一兵卒

 かれは歩き出した。

 銃が重い、背嚢はいのうが重い、あしが重い、アルミニューム製の金椀かなわんが腰の剣に当ってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟しげきするので、幾度いくたびかそれを直して見たが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もういやになってしまった。

 病気は本当に治ったのでないから、呼吸が非常に切れる。全身には悪熱悪寒あくねつおかんが絶えず往来する。頭脳あたまが火のように熟して、顳顬こめかみはげしい脈を打つ。何故なぜ、病院を出た? 軍医が後が大切だと言ってあれほど留めたのに、何故病院を出た? こう思ったが、かれはそれを悔いはしなかった。敵の捨ててげた汚ない洋館の板敷いたじき、八畳位のへやに、病兵、負傷兵が十五人、衰頽おとろえと不潔と叫喚うめきと重苦しい空気と、それにすさまじいはえの群集、よく二十日も辛抱していた。麦飯のかゆに少しばかりの食塩、よくあれで飢餓うえしのいだ。かれは病院の背後うしろの便所を思出おもいだしてゾットした。急造きゅうごしらえの穴の掘りようが浅いので、臭気が鼻と眼とを烈しくつ。蠅がワンと飛ぶ。石灰いしばいの灰色に汚れたのが胸をむかむかさせる。

 あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々ひろびろとした野の方が好い。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠こうばくとして何もない。畑にはもう熟し懸けた高梁こうりょうつらなっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――凄じい声が急に耳に入ったので、立留って彼はそっちを見た。さっきの汽車がまだあそこにいる。釜のない煙筒えんとつのない長い汽車を、支那苦力クリーが幾百人となく寄ってたかって、丁度ちょうどありが大きな獲物えものを運んで行くように、えっさらおっさら押して行く。

 夕日がのようにななめに射し渡った。

 先程さっきの下士があそこに乗っている。あの一段高い米のかますの積荷の上に突立つったっているのが彼奴きゃつだ。苦しくってとても歩けんから、鞍山站あんざんてんまで乗せて行ってくれと頼んだ。すると彼奴め、兵を乗せる車ではない。歩兵が車に乗るという法があるかと呶鳴どなった。病気だ、御覧の通りの病気で、脚気かっけをわずらっている。鞍山站の先まで行けば隊がいるに相連ない。武士は相見互あいみたがいということがある、どうか乗せてくれッて、って頼んでも、言うことを聞いてくれなかった。兵、兵といって、すじが少いと馬鹿にしやがる。金州でも、得利寺とくりじでも兵のお蔭で戦争に勝ったのだ。馬鹿奴ばかめ、悪魔奴!

 蟻だ、蟻だ、本当に蟻だ。まだあそこにいやがる。汽車もああなってはおしまいだ。ふと汽車――豊橋とよはしって来た時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められている。万歳の声が長く長く続く。と忽然こつぜん最愛の妻の顔が眼に浮ぶ。それは門出の時の泣顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心から可愛かあいいと思った時の美しい笑顔だ。母親がお前もうお起きよ、学校が遅くなるよと揺起ゆりおこす。彼の頭はいつか子供の時代に飛帰っている。裏の入江の船の船頭が禿頭はげあたまを夕日にてかてかと光らせながら子供の一群に向って呶鳴っている。その子供の群の中に彼もいた。

 過去の面影おもかげと現在の苦痛不安とが、はっきりと区劃くかくを立てておりながら、しかもそれがすれすれに摺寄すりよった。銃が重い、背嚢はいのうが重い、あしが重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。

 褐色の道路――砲車のわだちや靴の跡や草鞋わらじの跡が深く印したままに石のように乾いて固くなったみちが前に長く通じている。こういう満洲の道路にはかれはほとん愛想あいそをつかしてしまった。何処どこまで行ったらこの路はなくなるのか。何処まで行ったらこんな路は歩かなくってもよくなるのか。故郷ふるさとのいさごみち、雨上りの湿った海岸の砂路いさごみち、あのなめらかな心地ここちの好い路が懐かしい。広い大きな道ではあるが、ひとつとして滑かなたいらかなところがない。これが雨が一日降ると、壁土のように柔かくなって、靴どころか、長いすねもそのなかばを没してしまうのだ。大石橋だいせっきょうの戦争の前の晩、暗い闇の泥濘でいねいを三里もこね廻した。背の上から頭の髪まではねが上った。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥って少しも動かぬのを押して押して押し通した。第三聯隊れんたいの砲車が先に出て陣地を占領してしまわなければ明日あしたたたかいは出来なかったのだ。そして終夜働いて、翌日はあの戦争。敵の砲弾、味方の砲弾がぐんぐんといやな音を立てて頭の上を鳴って通った。九十度近い暑い日が脳天からじりじり照り附けた。四時すぎに、敵味方の歩兵はともに接近した。小銃の音が豆をるように聞える。時々シュッシュッと耳のそばかすめて行く。列の中であっと言ったものがある。はッと思って見ると、血がだらだらと暑い夕日にいろどられて、その兵士はガックリ前にのめった。胸に弾丸たまあたったのだ。その兵士はい男だった。快活で、洒脱しゃだつで、何事にも気が置けなかった。新城町しんしろまちのもので、若いかかアがあったはずだ。上陸当座は一緒によく徴発ちょうはつに行ったっけ。豚をい廻したッけ。けれどあの男は最早もはやこの世の中にいないのだ。いないとはどうしても思えん。思えんがいないのだ。

 褐色の道路を、糧餉りょうしょうを満載した車がぞろぞろ行く。騾車らしゃ驢車ろしゃ、支那人のじじのウオウオウイウイが聞える。長いむちが夕日に光って、一種の音を空気に伝える。路の凸凹でこぼこはげしいので、車は波を打つようにしてガタガタ動いて行く。苦しい、呼吸いきが苦しい。こう苦しくっては為方しかたがない。頼んで乗せてもらおうと思ってかれは駆出かけだした。

 金椀がカタカタ鳴る。烈しく鳴る。背嚢の中の雑品や弾丸袋の弾丸がたたましくおどり上る。銃の台が時々すねを打って飛び上るほど痛い。

 「オーイ、オーイ。」

 声が立たない。

 「オーイ、オーイ。」

 全身の力をしぼって呼んだ。聞えたに相違ないが振向いても見ない。どうせろくなことではないと知っているのだろう。一時思止おもいとどまったが、また駆出した。そして今度はその最後の一輌に漸くようや追着おいついた。

 米のかますが山のように積んである。支那人の爺が振向いた。丸顔の厭な顔だ。有無うむをいわせずその車に飛乗とびのった。そして叺と叺との間に身をよこたえた。支那人は為方しかたがないという風でウオーウオーと馬を進めた。ガタガタと車は行く。

 頭脳あたまがぐらぐらして天地が廻転するようだ。胸が苦しい。頭が痛い。脚のふくらはぎの処が押附けられるようで、不愉快で不愉快で為方がない。ややともすると胸がむかつきそうになる。不安の念が凄じい力で全身を襲った。と同時に、恐ろしい動揺がまた始まって、耳からも頭からも、種々の声がささやいて来る。この前にもこうした不安はあったが、これほどではなかった。天にも地にも身の置き処がないような気がする。

 野から村に入ったらしい。鬱蒼こんもりとしたやなぎの緑がかれの上になびいた。楊樹やなぎにさし入った夕日の光がこまかな葉を一葉一葉明らかに見せている。不恰好ぶかっこうな低い屋根が地震でもあるかのように動揺しながら過ぎて行く。ふと気がつくと、車は止っていた。かれは首をげて見た。

 楊樹の蔭をなしているところだ。車輌くるまが五台ほど続いているのを見た。

 突然肩をおさえるものがある。

 日本人だ、わが同胞だ、下士だ。

 「貴様きさまは何だ?」

 かれは苦しい身を起した。

 「どうしてこの車に乗った?」

 理由を説明するのがつらかった。いや口をくのもいやなのだ。

 「この車に乗っちゃいかん。そうでなくってさえ、荷が重過ぎるんだ。お前は十八聯隊だナ。豊橋だナ。」

 点頭うなずいて見せる。

 「どうかしたのか。」

 「病気で、昨日まで大石橋だいせっきょうの病院にいたものですから。」

 「病気がもう治ったのか。」

 無意味に点頭うなずいた。

 「病気で辛いだろうが、下りてくれ。急いで行かんけりゃならんのだから。遼陽りょうようはじまったでナ。」

 「遼陽!」

 この一語はかれの神経を十分に刺戟した。

 「もう始ったですか。」

 「聞えんかあの砲が……」

 先ほどから、天末に一種の轟声とどろきが始ったそうなとは思ったが、まだ遼陽ではないと思っていた。

 「鞍山站あんざんてんは落ちたですか。」

 「一昨日おととい落ちた。敵は遼陽の手前で一防禦ひとふせぎるらしい。今日の六時から始ったという噂だ!」

 一種の遠いかすかなるとどろき仔細しさいに聞けばなるほど砲声だ。例の厭な音が頭上を飛ぶのだ。歩兵隊がその間を縫って進撃するのだ。血汐ちしおが流れるのだ。こう思ったかれは一種の恐怖と憧憬しょうけいとを覚えた。戦友は戦っている。日本帝国のために血汐を流している。

 修羅しゅらちまたが想像される。炸弾さくだんの壮観も眼の前に浮ぶ。けれど七、八里を隔てたこの満洲の野は、さびしい秋風が夕日を吹いているばかり、大軍のうしおの如く過ぎ去った村の平和は平生いつもことならぬ。

 「今度の戦争は大きいだろう。」

 「そうさ。」

 「一日では勝敗かちまけがつくまい。」

 「無論だ。」

 今の下士は夥伴なかまの兵士と砲声を耳にしつつしきりに語合かたりあっている。糧餉りょうしょうを満載した車五輌、支那苦力クリー爺連おやちゃんをなして何事をか饒舌しゃべり立てている。驢馬ろばの長い耳に日が射して、おりおりけたたましい啼声なきごえが耳をつんざく。楊樹やなぎ彼方むこうに白い壁の支那民家が五、六軒続いて、庭の中にえんじゅが高く見える。井戸がある。納屋なやがある。足の小さい年老いた女が覚束おぼつかなく歩いて行く。楊樹を透して向うに、広い荒漠たる野が見える。褐色した丘陵おかの連続が指される。その向うには紫色むらさきがかった高い山が蜿蜒えんえんとしている。砲声は其処そこから来る。

 

 五輌の車は行ってしまった。

 かれはまた一人取残された。海城から東煙台、甘泉堡かんせんほ、この次の兵站部へいたんぶ所在地は新台子しんたいしと言って、まだ一里位ある。其処そこまで行かなければ宿るべき家もない。

 行くことにして歩き出した。

 疲れ切っているから難儀だが、車よりはかえって好い。胸は依然として苦しいが、どうもいたかたがない。

 また同じ褐色の路、同じ高梁の畑、同じ夕日の光、レールには例の汽車がまた通った。今度は下り坂で、速力が非常に早い。釜の附いた汽車よりも早い位に目まぐろしく谷を越えてはしった。最後の車輌くるまひるがえった国旗が高梁畑の絶間たえま絶間に見えたり隠れたりして、遂にそれが見えなくなっても、その車輌のとどろきは聞える。その轟と交って、砲声が間断しっきりなしに響く。

 街道には久しく村落がないが、西方には楊樹やなぎのやや暗い繁茂が到るところにかたまって、その間からちらちら白色褐色の民家が見える。人の影は四辺あたりを見廻してもないが、あおい細い炊煙すいえんは糸のように淋しく立あがる。

 夕日は物の影をすべて長くくようになった。高梁の高い影は二けん幅の広い路をおおって、更に向う側の高梁の上に蔽いかさなった。路傍みちばたの小さな草の影もおびただしく長く、東方の丘陵おかは浮出すようにはっきりと見える。さびしい悲しい夕暮はたとにくい一種の影の力を以て迫って来た。

 高梁の絶えた処に来た。忽然こつぜん、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。

 草叢くさむらには虫の声がする。故郷ふるさとの野で聞く虫の声とは似もつかぬ。この似つかぬことと広い野原とが何となくその胸を痛めた。一時途絶とだえた追懐の情が流るるようにみなぎって来た。

 母の顔、若い妻の顔、弟の顔、女の顔が走馬灯のごとく旋回する。けやきで囲まれた村の旧家、団欒だんらんせる平和な家庭、続いてその身が東京に修業に行った折の若々しさがおもい出される。神楽坂かぐらざかの夜のにぎわいが眼に見える。うるわしい草花、雑誌店、新刊の書、角を曲ると賑やかな寄席よせ待合まちあい、三味線の音、あだめいた女の声、あの頃は楽しかった。恋した女が仲町なかちょうにいて、よく遊びに行った。丸顔の可愛かわいい娘で、今でも恋しい。この身は田舎の豪家の若旦那で、金には不自由を感じなかったから、随分面白いことをした。それにあの頃の友人は皆世に出ている。この間も蓋平がいへいで第六師団の大尉になって威張っているやつ邂逅でっくわした。

 軍隊生活の束縛ほど残酷なものはないと突然思った。と、今日は不思議にも平生ひごろのように反抗とか犠牲とかいう念は起らずに、恐怖の念がさかんに燃えた。出発の時、この身は国に捧げ、君に捧げて遺憾いかんがないと誓った。再びは帰って来る気はないと、村の学校で雄々おおしい演説をした。当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言っても勿論死ぬ気はなかった。心の底には花々しい凱旋がいせんを夢みていた。であるのに、今忽然こつぜん起ったのは死に対する不安である。自分はとても生きてかえることは覚束おぼつかないという気が烈しく胸をいた。この病、この脚気かっけ仮令たとえこの病は治ったにしても戦場はおおいなる牢獄である。いかに藻掻もがいてもあせってもこの大なる牢獄から脱することは出来ぬ。得利寺とくりじで戦死した兵士がその以前かれに向って、

 「どうせのがれられぬ穴だ。思いきりよく死ぬサ。」と言ったことを思出した。

 かれは疲労と病気と恐怖とに襲われて、如何いかにしてこの恐しい災厄さいやくのがるべきかを考えた。脱走? それも好い、けれど捕えられたあかつきには、この上もない汚名をかぶった上に同じく死! さればとて前進すれば必ず戦争のちまたの人とならなければならぬ。戦争の巷に入れば死を覚悟しなければならぬ。かれは今初めて、病院を退院したことの愚をひしと胸に思当おもいあたった。病院から後送こうそうされるようにすればよかった……と思った。

 もう駄目だ、万事休す、遁れるにみちがない。消極的の悲観が恐ろしい力でその胸を襲った。と、歩く勇気も何もなくなってしまった。止度とめどなく涙が流れた。神がこの世にいますなら、どうかたすけて下さい、どうか遁路にげみちを教えて下さい。これからはどんな難儀もする! どんな善事もする! どんなことにもそむかぬ。

 かれはおいおい声を挙げて泣出した。

 胸が間断しっきりなしに込み上げて来る。涙は小児こどもでもあるように頬を流れる。自分の体がこの世の中になくなるということが痛切に悲しいのだ。かれの胸にはこれまで幾度いくたびも祖国を思うの念が燃えた。海上の甲板かんぱんで軍歌を歌った時には悲壮の念が全身にち渡った。敵の軍艦が突然出て来て、一砲弾のために沈められて、海底の藻屑もくずとなっても遺憾がないと思った。金州の戦場では、機関銃の死の叫びのただ中を地に伏しつつ、勇ましく進んだ。戦友の血にまみれた姿に胸をったこともないではないが、これも国のためだ、名誉だと思った。けれど人の血の流れたのは自分の血の流れたのではない。死と相面あいめんしては、いかなる勇者も戦慄せんりつする。

 脚が重い、気怠けだるい、胸がむかつく。大石橋から十里、二日の路、夜露よつゆ悪寒おかん、確かに持病の脚気かっけ昂進こうしんしたのだ。流行腸胃熱は治ったが、急性の脚気が襲って来たのだ。脚気衝心しょうしんの恐しいことを自覚してかれは戦慄した。どうしても免れることが出来ぬのかと思った。と、いても立ってもいられなくなって、体がしびれて脚がすくんだ――おいおい泣きながら歩く。

 野は平和である。赤い大きい日は地平線上に落ちんとして、空はなか金色こんじき半ば暗碧色あんぺきしょくになっている。金色の鳥の翼のような雲が一片動いて行く。高梁の影は影とおおかさなって、荒涼たる野には秋風が渡った。遼陽方面の砲声も今までさかんに聞えていたが、いつか全く途絶とだえてしまった。

 二人づれの上等兵が追い越した。

 すれ違って、五、六けん先に出たが、ひとりが戻って来た。

 「おい、君、どうした?」

 かれは気が附いた。声を挙げて泣いて歩いていたのが気恥かしかった。

 「おい、君?」

 再び声は懸った。

 「脚気なもんですから。」

 「脚気?」

 「はア。」

 「それは困るだろう。よほど悪いのか。」

 「苦しいのです。」

 「それア困ったナ、脚気では衝心でもすると大変だ。何処どこまで行くんだ。」

 「隊が鞍山站あんざんてんの向うにいるだろうと思うんです。」

 「だって、今日其処そこまで行けはせん。」

 「はア。」

 「まア、新台子まで行くさ。其処に兵站部へいたんぶがあるから行って医師いしゃに見てもらうさ。」

 「まだ遠いですか?」

 「もうすぐ其処だ。それ向うに丘が見えるだろう。丘の手前に鉄道線路があるだろう。其処に国旗が立っている、あれが新台子の兵站部だ。」

 「其処に医師がいるでしょうか。」

 「軍医が一人いる。」

 蘇生そせいしたような気がする。

 で、二人にいて歩いた。二人は気の毒がって、銃と背嚢はいのうとを持ってくれた。

 二人は前に立って話しながら行く。遼陽の今日の戦争の話である。

 「様子は解らんかナ。」

 「まだってるんだろう。煙台で聞いたが、敵は遼陽の一里手前で一支ひとささえしているそうだ。んでも首山堡しゅさんぽとか言った。」

 「後備こうびが沢山行くナ。」

 「兵が足りんのだ。敵の防禦陣地はすばらしいものだそうだ。」

 「大きな戦争になりそうだナ。」

 「一日砲声がしたからナ。」

 「勝てるかしらん。」

 「負けちゃ大変だ。」

 「第一軍も出たんだろうナ。」

 「勿論さ。」

 「一つうまく背後を断ってりたい。」

 「今度はきっと旨く遣るよ。」

 と言って耳を傾けた。砲声がまた盛んに聞え出した。

 

 新台子の兵站部は今雑沓ざっとうを極めていた。後備旅団の一箇聯隊が着いたので、レイル上の、家屋の蔭、糧餉りょうしょうそばなどに軍帽と銃剣とが充ち満ちていた。レイルを挟んで敵の鉄道援護の営舎が五棟ほど立っているが、国旗の翻った兵站本部は、雑沓を重ねて、兵士が黒山のようにあつまって、長い剣を下げた士官が幾人となく出たり入ったりしている。兵站部の三箇の大釜には火がさかんに燃えて、けむりが薄暮の空に濃くなびいていた。一箇の釜は飯が既にけたので、炊事軍曹が大きな声を挙げて、部下を叱咤しったして、集る兵士にしきりに飯の分配を遣っている。けれどこの三箇の釜は到底この多数の兵士に夕飯ゆうめしを分配することが出来ぬので、その大部分は白米を飯盆はんごうに貰って、各自に飯を作るべく野に散った。やがて野の処々に高梁の火がいくつとなくもやされた。

 家屋のかなたでは、徹夜して戦場に送るべき弾薬弾丸の箱を汽車の貨車に積込んでいる。兵士、輸卒の群が一生懸命に奔走しているさまが薄暮のかすかな光に絶え絶えに見える。一人の下士が貨車の荷物の上に高く立って、しきりにその指揮をしていた。

 日が暮れても戦争はまぬ。鞍山站の馬鞍のような山が暗くなって、その向うから砲声が断続する。

 かれ此処ここに来て軍医をもとめた。けれど軍医どころの騒ぎではなかった。一兵卒が死のうが生きようがそんなことを問う場合ではなかった。渠は二人の兵士の尽力の下に、わずかに一ごうの飯を得たばかりであった。為方しかたがない、少し待て。この聯隊の兵が前進してしまったら、軍医をさがして、れて行って遣るから、先ず落着いておれ。此処から真直まっすぐに三、四町行くと一棟の洋館がある。その洋館の入口には、酒保しゅほが今朝から店を開いているからすぐ解る。その奥に入って、寝ておれとのことだ。

 渠はもう歩く勇気はなかった。銃と背嚢とを二人から受取ったが、それを背負うと危く倒れそうになった。眼がぐらぐらする。胸がむかつく。脚が気怠けだるい。頭脳あたまは烈しく旋回する。

 けれど此処に倒れるわけには行かない。死ぬにも隠家かくれがを求めなければならぬ。そうだ、隠家……。どんな処でも好い。静かな処に入って寝たい、休息したい。

 闇の路が長く続く。ところどころに兵士が群をなしている。ふと豊橋の兵営をおもい出した。酒保に行って隠れてよく酒を飲んだ。酒を飲んで、軍曹をなぐって、重営倉に処せられたことがあった。路がいかにも遠い。行っても行っても洋館らしいものが見えぬ。三、四町と言った。三、四町どころか、もう十町も来た。間違ったのかと思って振返る――兵站部は灯火ともしびの光、篝火かがりびの光、闇の中を行違う兵士の黒い群、弾薬箱を運ぶ懸声かけごえが夜の空気をつんざいて響く。

 此処らはもう静かだ。四辺あたりに人の影も見えない。にわかに苦しく胸が迫って来た。隠家がなければ、此処で死ぬのだと思って、がっくり倒れた。けれども不思議にも前のように悲しくもない、思い出もない。空の星のひらめきが眼に入った。首を挙げてそれとなく四辺をみまわした。

 今まで見えなかった一棟の洋館がすぐその前にあるのに驚いた。家の中には灯火が見える。丸い赤い提灯ちょうちんが見える。人の声が耳に入る。

 銃を力に辛うじて立上った。

 なるほど、その家屋いえの入口に酒保らしいものがある。暗いからわからぬが、何か釜らしいものが戸外の一隅いちぐうにあって、まき余燼もえさしが赤く見えた。薄い煙が提灯をかすめて淡くなびいている。提灯に、しるこ一杯五銭と書いてあるのが、胸が苦しくって苦しくって為方しかたがないにもかかわらずはっきりと眼に映じた。

 「しるこはもうおしまいか。」

 と言ったのは、その前に立っている一人の兵士であった。

 「もうお終いです。」

 という声が戸内うちから聞える。

 戸内をのぞくと明かなる光、西洋蝋燭ろうそくが二本裸でともっていて、罎詰びんづめ小間物こまものなどの山のように積まれてある中央まんなかの一段高い処に、肥った、口髭くちひげの濃い、莞爾にこにこした三十男が坐っていた。店では一人の兵士がタオルをひろげて見ていた。

 そばを見ると、暗いながら、低い石階きざはしが眼に入った。此処だなとかれは思った。とにかく休息することが出来ると思うと、言うに言われぬ満足を先ず心に感じた。静かにぬき足してその石階を登った。中は暗い。よく判らぬが廊下になっているらしい。最初の戸とおぼしき処を押して見たが開かない。二歩三歩進んで次の戸を押したがやはり開かない。左の戸を押しても駄目だ。

 なお奥へ進む。

 廊下は突当ってしまった。右にも左にも道がない。困って右を押すと、突然、闇が破れてが明いた。室内が見えるというほどではないが、そことなく星明りがして、前に硝子ガラス窓があるのが解る。

 銃を置き、背嚢はいのうおろし、いきなりかれは横に倒れた。そして重苦しい呼吸いきをついた。まアこれで安息所を得たと思った。

 満足とともに新しい不安が頭をもたげて来た。倦怠けんたい、疲労、絶望に近い感情が鉛のごとく重苦しく全身を圧した。思い出が片々きれぎれで、電光のように早いかと思うと牛の喘歩あえぎのように遅い。間断しっきりなしに胸が騒ぐ。

 重い、気怠けだるい脚が一種の圧迫を受けて疼痛とうつうを感じて来たのは、かれ自らにも好く解った。ふくらはぎのところどころがずきずきと痛む。普通の疼痛いたみではなく、丁度こむらがかえった時のようである。

 自然と体を藻掻もがかずにはいられなくなった。綿のように疲れ果てた身でも、この圧迫にはかなわない。

 無意識に輾転てんてん反側した。

 故郷のことを思わぬではない、母や妻のことをかなしまぬではない。この身がこうして死ななければならぬかと嘆かぬではない。けれど悲嘆や、追憶や、空想や、そんなものはどうでも好い。疼痛、疼痛、その絶大な力と戦わねばならぬ。

 うしおのように押寄せる。暴風あらしのように荒れわたる。脚を固い板の上に立てて倒して、体を右に左にもがいた。「苦しい……」と思わず知らず叫んだ。

 けれど実際はまたそう苦しいとは感じていなかった。苦しいには違いないが、更に大なる苦痛に耐えなければならぬと思う努力が少くともその苦痛を軽くした。一種の力は波のように全身にみなぎった。

 死ぬのは悲しいという念よりもこの苦痛に打克うちかとうという念の方が強烈であった。一方には極めて消極的な涙脆なみだもろ意気地いくじない絶望が漲るとともに、一方には人間の生存に対する権利というような積極的な力が強くよこたわった。

 疼痛は波のように押寄せては引き、引いては押寄せる。押寄せるたびくちびるを噛み、歯をくいしばり、脚を両手でつかんだ。

 五官の他にある別種の官能の力が加わったかと思った。暗かったへやがそれとはっきり見える。暗色の壁に添うて高いテーブルが置いてある。上に白いのは確かに紙だ。硝子ガラス窓の半分が破れていて、星がきらきらと大空にきらめいているのが認められた。右の一隅いちぐうには、何かごたごた置かれてあった。

 時間の経って行くのなどはもうかれには解らなくなった。軍医が来てくれれば好いと思ったが、それを続けて考える暇はなかった。新しい苦痛が増した。

 床近く蟋蟀こおろぎが鳴いていた。苦痛にもだえながら、「あ、蟋蟀が鳴いている……」とかれは思った。その哀切な虫の調しらべが何だか全身にみ入るように覚えた。

 疼痛、疼痛、かれは更に輾転てんてん反側した。

 

 「苦しい! 苦しい! 苦しい!」

 続けざまにけたたましく叫んだ。

 「苦しい、誰か……誰かおらんか。」

 としばらくしてまた叫んだ。

 強烈なる生存の力ももうよほど衰えてしまった。意識的に救助たすけを求めると言うよりは、今はほとんど夢中である。自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪の叫び、人間の悲鳴!

 「苦しい! 苦しい!」

 その声がしんとした室にすさまじく漂い渡る。この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥きがしていた。日本兵が始めて入った時、壁には黒くすすけた基督キリストの像が懸けてあった。昨年の冬は、満洲の野に降頻ふりしきる風雪をこの硝子窓から眺めて、その士官はウオッカを飲んだ。毛皮の防寒服を着て、戸外に兵士が立っていた。日本兵のなすに足らざるを言って、にじのごとき気焔きえんを吐いた。その室に、今、垂死すいしの兵士の叫喚うめきが響き渡る。

 「苦しい、苦しい、苦しい!」

 せきとしている。蟋蟀こおろぎは同じやさしいさびしい調子で鳴いている。満洲の広漠こうばくたる野には、遅い月が昇ったと見えて、四辺あたりが明るくなって、硝子窓の外は既にその光を受けていた。

 叫喚、悲鳴、絶望、かれは室の中をのたうち廻った。軍服の釦鈕ボタンは外れ、胸のあたりかきむしられ、軍帽は頷紐あごひもをかけたまま押潰され、顔から頬に懸けては、嘔吐おうとした汚物が一面に附着した。

 突然明らかな光線が室に射したと思うと、とびらの処に、西洋蝋燭を持った一人の男の姿が浮彫のようにあらわれた。その顔だ。肥った口髭のある酒保の顔だ。けれどその顔には莞爾にこにこした先ほどの愛嬌はなく、真面目なあおい暗い色が上っていた。黙って室の中へ入って来たが、其処そこうなって転がっている病兵を蝋燭で照らした。病兵の顔は蒼褪あおざめて、死人のように見えた。嘔吐した汚物が其処に散らばっていた。

 「どうした? 病気か?」

 「ああ苦しい、苦しい……」

 とはげしく叫んで輾転てんてんした。

 酒保の男は手を附けかねてしばし立って見ていたが、そのまま、蝋燭の蝋をらして、テーブルの上にそれを立てて、そそくさと扉の外へ出て行った。蝋燭の光で室は昼のように明るくなった。隅に置いた自分の背嚢はいのうと銃とがかれの眼に入った。

 蝋燭の火がちらちらする。蝋が涙のようにだらだら流れる。

 しばらくして先の酒保の男は一人の兵士をともなって入って来た。この向うの家屋いえに寝ていた行軍中の兵士を起して来たのだ。兵士は病兵の顔と四方あたりのさまとを見廻したが、今度は肩章を仔細に倹した。

 二人の対話が明かに病兵の耳に入る。

 「十八聯隊の兵だナ。」

 「そうですか。」

 「いつから此処ここに来てるんだ?」

 「少しも知らんかったです。いつから来たんですか。私は十時頃ぐっすり寝込んだんですが、ふと目を覚ますと、唸声うなりごえがする、苦しい苦しいという声がする。どうしたんだろう、奥には誰もいぬはずだがと思って、不審にして暫く聞いていたです。すると、その叫声さけびごえはいよいよ高くなりますし、誰か来てくれ! と言う声が聞えますから、来て見たんです。脚気かっけですナ、脚気衝心しょうしんですナ。」

 「衝心?」

 「とても助からんですナ。」

 「それア、気の毒だ。兵站部に軍医がいるだろう?」

 「いますがナ……こんな遅く、来てくれやしませんよ。」

 「何時だ。」

 自ら時計を出して見て、「道理もっともだ」という顔をして、そのまま隠袋ポッケットに収めた。

 「何時です?」

 「二時十五分。」

 二人は黙って立っている。

 苦痛がまた押寄せて来た。唸声、叫声が堪え難い悲鳴に続く。

 「気の毒だナ。」

 「本当に可哀そうです。何処どこの者でしょう。」

 兵士がかれの隠袋を探った。軍隊手帖を引出すのが解る。かれの眼にはその兵士の黒くたくしい顔と軍隊手帖を読むために卓上の蝋燭に近く歩み寄ったさまが映った。三河国渥美郡あつみごおり福江付加藤平作……と読む声が続いて聞えた。故郷ふるさとのさまが今一度その眼前に浮ぶ。母の顔、妻の顔、けやきで囲んだ大きな家屋いえ、裏から続いたなめらかな磯、あおい海、馴染なじみの漁夫の顔……。

 二人は黙って立っている。その顔は蒼く暗い。おりおりその身に対する同情の言葉が交される。彼は既に死を明かに自覚していた。けれどそれが別段苦しくも悲しくも感じない。二人の問題にしているのはかれ自身のことではなくて、他に物体があるように思われる。ただ、この苦痛、堪え難いこの苦痛からのがれたいと思った。

 蝋燭がちらちらする。蟋蟀が同じくさびしく鳴いている。

 

 黎明あけがたに兵站部の軍医が来た。けれどその一時間前に、かれは既に死んでいた。一番の汽車が開路開路の懸声かけごえとともに、鞍山站に向って発車した頃は、その残月が薄く白けて、淋しく空に懸っていた。

 暫くして砲声がさかんに聞え出した。九月一日の遼陽攻撃は始まった。

(明治四十年作)

田山花袋記念文学館