが明らかだ。が、この店が駄菓子屋だったのか、それともちょぼ焼だけをあつかっていたのか、これと屋台のラヂオ焼はどんな関係にあったのか、さまざまな疑問は残る。
ちょぼ焼を「一セットあつらえた」というのはおもしろい。つまり銅の鍋を借りて材料を買い、自分で焼くという、食べることと遊ぶことが一体になったものだったのである。
ここで父親の代から、大阪道具屋筋で調理器具全般をあつかう店を経営する千田敞一郎さんにおはなしをうかがうことができた。千田さんは大正一五年生まれ。少年時代の昭和初期、当時のちょぼ焼、ラヂオ焼を体験しているひとりである。
――ラヂオ焼というのはどんなものだったんでしょうか。
千田 いまのたこ焼とかわらへんよ。タコや紅しょうが、こうこなんかをきざんだのがはいってたなあ。こづかいにぎって、一個や二個買ってたなあ。
――タコはもうはいっていたんですか。
千田 はいっとった。細かくきざんだやつがはいってたなあ。
(後略)
第三章 戦後のたこやき
昭和二二年の冬、場所は堺を流れる大和川の大正橋。ある若者が橋のたもとの屋台に立ち寄る。「たこ焼」ののれんだ。
だがタコではなく、イカのかけらがはいってるたこ焼には、ショースがうっすらとかけてあり、わずかに青のり、かつお節の香りもあった。彼が「イカがはいってるね」というと、主人は「看板にいつわりありですわ」と答えた。聞いてみると特攻隊の生き残りの兵士がたこ焼の屋台を出しているのだった。
これは大塚滋さん(武庫川女子大学教授)にうかがった、戦後すぐのたこ焼エピソードである。ラヂオ焼から派生したたこ焼は戦後こんなに早い時期に、大阪近辺で復活しはじめていたのである。
そしてしょうゆ味でもウスターソースでもない、悪質な調味料であるショースがかかっていたというのも、たこやき史にとっては貴重な証言だ。
これについては、ソースのところでくわしく述べたいが、しょうゆ味からソース味への転換にはクッションとしてショースというものの存在があった。食糧難のなかで調味料もまた高級品だった時代に、しょうゆともソースともわからない、ただ色がついていて辛いような甘いようなショースが、代用食であるまずい粉食にごまかすようにかけられていたのである。
このときからソースのたこ焼のきざしは見え隠れしている。劣悪なショースとイカ入りたこ焼の存在は意味深いのである。
あみだのたこ焼
戦後も数年たつと、食糧事情もおちついてくる。関西、とくに京阪神の人たちは再び食べることに楽しみを見出すようになる。
昭和二六年、菓子屋の鶴屋八幡にある甘辛社から発行された月刊誌「あまカラ」もそういった通好みの、いまでいうグルメ雑誌として人気があった。そのなかに「あまカラ随筆」のコーナーがあり、著名人が文章をよせていた。昭和三一年一月号に、吉田三七雄という新聞の記者が「たこやき」というエッセーを書いている。めずらしいので全文を紹介する。
先程までたてこんでいた客が、潮のひくように出て行ったあと、「バー・ふじ」の中にしーんと妙な静けさがただよった。
ボックスのテープルの上を片づけていた美沙は、ふとその静けさが身内にぞっとしみこんだように、なんとも言えぬ淋しさに捉われてしまった。正月ももう松の内がすんで、きょうは二十日、いつものようにサラリーの日だが、胸算用で受取る額は、到底母のまつを入院させてやれる程のものではなかった。
「バー・ふじ」では、勘定のときに、サービス料として一割を加え、それをマダムが責任を持って保管しておくという約束で、毎月二十日に美沙たち六人に分ける制度だった。暮の二十日に美沙が受取ったのは、一万五千円、こんどは忘年会やクリスマスの流れと、新年宴会気分の梯子客があったので、それよりは多いと思われるのだが、それでも正月用に新しく作ったスーツの月賦分を引去ると、あまり変わらないようにも思われた。
長い間の無理がたたって、腎臓病がもうとことんのところまできてしまった母を、せめて病院で死なせてやりたい――それが美沙のただ一つの願いだったが、こんな調子ではその実現はなかなか難しいことだった。
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「美沙ちゃん、たこやきのあみだやってんねんけど、あんたどれを引く?」
マダムの声に、はっと笑顔に返って、
「どれでもええさかい、マダムが引いといて頂戴」
と答えた。
たこやきというのは、ここ一、二年の間に、それこそ雨後の筍のように大阪の街々に現れた屋台のつまみ食いもので、屋台の数が五千もあるというのだから、パチンコ屋の数よりも多かった。
直径一寸位の穴がたくさんある鉄板を火の上にのせ、その穴のなかへメリケン粉をといて流しこみ、天ぶらの揚げかす、削りかつおの粉、小さくきざんだ蛸などを入れ、紅しょうがと醤油で味をつけて焼きあげたもので、お好み焼の小さな団子のようなものだが、夜ともなると、鉢巻をしめた蛸入道の絵をかいた屋台店が街の辻々に並び、酔っぱらいの安サラリーマンや、美沙たちのような酒場の女たちで大繁昌していた。
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「美沙ちゃん、えらいすまんこっちゃ、わてを怨まんといてや、あみだがあんたに当たったんや」
あみだ籤が美沙に当たったことを、マダムは本当にすまないと思っている顔つきだった。
またこれで百円損である、こんなことやったらうちが引いたらよかった、と思ったが、マダムにまかしとくと言った以上、なんにも文句が言えなかった。
美沙はオーバーをひっかけて外へ出た。
「バー・ふじ」の通りの辻の角にもたこやき屋が二軒店を張っていたが、美沙はその前を通り抜けて、梅田新道のお初天神の北門へと足を急がせた。この北門の前に三軒屋台店が並んでいたが、そのうちの真ン中の店が一番おいしいという評判で、美沙たちはどんなことがあっても、その店で買うようにした。それは、まるで信仰に近い程で、隣りに並んだ屋台に焼け上がったたこやきが積み重ねてあってもそれを買おうとはしなかった。
「おっちゃん、頂戴」
オーバーのポケットから、百円札を取り出して渡すと、六十がらみのおやじは、老眼鏡の上からじろりと美沙を見て、黙ってこっくりとうなずいた。
なんのあいそもないおやじだが、そのぷつんとしたところが、なんだか名人肌のように思えて、たこやきの味が一層おいしかった。
鉄板の上に手をかざしながら、くるり、くるりとひっくり返してゆくおやじの、器用な手つきを見ていた美沙は、ふと焼き上がったたこやきのにおいが、小さい頃住んでいた難波の家で、よく遊んだちょぼやきのにおいと、まるで同じだということに気がついた。
ちょぼやきというのは、ハガキくらいの大きさの、横三つ、縦に四つの穴のあいた薄い金板に、木の柄がついている二組の道具を、小さな二段になったカンテキの上と下に置いて焼くもので、メリケン粉のといたものをこの金板にべったり流し、十二の穴にこんにゃくか小えびの乾したのを入れ、醤油をちょい、ちょいと入れて焼く。上段のほうがほどよく焼けてきたら、これを洲の下へ入れて表面を焼き、また上段へ別の金具をのせて、次から次へと焼いてゆくのだった。
そのちょぼやき屋が、ちょうど今のたこやきのように、大阪の街々に店を張っていて、女子供を相手に繁昌していたが、心斎橋の南詰にあった有名なすき焼屋の仲居をしていた母のまつは、店に出る前に美沙に小銭を渡し、ちょぼやきでもして、おとなしゅう遊んでなあれや、とよく言ったものだった。
たこやきの焼けるにおいに、昔のちょぼやきのにおいを思い出した美沙は、小さなアパートの一室で、青ぶくれの顔を横たえて寝ているまつが、自分を育てるために、いろいろと苦労をしただろうことを思い浮かべて、目頭の涙をハンカチでそっとおさえた。そのあとで、横を向いてちーんと鼻をかんだ。冷たい夜飛(原文のまま)が頬に痛かった。
わたしが生まれる数年前の作品である。たこやき、ちょぼやきにいちいち傍点がついているのは、まだ一般的ではなかったことを意味している。
「ここ一、二年で雨後の筍のように」という表現を信じるならば、この時期から戦後の食糧事情は安定期にはいり、高度成長へと向かう過渡期ともいえるだろう。まず食糧の統制がなくなり、だれもが容易にメリケン粉を手に入れることができた。さらに、繁華街での間食としてたこやきが市民権を得はじめる。
それにしても当時のたこやきが、タコだけを入れるものではなくて、天かすやかつお、紅しょうがなどを入れた醤油味の「お好み焼の小さな団子のようなもの」ということは注目に値する。
ちょぼ焼についてもくわしい説明がある。美沙が二〇代半ばくらいの年齢だとすると、彼女がちょぼ焼を楽しんだのは昭和一〇年から一四、五年にかけてのころである。戦争への雲行きのあやしさのなか、当時はまだ駄菓子屋において、子供の遊びとおやつを兼ねたちょぼ焼が健在だったのかもしれない。
たこ焼のタコをさがしていた時代
戦争を契機に、その存在形態を変化せざるをえなかったことは、ちょぼ焼やラヂオ焼、たこやきにかぎったことではない。大阪に生まれ育ち、戦後闇市時代から本屋さんをしてられる坂本健一さんに、すまんだ(大阪弁で「隅っこ」の意味)の食べものについておはなしをうかがった。
――坂本さんはラヂオ焼というのを召し上がったことはありますか。
坂本 ラヂオ焼というのは聞いたことないですなあ。
――ではたこ焼は?
坂本 たこ焼は知ってますけど、あれは戦後いいだしたんとちがいますか。一銭洋食いうて、いまのお好み焼にあたるのは戦前からありましたね。はじめはメリケン粉とねぎを焼いたのに、青のりとソースがかかっていて、だんだんぜいたくになると、上焼きといって肉とか天かすもはいるようになりました。
戦前、日本橋三丁目に松坂屋があったころ、そこの地下では、モダン焼という太鼓まんじゅうの形の一銭洋食を売ってました。なんとなく高級な感じがしましたなあ。作り方はメリケン粉を流したなかへ、イカ、タコ、キャベッ、ねぎ、しょうが、天かすなんかを餡のようにして入れて、ひっくり返したものです。ほかではあまり見かけませんでした。戦後はもうなくなってしまったんとちがいますか。
――ちょぼ焼というのはご存知ですか。
坂本 ふつうはちょぼちょぼ焼というんですよ。銅製の道具にメリケン粉をちょぼちょぼ流して、そこにコンニャクやえんどう、桜えびなんかを入れて、お寺の門前などの屋台で売ってましたね。扇町から天神橋五丁目のガードの下にはそういった屋台が多くて、関東煮きや一銭洋食、どて焼もありました。
一文菓子屋では一銭洋食とか、夏場はところてんを出してました。アルミのペコペコのお皿にのったところてんに、黒蜜かお酢をかけてくれるんです。
大阪ではなぜか駄菓子屋とはいわないんですよ。駄菓子というとなんか低いイメージがあって、売ってる人たちが喜ばないんです。それで一文菓子屋、一文菓子と呼んでました。
わたしが小さい頃は、外で買い食いするのは許されなかったんです。おやつは家で食べるようにいわれてました。ですからちょぼちょぼ焼もめったに口にできず、それでかえって当時のつまらないたべもののことを鮮明におばえているわけです。
ちょぼちょぼ焼は、もうふつうの店ではあつかっていませんが、意外と料亭なんかで出してるところがあるそうです。叔父がちょぼちょぼ焼が出てきてびっくりしていましたから。ちょぼ焼もお好み焼も、もとは花町の旦那衆と芸者さんとのお遊び的な要素が強いたべものでしょう。
――坂本さんは戦後闇市で古本屋を開かれたそうですが、そのころはまだたこ焼はなかったんですね。
坂本 だって第一にメリケン粉がなかった。それに卵も高級品でした。たこ焼が出てくるのは、やっぱり食糧事情がおちついてくる昭和二七、八年ごろからでしょう。闇市ではわけのわからないようなたべものがいっばいでした。
いまはタコのぶつ切りのような大きな身がはいってるのは当然ですが、当時はたこ焼といえどもタコの身を期待するものではなかったんですよ。きざんだようなタコがいれてあって、舌の先でさがすくらいのものでした。ほんとうにさがさんと出てこなかったんです。わたしらから見ると、いまのたこ焼はタコが大きすぎて、なんだかたこ焼らしくないですねえ(笑)。
――タコがはいってたら、当たり! という感じなんでしょうか。
坂本 お好み焼もたこ焼もちょぼちょぼ焼も子供のおやつにすぎませんでしたからね。大人など口にするもんではなかったでしょ。里は船場ですが、船場近辺ではまったく見かけませんでした。もっと下町というか、周辺の地域のたべものだったんです。「すまんだの食いもん」といって、隅っこの方のほとんどかえりみられないものだったんですね。
――一銭洋食には戦前からソースがぬられていましたが、たこ焼は三〇年代にはいるまでしょうゆ味だったそうですが。
坂本 味としてはしょうゆの方が上等でした。ただほかの店と差をつけるために、ある店でソースをつけて出したら、人気が出てほかの店もまねて広がっていったんでしょう。いろんな人の思いつきから、つぎつぎと変化していったんじゃないですか。そういう意味で、たこ焼は発展してきたといえますね。
むしろきつねうどんなどは、とてもおいしいものだけに、形を変えずに味もそのままのこしていますが、たこ焼はタコを大きくしたりして、文化的に発達しているわけですね。食生活に合わせて、中身も外も変わっていったということでしょうか。
(一九九一年五月談)
大阪のたこ焼屋さんには、この時期、つまり戦後の安定期に登場し、そのまま焼きつづけているという店が何軒かのこっている。たとえば天満宮裏にある“勘太”や中崎町にある“うまい屋”などがそれにあたるだろう。おそらく商店街や市場のなかに小さな店を構えているがんこなたこ焼屋さんだ。
そんながんこ一徹な姿勢は近寄りがたくもあるが、焼かれたたこ焼をほおばるとき、たしかにほかの店にはない味わいがある。まさにたこやき職人とでもいえそうな心意気が、わたしたちをほっとさせてくれるのだ。
世の中の安定とともに、夜店の復活ということもあっただろうし、たこやき屋台がふえたのは、甘いものへの思いが随分緩和されたということも一因としてあるだろだう。甘党の店からの転向としてたこやき屋をはじめているケースがいくつかある。また、まだまだ経済的に不安定な時代を反映して、ほかの仕事に失敗したために、たこやきの屋台でも引こうか、というような場合も多かった時代である。
(後略)
第四章 たこやきをめぐる技術
模造珊瑚からの技術転移
「明石玉の発明が玉子焼き誕生のルーツである」
これが明石の玉子焼に関する通説になっている。黒田義隆編『明石市史・上巻』によると、天保年間に江戸屋岩吉という鼈甲細工師が、金毘羅詣での帰りに明石に立ち寄り、招かれた家のおみやげとして鶏卵をもらう。それを袂に入れておくのだが、いつのまにか卵は割れて、流れ出た白身がカチカチに固まっていた。このことにヒントを得た岩吉は、玉子の白身を接着剤として利用し、明石玉を発明した。
製法はツゲの木を台とし、重さを持たせるために鉛玉を入れ、その上に卵の白身をかためて着色したものを張り、そのうえにさらに牛の爪を張る。明石玉は珊瑚玉の模造品、いわば代用品として明石の産業を支え、明治三五年には意匠登録、専売特許二七九三号を受けたということである。
ここからは玉子焼を愛する明石の人たちの推測になる。明石玉に必要なのは卵の白身であり、当然のことながら黄身はのこってしまう。この黄身の廃物利用が玉子焼のルーツなのだと。
この説がどこまで本当なのか、いつごろの文献にのっているのか、明らかにはなっていない。だが、ひとまずこの説を信じるとして、明石玉とはいったいどんなものだったのだろう。
昭和一一年に平凡社から出された『大辞典』に、明石玉の項として唯一の説明が見られる。
アカシダマ 赤石玉 一、玉の美稱。垂仁紀「三年春三月、新羅王子天日槍來歸焉……將來物……赤石玉一箇」。二、珊瑚珠模造の煉玉。播磨國明石より始めて製出せしよりの名。紅色が普通なれど白・紫・藍色等のものもある。
昭和初期にはまだ一般的に、装飾品として明石や近畿一円だけでなく、日本全国に明石玉が普及していたことがうかがえる。おそらく戦時中まで、装飾品の代用品として、女性の引き出しの奥に二、三個はころがっていても不思議のない代物だったのだろう。地名にものこっているが、まが玉造りや玉を磨くということは古来から重要な意味をもっていた。
文明開化はみがけばみがけ、心の本ぞ チンチリチンチリチンリン
何んぼ玉でも磨ける時は
石の瓦に劣りしものよ
玉の数々まうそうなら年の始は新玉の、春はお禮の印と差出す年玉、國に取りては備中玉島、武蔵に玉川、大阪出てから早や玉造り、母はふもとの玉家が茶屋に、相の山にはお杉にお玉、うまい親玉新玉おでん、とかく浮世は變る支那玉、浦島太郎は玉手箱、べっぴん娘に買ふてやりたい明石玉(中谷吉次郎『明石の観光』昭和九年)。
玉づくしの唄にも明石玉は登場する。しかし、それほどさかんだった明石玉がなぜなくなってしまったのか。そして明石玉が玉子焼誕生のきっかけだったというのは、真実なのだろうか。
明治二一年一二月二六日付けの明石の官報によれば、江戸屋岩吉の本名は小島岩三郎、一八六〇(万延二年)年に亡くなっていることがわかる。明石玉の種類は膨大で、内国向けの多くは赤色、球形、楕円形、平球などがあり、直径二、三センチから二〇センチまで大きさも各種あった。中国への輸出もさかんで、これは婦人服の装飾用に円筒形、喫煙具につけるための半円形、帽子の装飾--特に辮髪の結び目につける「冠結珊瑚珠」や念珠の材料など用途は幅広く、色も紅、白、紫、藍など思いのままだった。
明治二〇年の記録では、製造工場は明石内に一一軒、職工は三七名、生産量は五三万六七八〇個、売上げ四五二二円だった。
明治四四年に出された『明石志』を見ると当時の重要産物として、清酒、麦、麸、醤油、織物、綿糸、帆木綿 足袋、陶器、黒瓦、燐寸、明石玉、筵叺、魚類(明石鯛、明石蛸)があがっている。明石玉は擬珊瑚ということで侮蔑的に広く普及したが、その生産高は決してあなどることはできない。「従来明石玉の顧客といえばおさんどん、裏店のおかみさんや安女郎といった人たちが主であったが、それでさえ少なからぬ需要があり、確かに明石名物の一に数えられていた」という説明である。
『明石郷土史』(昭和四年)によると、明石玉を発明した江戸屋岩吉の弟子、荒田弥兵衛に明石玉の製造法を学んだ樽屋町の山口英七は、明治二四年まで明石玉をつくっていた。ところがセルロイドにおされて明石玉製造がうまくいかなくなってからも、米団子のうえにセルロイドをはった、ダンゴ玉、セルロイド玉などに切り換えたが、明治四二年にはその製造も完全にやめて、セルロイド再加工品の商売をしている。
明治四五年には「大演習ニ付姫路行在所へ天覧品トシテ出陳セシモノ」として陶器、綿糸、帆布、網布とともに、明石玉三〇個が献上された記録もある。また、酒井醇という人が、大正一五年に硝子玉や装身具の製造をはじめ、アメリカ、中国、南洋に輸出している。
そこで明治三五年に出されたという、特許申請を探してみることにした。だが『明石市史』にある専売特許二七九三号にあたるものは、明治二九年二月に出されていた。そして驚いたことに特許の内容は「棒状セルロイドニ渦木理ヲ顯出スル方法」ということだった。
此發明ハ濃淡ノ差アル版状赤色セルロイドヲ下底ニ孔ヲ有スル匣内へ濃淡交互ニ相重積シテ周圍ヨリ加熱シ適度ニ溶解スルヲ斗リ匣ノ上方ヨリ一面ヲ壓下シテセルロイドヲ漸次下孔ヨリ壓出セシムヘクナシタル法ニ係リ其目的トスル所ハ棒状セルロイドノ裁面へ渦木理ヲ容易ニ且ツ鮮明ニ顯出セシムルニ在リ
(中略)兵庫縣明石郡明石町字樽屋町六十九番地屋敷
明石玉製造業
發明者 山口英七
セルロイドに傍線がついている。まだセルロイドそのものが一般的でなかったからだろうか。装飾品を中心に当時の特許を見ていくと、牛や馬の爪の細工加工などはあるが、セルロイドをつかったものは明治末までほとんど見当たらない。つまり、明石玉は宝飾品の流行の最先端だったと考えていいだろう。
さらにこれは、米のダンゴに牛の爪を張るという『明石市史』の明石玉製法とは異なる。一〇〇パーセントセルロイドの玉だ。くわしく読んでいくと、舶来のセルロイドには、縦木理があるが、輪環木理を鮮明に出せるので、この特許がセルロイド工業の各種の細工ものに有効だという。さらに明治三六年六月には同じく山口英七氏から特許改訂版が出されている。
明治末から大正にかけて、日本の大衆文化が花開く。大阪では漫才が人気を呼ぶようになるが、はじめは落語や義太夫のまねだということで「まねし漫才」とばかにされていた。しかしその漫才によって演芸が一挙に大衆化する。明石玉も漫才と同様、高級な装飾品のまねをすることで、一挙に広まっていった。
だが米ダンゴの明石玉も全盛期を迎えると同時に、その人気は下降していく。その大きな理由として考えられるのは、セルロイドの登場である。明石玉発明の江戸末期から昭和にかけて、世界ではセルロースを分解、再構成することによって、まったく別の新たな物質(人造繊維)をつくりだすことに、しのぎがけずられていた。
つまり小島岩三郎が試行錯誤を繰り返しているころ、海外ではニトロセルロース(硝化綿)に樟脳を混ぜて、どんな成形でも可能なセルロイドを開発していたということになる。明治初期には、日本の樟脳の輸出がかなり伸びていたが、当の日本はそれを何につかっているかも知らないというありさまだった。そして明治一七年にアメリカ、ドイツなどから原料セルロイドを輸入し、ついに新鼈甲として、珊瑚玉、くし、装身具などに加工されることになる。
稲垣博さん(武庫川女子大学教授)の「日本におけるセルロース研究の歴史的考察」(京都大学化学研究所紀要)によると、日本人ではじめてセルロイドを見たのは大阪商人だった。明治一〇年のことである。ドイツから輸入された一枚の赤いセルロイドの板が、のちの日本の近代化学工業発展への引き金になるとは、だれも予想しなかったことだ。明治三八年には、田中敬信が日本にセルロイドの製造機器を持ち帰り、小さな工場を建てている。いかなる形にも加工でき、自由な着色が可能、そのつるりとした質感もまた、絶大な魅力だった。
青い眼をした/お人形は/アメリカ生まれの/セルロイド……
野口雨情の詞は有名だが、一九二五(大正一四)年には、アメリカ人宣教師が日米関係の悪化を憂え、一万二〇〇〇体あまりも「青い目の人形」を日本の子供たちに寄贈している。大正期になってもなお、セルロイドの質感は魅力あるものだった。
明治一〇年、神戸の貿易商社でセルロイドが紹介されているころ、卵白をこねて、つげの木と鉛で……と隣りの明石の町工場では、明石玉がようやく生産べースにのせられ、明石玉が専売特許を得た数年後には、セルロイドの加工もはじまる。ただし当時のセルロイドはかなりの高級品で、一般的にはセルロイドを材料に再加工された明石玉の需要が大きかった。明石玉屋は時代の流れに敏感に反応して、セルロイドをコーティングしたり、セルロイドのくずをリサイクルしてセルロイド玉をつくる方法で、さまざまな種類の模造装飾品の商品開発を進めたのである。
明治二二年、パリ万博で注目されたシャルドンネシルクをはじめ、繊維業界では人造繊維に向けての大きな前進がみられる。シャルドンネシルクに触れた鈴木商店の金子直吉は、その魅力にとりつかれ、明治四一年には三菱、日商岩井とともに大日本セルロイド人造絹糸株式会社を設立している。明治末年には二〇トンから三〇トンのセルロイドが国内生産された。さらに第一次世界大戦の影響で、セルロイド工業は商業的にも技術面でも新たな展開をみせ、合成樹脂、つまり合成高分子としてのプラスチックが出現するまで、セルロイドは日本中に普及していった。
そこで明石玉の発明者、小島岩三郎の孫弟子の山口英七氏のお孫さんにあたる、山口良子さんに会っておはなしをうかがった。
――おじいさんの山口英七さんのお仕事についてうかがいたいんですが。
山口 玉屋は明治一七年に創業したそうです。山口英七商店は樽屋町筋に面した繁華街にありました。「玉屋」と呼ばれとったらしいです。
――明石玉というのはどうやってつくるんでしょうか。
山口 わたしもだいたいのことしかわからしませんのやけど、米の粉と卵白をうどんの粉を打つようによく練って、つげの木を台に鉛で重さを持たせ、練り合わせた粉でくるむようにして玉をつくり、珊瑚色に着色した牛の爪などを張りよったそうです。
――牛の爪とおっしゃいましたが、この表面のつるつるした質感はどうやって出したのでしょうか。
山口 玉をトクサで磨きましたら、つるつるになるんです。光沢が出てきて、本物とも見分けがつかなくなって。重さもちょうどこのぐらいですし、色合いもできるだけ本物に近づけるようにして、いろいろ工夫しよったんでっしゃろ。
――江戸末期から、明石玉は卵の白身をつかって接着剤にしていたそうですが、いまの玉子焼はそのときにあまった卵の黄身をつかった廃物利用だったという説があるんです。おじいさんの工場ではそのあまった黄身を、だれかに分けていたというようなことはなかったんでしょうか。
山口 さあ。そのあたりのことは……。
――では、いまの玉子焼に用いるような銅の道具を、明石玉の製造過程でつかっていたというようなお話はきかれませんでしたか。
山口 これも確かなこととちがいますけど、明石玉の美しい球形をつくるのに、真鍮製の板に直径一・五センチほどの窪みの並んだ道具をつかってました。それは見たことがあるような気がします。
――それはむかし駄菓子屋などでやっていたちょぼ焼の銅板のようなものでしょうか。
山口 いえ、どんなものだったかは覚えていません。
(一九八四年二月談)
良子さんが生まれた頃は、英七氏はすでに亡くなっておられるので、こちらが無理やり、推測を押しつけるのも申し訳ない話である。いまはなき「玉屋」という、一時は明石を代表する産業が、『市史』のわずか数行にしか語られていない。
しかし、ここでひっかかるのは真鍮製の窪みのある板だ。玉子焼の窪みのある鍋にコナを流し込む作業は、このあたりからの発想のように思えてならない。またこの鍋はちょぼ焼の鍋と大きさの上では、非常に似通ったものであることも気になるところである。黄身も鍋も明石玉の廃物利用だったのではないかという、わたしの推測が裏付けられれば。そんなひそかな期待はあったのだが。
山口さんからいただいた、いまはほとんどのこっていない明石玉。わたしの手元にあるのは、おそらくかんざしなどにつかわれたであろう直径一・五センチあまりの球体である。色、形、光沢ともによくできている。おそらくこれは発明当初の明石玉ではなく、セルロイドをぬった新明石玉の方ではないかと思う。
よく見ると、小さな点のような傷がある。つくるときにできた傷かと思ったら、これは天然の珊瑚の虫食いを忠実に模倣したものだった。珊瑚の虫食いを好む人があるというのは、ニセモノにはない自然の良さの反映だろうが、明石玉はそこも計算に入れてデザインされている。英七氏の芸の細やかさに恐れ入る。
大日本セルロイド人造絹糸株式会社には、明石で生産していたセルロイドの櫛の鋳型が残っている。珊瑚珠のイミテーションとしての明石玉が、セルロイドという新物産によって、やや形をかえ、新明石玉として普及し、日本のセルロイド工業の一端を担っていた時代があったことは確かなことと考えていいだろう。
やがて装飾品である明石玉の技術と廃物の形態は、玉子焼という屋台のたべものに姿を変えて、明石の町にその名残をとどめることになる――こんな仮説をたててみた。
それから八年、この本を仕上げるためのしめくくりの取材として、再び山口良子さんをたずねたのである。
――特許二七九三号を調べてみましたら、明石玉というよりも、渦木理のセルロイド玉の特許でした。まるい玉の絵なんかを想像していたので、図をみたときはいったい何なのか驚きました。
山口 いろいろ捜し物をしてましたら、明石玉に関する資料がいろいろ出てきましてね。そんなかに特許申請のものや、堺からのセルロイド、染料、ロクロ、樟脳油、エーテル、ショウワルいうてました薄いピンク色のエチルアルコールなどの送り状が出てきました。
特許の玉は「擬珊瑚 明治玉」といって売ってたようです。箱には「第四回内國勧業博覧会褒状受領、弊店發賣ノ明治玉ハ多年ノ經驗ニヨリ令般其筋ノ特許ヲ得テ變色破損ノ憂ナキ亊ヲ保證ス」とあります。
わたしは大正一五年生まれ、英七は大正七年に亡くなっておりますから会ってはいないんですよ。
あとで聞いたところによるとお酒の好きな人やったそうです。ここにもたくさんの本物の鼈甲や珊瑚玉、琥珀、いろんな宝飾品が残ってますけど、英七は「ニセモンつけとったらあかん」いうてよう買ってきたそうです。自分でニセモンつくって売っといて、ようそんなこと言えるわと思いますけど(笑)。英七の妻は明石玉の赤い色を出すのがうまかったと聞いとります。
――たしかにこうして並べてみても、どれがホンモノでどれが明石玉なのか、素人には見分けがつきませんね。
山口 玉どうし当ててみたらわかりますよ。音がちがいまっしゃろ。ホンモノはカチカチええ音がします。明石玉はほら、にぶい音がしますやろ。
英七には三人の娘がいまして、わたしの実の母は次女なんです。母が女学校に通うのに船場の取引先に寄宿してまして、そこの番頭だった酒井醇と結婚したんです。父親は貝パールというて、模造真珠をつくってました。明石では樽屋町そばの日富美町に工場がありました。長女と二代目英七の間に子供がなかったんで、わたしが養女にいったんです。
――では大正末期からガラスの装飾品をつくっていたという、あの酒井醇が実のお父さんだったわけですね。
山口 そうです。この写真にありまっけど、店は間口三間、奥行き一七間で、はいったところは玉を磨いたりの細かな仕上げをするのにつこてました。いちばん奥に蔵があって、その手前が工場になっとりました。前栽があって、まんなかは住まいです。
作業するのに畳もいたみやすいんで、縁のところは革がつこてありました。もろはだ脱ぎの職人さんが、大きな鉢で播州の米の粉を、うどんを打つようにこねてましたわ。たぶんそれを丸く固めて、セル(セルロイド)をぬってたんやと思います。大きな瓶にセルがはいっとりました。
――稲垣足穂という作家が明石玉屋の描写を次のように書いてるんです。
「戎町の福田、その浜側に『いな湯』を経営しているの筏、駅前筋の松陰屋、二番丁の中島などによって、製造されていたが、明治二十年頃になると算盤が立たなくなり、だんご玉といって米団子のうえにセルロイドを貼ける方法に変更された。(中略)工作場の近くに来ると樟脳臭が鼻を打ったものだが、この新明石玉も数年のうちにどこにも見られなくなってしまった」
こういう感じだったんでしょうか。
山口 そうどすなあ。樟脳もドイツの染料もどれも特有の匂いはありましたなあ。駅前筋の松陰屋というのはいまの阪神内燃機の木下吉左衛門さんの店です。その方の関係者が玉子焼をはじめられたという噂も聞いたことがあります。まあ玉子の黄身をおやつに焼いてたかどうかはわかりまへんなあ。わたしが生まれたときは、もうセルロイドばっかりの時代ですし。
セルは火事を出しやすいので、のちの工場は煉瓦づくりでした。わたしが生まれたころはおもに傘の露先をつくってたようで。昭和一七年に店を閉めてます。露先はドイツの人が来て、出来の良さにびっくりしたらしいです。色もきれいで、イギリスにもたくさん輸出してました。
つくりかたは挽き肉をつくるような感じで、セルをチョッパーでくって、それを型にはめていってたように思います。金井さんという器用な人がいまして真鍮の型をつくってもらってたと聞いてます。その型の両方にセルを流して、ぽんすんという留め金で固定してました。できた形をロクロでひいて、がしゃにかけて表面をなめらかにし、アセトンでつや出ししてました。火鉢のような炭のうえに、アセトンの容器を置いて、その蒸気に玉を当ててたような。あんましはっきり思い出せませんなあ。
これですよ。金井さんにつくってもらってた明石玉の型というのは。片面しか見当たりまへんけど。
(一九九二年一二月談)
わたしの目のまえに置かれた鈍い銀色の型は、側面に五歩丸と彫られた、まさにホンモノの型だった。これは八年まえおたずねしたときに、山口さんの記憶にうっすらとのこっていた、あの真鍮製の型である。もっと窪みの大きなものなども、両面そろってあったそうだがいまのところ蔵にはこの一枚があるだけだという。もしも掛軸につける風鎮用の型が残っていたなら、窪みの直径が三~五センチほどのたこやきの鍋とそっくりなものに、再会できたはずである。
これはたしかに玉子焼の鍋にイメージを転化するのに充分な形態である。この型に出会うことで、これまでずっとわたしの心の中でもやもやとしていた、明石玉から玉子焼への移行、技術の転用を確信することができるような気がした。
わたしたちは新しい文化、文明を取り入れるときに、そのままをただ従順に受け入れることはない。原型を自分たちの暮らしや好みに合わせて解釈しなおしている。
人類の生活やモノとのかかわりは、技術移転なくしては語れない。火を起こすことを知ったときから、技術の移転が文明をつくりだし、文化を育んできた。移転は模倣といえるかもしれない。いいもの、いいことはすぐに取り入れて、まずまねる。忠実にコピーする。次に自分たちの好みに合うように、さまざまな方法で応用が試みられる。
だがめまぐるしい技術革新のなかで、ある技術が廃物にならざるをえないこともあるだろう。その技術を別のことに転用することはできないものか。
『転用のデザイン』(岡本信也ほか著、野外活動研究会)には、馬の蹄鉄が物干し掛けに転用されていたり、古タイヤが植木鉢代わりにつかわれていたり、一生活者のモノレベルでの再利用の知恵が、フィールドワークによって丁寧に集められている。「ものを考えた人、作った人が最初に意図した使い方と実際の使い方が異なっているとき、これを『モノの転用』と呼ぶ」とある。
そこでこの考え方を技術に置き換えてみたい。この場合、ハードウェアである機械や道具、材料といったものと、製法やノウハウなどのソフトウウェア、それらを実際に用いて生産していくつくり手の存在など、システムの総体をまとめて技術と考えてみる。つまり技術の転用という言い方もできるだろう。
ここで「技術移転」ということばに注目したい。世界規模でおこなわれている技術移転は、移転元にも移転先にも同質の技術が生きている。だが廃物としての技術は、解釈しなおされ、可能なかぎり、無駄のないようにリサイクルされて、別の形に転用されることがある。つまり移転先にあった技術は消滅し、移転先にだけ新たな技術がポンと浮上するのだ。
大胆な意見かもしれないが、転用が個人レベルのモノのリサイクルならば、技術という生産のための道具やシステムの転用、またはリサイクルまるごとを、技術が転移したと考えて、「技術転移」と呼ぶことはできないだろうか。
残された廃物が技術転移によって、転移先ではまったく異なった文脈で利用されたり、その結果、それまでの図式では考えられなかった別の新たな物産が誕生したりする可能性もあるだろう。
モノレベルの転用は、個人の無意識のなかからの産物にすぎない。だが道具の転用、材料の転用、そして人手の転用の総体としての技術転移には、意識的な商品化への意欲がある。生まれたモノは名称を与えられることによって、社会性をもつ存在になるのである。
ここで明石の玉子焼に技術転移という考え方をあてはめてみたい。
玉子の黄身の廃物利用だけでなく、道具もすべて明石玉の廃物利用が玉子焼の出発点だった、というわたしの推測を仮定したならば、模造サンゴという装飾品の製造技術がたべものへと転用されていく、ひとつの技術転移をみることができるのではないだろうか。
天然のホンモノの珊瑚玉を買えない女性たちを飾るものとして、また日常生活の装飾品として、さらに海をわたって中国や東南アジアでもこの美しい玉が愛好された。
だが、明石玉という歴史的な発明も、すぐあとに普及するセルロイドの登場によって、ひとときの運命に終わる。まだ化学に目覚めていなかった時代、知識ではなく経験がものをいう日本の職人さんの手の技が生んだ、物産としての明石玉。だが明石玉の現物もことばも今は存在しない。そして明石玉の意志を受け継ぐかのように、いまの玉子焼は存在している。
さらに憶測を進めよう。セルロイドの登場によって打撃を受けた、明石玉製造の町工場では、職を追われた人も少なからずいたことだろう。一部の職人さんは新明石玉に鞍替えしたり、ガラス玉や装飾品全般を加工する業務に切り換えていったが、町工場を離れざるをえなかった人は、「屋台でもはじめるしかない」状況に置かれていたのではないだろうか。
ここでわたしは、まだ年若い明石玉職人の青年を設定してみる。ときは明治二五年、明石玉製造も従来のやり方では、時代に合わなくなってきたころである。彼は、人員削減のために明石玉製造工場からひまを出される。彼は手先が器用だったが、まだまだ半人前だったために、解雇されたのだ。経営者の方針や時代の動きに左右されない、そんな職につきたいと一念発起、新しい商売をしようと考える。元手がないので、できるだけコストがかからないように、手元にあった明石玉製造の道具の再利用を考える。地元の、安くて手にはいりやすい材料を組み合わせることで、それなりにめずらしい屋台商品はできないものか。
そのころはもうべビーカステラのような玉子、小麦粉、砂糖を材料にした焼菓子である福玉焼はあった。それと似てはいるものの、砂糖もつかわないでできる、おやつはできないものか。駄菓子屋にあった小麦粉を水で溶いて焼くちょぼ焼の存在もヒントになっただろう。
玉子は高価だからたくさん使えないが、わずかでも玉子を使うんだから、玉子に見立てて「玉子焼」と名づけようではないか。小麦粉は、といっても蒲鉾につかうような小麦でんぶん、沈粉なら麩屋横町でタダ同然で分けてくれる。明石玉づくりにつかっていたアカの鍋を七輪に乗せ、油をひき、溶き玉子がわずかにはいったコナを流す。片面が焼ければひっくりかえす。
試食してみる。なにか物足りない。もうひと工夫欲しい。彼は今まで食べたことのあるすべての食品を思い浮かべてみる。ここまでそろったんだから、負けてたまるか。繁盛する屋台をやり遂げてみせたい。自分を解雇した明石玉屋に対する意地もある。
そのときふと、以前の明石玉づくりを思い出す。ツゲの木を台に、鉛で重さをもたせそのまわりに練った米の粉をつけていった……。そうだ、オレは食べられる明石玉を焼こう。飾りものの明石玉ではなく、口にほうりこんで、ほんわかうまい明石玉をつくってやるぞ。
こうして彼は玉子焼のなかに、なにかを入れることを思いたつ。明石玉ならツゲの木と鉛の重りに当たるもの。なにかを芯にすることで、玉子を焼いただけのホンモノのたまご焼とは異なる新しい味が生まれるのだ。そしていろいろ試したあげく、もっとも安くて、容易に手にはいり、歯ごたえもよく、うまかったのが、タコのひとかけらだった。
明治四十二年頃、私は学校の行き帰りに、明石玉の仕事場を覗いたことを憶えている。竹の簀の上に、鮮紅の糊のようなものがひとちぎりずつ並べられていて、それらがやや乾いて丸められると、女の人のかんざしに見る珊瑚珠に似たものに仕上がるのだと察しられた(稲垣足穂「明石」)。
この描写には、竹の簀子のうえに明石玉が並べられていくシーンがあるが、これは向井さんの屋台をはじめ、玉子焼をバラ売りにして、手でつまんで食べていたころの屋台の光景に酷似している。
俗説には玉子焼の担い手たちの姿は現れない。だがわたしには、明石玉職人から転職した玉子焼職人の存在が見えるような気がする。一時は明石の代表的な産業といわれていた明石玉製造が、セルロイドの圧力を受けた時代、わたしが思い描くような意気込みの、玉づくり名人がひとりくらいいたとしても、不思議ではない。明石、樽屋町近辺にはまるで計算されたように、玉子焼誕生のための役者が勢ぞろいしていたのである。
道具、材料、形態、製法、これらにたずさわる人的な面もふくめて、明石玉の技術が玉子焼屋台の随所に見られるのも当然のことだった。
「たこやき」が教えてくれたこと
――文庫版あとがきに代えて――
記念すべきデビュー作、『たこやき』が発売されて五年が経過した。この間、たこやきについて受けた取材、書いた原稿、そして語った講演、テレビやラジオ番組は二〇〇件を下らない。もともと出たがりなので、素人ながらテレビづいてしまい、NHKのトーク番組のキャスターまで経験することができた。おかげで、母親であり一大学院生だった私は、タコヤキストという異名をもらい、たこやきだけでなく、食や大阪文化など、興味あるいろんな対象について、思いを発信する機会を与えられた。
たこやき環境とでもいうべき、たこやきを取り巻く状況も、この五年間でずいぶん変化したように思う。
‘93年 | カラオケ業界の隆盛。カラオケボックス人気メニューとして、冷凍たこやきが重宝される。 | |
6月 | 『たこやき』(リブロポート)刊行。 | |
9月 | 渋谷のたこやき戦争勃発。東急ハンズ前の並びに、東京では数少ないたこやき専門店が二軒登場。土日ともなると若者の行列ができ、話題を呼ぶ。オーナーは不動産業者で、バブル崩壊後、遊ばせている土地を利用するための出店だった。八個五百円という高めの値段設定も、おつりが細かくならないようにという単純な理由から。 | |
‘94年 | フィリピンマニラ郊外でのたこやき生産が本格的に。大手食品メーカーによる冷凍たこやきの輸入、商品化も始まる。 | |
‘95年 | 自動回転たこやき機が開発される。 | |
6月 | 熊谷真菜&たこやきシスターズによるCDアルバム「たこやき」(NECアベニュー)リリース。 | |
7月 | スペースシャトルコロンビアに乗って、フリーズドライたこやきが宇宙へ。 | |
11月 | APEC大阪会議、国際交流サロンでたこやき三五〇〇食がふるまわれる。 | |
‘96年 | 各社たこやき専門店のフランチャイズチェーン展開が本格的になる。 | |
1月 | 拙著『たこやきの正しい食べ方』(ごま書房)刊行。 | |
3月 | インターネットホームページで「月刊たこやきめぐり」を開始。 | |
4月 | 『タコロジー』(オタフクソース)刊行。 | |
7月 | なにわ名物開発研究会が設立され、たこやきキャラクターのおみやげ開発が本格的に開始。 | |
8月 | 心斎橋のハトキン夢ぎゃらりぃにて「たこやき博覧会」開催。 | |
9月 | 「たこやきキャンディ」発売。「たこやきまんじゅう」や「たこやきケーキ」など、たこやきをキャラクターにしたみやげ商材が続々登場。このころからタコの価格が高騰。現在日本で消費されるタコの70%が北アフリカ(モロッコ・モーリタニア・西サハラ)で捕とれたもの。 | |
‘97年 | 5月 | 銀座の一等地にたこやき屋さん登場。 |
9月 | 京都府丹後町で伝統的なタコばかし漁法を伝える「タコばかしサミット」開催。オーバンがたこやき屋台を出店し、地元の人々に大好評。 | |
9月 | なみはや国体で選手にたこやきのサービス。 | |
‘98年 | 4月 | 明石の鷲尾圭司さん(林崎漁業協同組合のお魚博士)に教えてもらった情報では、北アフリカでの乱獲によって、タコの漁獲高は減少の一途。今後日本のタコ輸入は、メキシコ産に頼らざるを得ないとのこと。味、調理については、目下各方面で検討中。 |
というわけで、あいかわらず、たこやきは人気者。グルメマップの分類では、粉物とか焼き焼きグルメの代表選手のような扱いを受けている。量販店のフードコートにもたこやきは欠かせない存在となり、タコを茹でる釜を置いて、茹でたてタコを売りにするたこやき屋さんもある。ドラマやマンガ、CFなどで、たこやきやたこやき屋台がモチーフとして使われ、メディアの上でも目にする機会が増えた。下町の駄菓子屋発想のチマチマしたたこやき商売から、大きな市場をにらんだ企業のヒットアイテムまで、日本全国の暮らしのなかに、たこやきが飛び込んできた五年間だった。
本を出して驚いたのは、『たこやき』という一冊がひとり歩きしていろんな人に出会ってくれることだ。神奈川県保土ヶ谷図書館のテープライブラリーにもはいっている。長い拙文を一言一句丁寧に朗読してくださる人にも感謝だが、それをじっくり聞いてくださる人がいて、そんな方々からの感想やたこやきへの思いが、私のもとに届けられる。
内田康夫氏のミステリーで、前田淳子というジャーナリストのモデルにもなった。彼女は大学の卒業論文でたこやきをテーマにしたという設定。
その卒論は由香里も見せてもらったが、はじめからしまいまで、笑い通しだった。まじめくさった筆致で、ばかばかしいと思えるようなことを、微に入り細をうがって書き立てているのが、いかにもおもしろい。/テーマを思いつくこともすごいけれど、玉子焼から文化論を展開するという発想の特異さはタダモノではない。(『「須磨明石」殺人事件』より)
タダモノではない?褒めてくださっているのかもしれないが、皮肉にも前田淳子さんは、殺される役なのだ。でも、もの書きの大先輩たちが、『たこやき』を読んで、ご自分の文章中に登場させてくれることを、素直に喜んでいる。
たこやき効果のおかげで、私は博士論文を書き上げて、博士号をとる機会を逸してしまった。その一点さえ除けば、楽しいことばかり、充実した三十代前半だった。要するに小難しいアカデミックな世界より、体感できるモノづくりの現場が肌に合っていたということだろう。そこでの体験、ユニークな人々との触れ合いが、どんなに私をドキドキワクワクさせてくれたことか。
無数とまではいかなくても、かなり多くの人々との出会いのなかで、私が得たものをひとことで表すなら、「ポヨヨン」になる。ボヨヨンと勘違いされることもあるので、念を押すが、「ポヨヨン」である。このキーワードが私のたこやき体験の集大成ともいえるし、たこやきを通して一番伝えたいメッセージだ。思い直せば、私がたこやきにこだわってきたのは、この一語を捜し出すための旅だった、といえるかもしれない。
アツアツのたこやきを口に入れたときの感触を思い出してほしい。カリッとこげめのついた皮をやぶって、トローリと半熟状の小麦、コリッとしたタコの歯ごたえ(こういうおいしいたこやきは、全国にはまだ少ないかもしれませんが)――この食感の妙味がたこやきの魅力、おいしさとして、人気の引き金になったことはだれもが実感しているだろう。そしてたこやきを味わったその瞬間、それがポヨヨンである。ポヨヨンな表情、ポヨヨンな気分、そしてそのときあたり一帯がポヨヨン状態に変化する。
ポヨヨンとは、豊かな生の営みの一瞬、一瞬に宿る、完結した機嫌のよさであり、凝縮された喜びの熟した果実のような感覚、気分のようなものだ。ただしこの感覚は、物理的な密度は限りなく低く、ふんわりふっくら、焼きたてのたこやきのように、望めば誰もが気軽に手に入れることができる。たこやきのポヨヨン、たこやきにまつわる人々のポヨヨン。こうして生のコンセプトとして、私は常にポヨヨンでありたいと願うようになった。
表紙のことに触れておきたい。一九九三年に『たこやき』を出したとき、営業の人にくっついて本屋さんまわりをした。いい場所に置いてください。できれば棚にいれるのではなく、表紙がみえるように平積みにしてくださいと。おかげで『たこやき』はよく売れたが、そのとき表紙のことが話題になった。この表紙もいいけれど、たこやきなんだから、もっとおいしそうなインパクトのある表紙だったらよかったねえ、と。
今回はその反省もこめて、おいしそうなたこやきをテーマにした。商品である以上、表紙はお客さんにアピールする、一番大切な要素である。講談社の堀山和子さんに、ヘタな絵を書いて、こんな感じにしてほしいとわがままをいい、撮影まで立ち会わせてもらうことになった。
場所は青山、同潤会アパート裏のおしゃれな坂川事務所。カメラマンは森健児さん、助手は森さくらさん。堀山さんに合羽橋で特注してもらったたこやきに、坂川栄治さんが表情をつけていく。黒の色画用紙を、体格のいい坂川さんのふくよかな指先が細かく切り抜いていく。
堀山 この子って、見てるだけでかわいいわ。私ほしくなっちゃった。
乗せる舟のいいのが見つからなくて、堀山さんは薄手の経木で手づくりの舟を用意してくださっていた。たまたま家に残っていた出来合いの舟をもっていくと、「これよこれだわ、昔はお刺身なんかも乗ってたわよね」と懐かしそう。
そのとき突然、
森 ぼく蛸右衛門でーちゅ。そんなにひっぱったら、足がきれちゃうよー。
六本木に事務所を構えるフォトグラファー森のひとことで、そこはもう浪花の道頓堀に負けないくらいのギャグ空間に早がわり。黒のコスチュームに身を固め、第一印象は口数も少ない気難しそうな紳士に見えたが、実は声優も顔負け、かなりのパフォーマー。とにかく黙っていられない性格らしい。
さくら 信楽焼のタヌキとか、猫、笑うセールスマンなど、現在二六種類の芸が披露できます。
マネージャーのように合の手もはいる。それまでは遠慮がちだった私も、好き放題注文をつけはじめている。
大爆笑の渦のなか、蛸右衛門の眉毛や口もとが微妙に調整される。シンプルゆえに、ちょっとした向きで雰囲気がかわる。目の大きさも手の出し方もなかなか決まらない。
森 こんな口はどうですか。
口をとんがらせて、タコ口にしてみせる。やかましい外野を牽制するように、
坂川 ぼくはだいたいお好み焼とかたこやきなんて、あんまり好きなことないねん。ソースの味がねえ。何にでも合うというのは魅力あらへんのや。北海道生まれだし、関西の方はあんまり縁がないのやわ。同じ小麦でもべーグルとかパニーニなら好きなんだけど。
熊谷 そんなこと言うてるから、蛸右衛門がかわいくならへんのよ。もっと愛情をもってつくってあげてよ(笑)。
堀山 坂川さんに食べてもらうように、たこやき買ってきたらよかったですよね。
坂川 でもこのへんにたこやきなんて、売ってないでしょ。
熊谷 そんなことないですよ。原宿でもクレープ屋さんがたこやきに転向してるくらいですから。ショック、坂川さんて、たこやきのこと何にもわかってへんのとちゃう?
坂川 その犬チャウチャウとちゃうちゃう?
たこやきには付きもの、つまようじを固定するのも難航した。さくらさんが道具箱から秘密兵器を次々取り出す。森も細工をはじめる。そして坂川氏がつまようじを差し込むたびに、「痛い… 痛い…」。蛸右衛門になりきったフォトグラファー森の痛そうな裏声がささやく。
標準語と大阪弁、それに大阪弁もどきも入り交じる劇というか、充実した冗談のとばしあいは、それぞれが初対面とは思えないほど盛り上がり、それが最高潮に達するころ、舟に乗った蛸右衛門は、とんでもなく愛らしく完成されたのだった。
撮影本番になると、さすがの森もプロの表情に変わっていた。が、それでもギャグをとばす余裕はたっぷり。
こうして三時間があっという間に過ぎた。撮影というのは時間がかかるものだけれど、この一カットが刻まれるひとときは、私にとって、たこやき体験をしめくくるにふさわしい、まさにポヨヨンな人たちとのポヨヨンな時空となっていたのである。
次はお好み焼ですか。いか焼も調べてくださいよ。多くのリクエストはあるものの、もうひとつ気が進まない。
一生に一冊、最初で最後の本になるかもしれないと思って書いた『たこやき』だったけど、もし今度書きおろすなら、ポヨヨンな人たちとの貴重な出会いをポヨヨンとまとめてみたいと思うのだ。
追記
本文冒頭で『広辞苑』のたこやきの項の記述について、やや誤りがあることを指摘した。五年前の発行時、帯に「広辞苑に改訂を迫る」という、たいそうなコピーをつけて本屋に並べてしまったので、版元の岩波書店の方へ、ご報告がてら拙著を送らせてもらい、「増刷の折りに書き換えを検討いたします」という丁寧なお手紙も届いていた。そのことをふと思い出し、本屋さんで『広辞苑』をのぞいてみたら、なんと一部修正がはいっているではないか。
たこやき〔蛸焼〕溶いた小麦粉に卵を混ぜ、刻んだ蛸・天かす・ねぎなどを加え、鉄製の型に流しこんで、球形に焼き上げた食品。ソース・青のり・削りぶしなどを掛けて食する。大阪から全国に広まる。
銅をつかう所もふえているので、鉄製の型はひっかかるが、ソースのこと、天かすのことが新たに加えられているのは、評価できる。編纂の人も、たこやきを召し上がったかどうか。「意外とうまいもんだねえ」などと、微笑んでくださったにちがいない。『広辞苑』担当の方々のご努力に感謝したい。
付録のような文章
鶴見俊輔
この本の著者について書く。
十七年前から、現代風俗研究会がある。そこに、この本の著者はあらわれた。
十八歳の浪人だった。高校を卒業し、浪人となって、この会のように受験勉強とかかわりのない雑談クラブに顔を出すというゆとりに、あざやかな印象を受けた。
その後、この人は定期的にこの会に出てきて、歌とおどりで忘年会などで活躍し、次の年には、大学にも入った。
この会の会長だった桑原武夫の著作集の読書会があった時、全体を見わたした上で、女性として実名をあげてふれておられるのは西洋の女性ばかりで、日本人の女性の実名はほとんどあがっていないと感想をのべて、その批評はあきらかに桑原武夫の著作の不足をついていた。桑原さんが、一本とられたことを認める、はじらいを見せていたのをおばえている。
この会の仲間であった画家と結婚し、今は二人の子の母である。この間、飲み屋でアルバイトをした時の人間観察、戦後の代用食についての実地復元にもとづく研究、たこやきについての研究を、『現代風俗年報』や『玄人通信』に発表した。彼女をとりまく大学生が『熊谷真菜集』をゼロックス版で刊行する計画をたてていたことがあって、その全集の広告が『玄人通信』に出ていた。
彼女には人を恐れぬところがあり、しかも礼儀ただしく、親切である。
手がたい仕事の中で、まず、たこやきの研究が、ここに最初の著書となった。
たこやきには、私は日本の外で出会ったことがない。これを食べるということは、いくらか空腹をみたしはするが、それだけでなく、生活の必要の本道からそれて、道草を食うたのしみである。たこやきは、食べるおもちゃと言ってよい。
人は何のために自分が生きているのかを問わないわけには行かないが、一度その問いに答えを得ても、またしばらくして、同じ問いを自分の前におく。とにかく生きている時間をたのしみたい。今、そういうふうに、この難問にひとつの答えを出すとして、その時間をたのしむ、たのしみ方に、たこやきを食べるということが含まれていると考えてみたい。そんなふうに、著者も考えたようで、そういう心のむきが、いつ、どういう形で、どこであらわれたかを、資料にもとづいて、書いた。その文章を読んでゆくと、今の日本人の自画像があらわれる。
著者はたこやきについてだけ研究したのではない。たこやきは、お好み焼とともにこどものままごとの発展した形のように思えるが、著者はこどもの想像力をとらえるほどのあらゆる手軽な日本料理の種目を見わたし、その中にたこやきの占める特別な場所を位置づける。
こどもをひきよせる軽食の場は縁日である。そこで、たこやきをひきうけるテキヤの会見からひくと。
――テキヤさんにとってたこ焼や玉子焼というのは、商売としてどうなんですか。
古志 あまりやりたくないですね。かなり重労働なんですよ。まず人手が二人は必要です。それにつくりおきがほとんどききませんから、焼きつづけなくてはならない。(略)――それでもたこやきの屋台を出されるのはどうしてなんですか。
古志 なんといいましようか、バランスですね。たこやき屋がないとかっこがつかないということです。うちの会は二五名前後の会員の組織ですが、そのなかに一、二軒はたこやきの屋台が欲しいですね。
縁日の屋台のヴァラエティーとして、かかせないもの。タコは、生活力の象徴であり、たこやきは休日の逸脱のたのしみのひとつである。
家庭団欒のお好み焼にくらべて、たこやきは単純かつ個人的だ。食事としては成り立ちにくい。そのかわり立ったままでも、仕事の合間でも、場所を問わずつまむことができる。菓子にもごはんにもならない間食である。
お好み焼を二人でつくる少年少女は、二人だけでつくる家庭を想像のなかにもっているかもしれないが、二人でたこやきを立って食べる時には、家庭の日常性からのつかのまの自由を味わっている。
スルメは日本のチューインガムとも呼ばれ、耐乏精神と深くかかわりがあるような気がするが、たこやきはスルメよりもはるかにおくれてあらわれて、スルメとはちがう生活気分とむすびつく。
著者によると、明石のたこやきは明治なかばに発明され、大正末に大阪の縁日にあらわれたが、全国的に流行するにいたったのは、昭和二十年代後半の、食糧事情がおちついてからのことである。
たこやきをたのしむ気分は、欧米列強にならぶ強大な国家をつくろうとした明治の日本人の気概から遠い。明治をうけつぎ一等国民に自分たちをきたえてゆこうとした大正・昭和戦前・敗戦直後の日本人になかった、昭和晩年から平成の日本人のおもしろいところが、たこやきにひそんでいるのではなかろうか。その探索に何年もかけて、妻となり母となってからもとりくみつづけたこの本の著者に、前時代の日本人にはなかった新しい心のむきを感じる。
平成の真実はたこやきの中にあり。
たこやきのマナちゃん
多田道太郎
十八年前、熊谷真菜という女性に出会いまして、この人は今『たこやき』(リブロポート・一九九三)の著者として有名になっていますけれども、そのとき二十二歳すぎ、まだ大学院に入れないでいた。当時彼女は、世に問う論文のテーマをたこやきにしようか、それともお好みやきにしようかというので迷っていて、結局勘で、たこやきの方がいいということになった。それが今日の「たこやきのマナちゃん」のスタートだったのです。
今は大阪名物になっているたこやきも、もとは明石やきといって神戸のもの。明石にはもともと明石玉といってサンゴ玉の代用品(コピー)があり、食べもののたまごやきがその明石玉の形をまねて、明石やきとなった。コピーがコピーを生んだコピーしかない世界、これがたこやきだ――というのが熊谷さんの説のあらましです。
彼女とつき合っていて驚いたのは、本を読まない。それでいて、意見をいうたり文章を書いたりということはよくする。本はどれも読まない。特に難しそうな、当時は構造主義がはやっていましたから、「あんた、学者になるつもりやったら、これくらいは知っておかなきや」といっても、さっぱりおもしろうない、といって読まない。社会学の本もかなり推薦したけれども、それもみんな嫌で、読まはらへん。しかし、ことたこやき関係の本とか、それに関連するものは熱心に読む。そして、発表することというか、自分の意見をいうこと、自分が本を書くことにはそうとうな理想と野心があるわけです(彼女のたこやき論は、結果的にドゥルーズ・ガタリ、ポードリヤールとかのシミュラークル論と同じ線を独自に描いていたんですが)。ああ、こういう人が出てきたんかと思った。それが今から十四、五年前。今、彼女は三十六、七歳かな。
本を読むのは嫌いやけど本を書きたい。――ほォ、不思議な人が出てきたなと思いましたね。「たこやきについて本を書きたい」というから、こちらは大人の知恵で、「おもしろいと思うけれども、十年待ったらどう?」。そしたら、ほんとうに十年後にそういう本を書いて、それがよく売れた。
別に彼女の本の影響ということでもありませんが、たこやきというものが一般的に盛り上がってきて、今、銀座の一角にさえたこやき屋ができた。たこやき屋として大きな店が出てきたんやなくて、貸しビルの一角みたいなところに潜り込んでいったらしい。だから、文句もいえない。しかし、困ったなァといっていた。これは恐怖らしいね。たこやきいうのと銀座のイメージが合わないわけですね。
ちょっと話が飛ぶけれども、「GINZA」という雑誌ができた。名前にパテントはないんだけれども、それで果たして銀座のイメージを持ち上げることができるのかどうか。それとも、銀座というものがだんだん落ち目になっていく、そこにそういう雑誌の名前が出てきたのか。この辺が、判断に苦しむ。
「何とか銀座」って、日本じゅうに物すごく多かったのも、今かなり減ってきているみたいですね。もう、ちょっとネーミングとして苦しいらしい。
彼女は本を読むのは嫌いだけれども、人の話を聞くのは好きなんです。聞き書きが好きなんです。聞き書きをもとにして本を書く。
語り部、聞き部。聞き部ということばはなかったけれども、昔のことをいえば、ぼくらは語り部で、しかも教壇から教えるように語ることが好きで、聞くのは嫌いなんですよ。人の意見を聞くことは余りしない。学者というのは大体そうです。自分の意見に固執して、人の意見は聞かない。そのようにしてものを書いてきた。
それが逆転したのですね。じーっと聞いて、参考になるからいうて、メモをとっている。だれが教えたわけでもない。そういう習慣が出てきたのですね。
ちょっと上の世代の村上春樹にもそういう特技がある。好きこそものの上手で、ですから『アンダーグラウンド』(講談社・一九九七)も、被害者の側の聞き部になろう、耳を傾けようという、彼自身の個生の中から出てきたもののようですね。
熊谷真菜も自分の個性の語り部であるのですね。
「群像」一九九七年九月号「『ノルウェイの森』――放火論」の一部を大幅に加筆
出典:熊谷真菜著『たこやき』講談社文庫、1998年。第一章「たこやきの誕生」、第二章「たこやき前史」、第三章「戦後のたこやき」、第四章「たこやきをめぐる技術」を抄録。電子文藝館掲載にあたり著者が校正。鶴見俊輔「付録のような文章」、多田道太郎「たこやきのマナちゃん」を著作権者の了解を得て収録した。