『ゴスフォード・パーク』(2001年製作)はロバート・バーナード・アルトマン監督の映画である。集団劇あるいはアンサンブル劇とか、「グランド・ホテル」形式とかいわれるだけあって、30人以上の人物が登場するので人物の顔と名前を一致させるだけでも骨がおれる。この映画の世界は1932年のイギリス貴族と召使の階上と階下に二分された大邸宅――そこで真夜中の殺人事件が起き、犯人はだれか、となる。ところが、アルトマン監督はこれを重視しない。サスペンスの真相解明には無関心である。監督の関心はむしろ階下の人々の噂話で物語をどのように進めていくかにある。関心事は登場人物の多数のアドリブを収録編集し、その会話のキーワードを拾いあげ、映像から受けるひらめきを追体験してゆかないかぎり物語が分からないように仕組むことに向けられている。観客に何度も観させてなにかに気づいてもらいたいというのが監督の本意なのだろう。
物語の時代は1932年11月の狩猟シーズンであるが、この時、実際の世界では何が起きていただろうか。――世界は経済大恐慌(1929.10ウォール街株暴落による)から脱しきれていない状況にあり、ドイツではヒトラー首相就任(1933.1)の2ヶ月前、アメリカはローズベルト大統領のニューディール政策(1933~)、イギリスはジョージ5世の治世・選挙法改正で男女平等の公布・・・と、貴族社会においても年季奉公の召使制度が終焉しようとしていた。交通機関の発達は若い女性を都会へ進出させ、嫁になるか奉公するか娼婦になるかの前時代的な傾向は変わりはじめる。
この時代の映画についていうと、サイレント映画に代わるトーキー映画が成功し、映画産業は最盛期となる。とくにアメリカはハリウッド映画の黄金時代を迎え、第5回(米)アカデミー作品賞を受賞した『グランド・ホテル』(1932年製作)がそれを象徴している。当時は海外ロケでなくスタジオにセットを組んで撮影したので、現地視察が必要であった。『ゴスフォード・パーク』の中の映画の話は、狩猟シーンをスタジオで撮影するので、本物のキジ狩を見て参考にしたいというハリウッドからやってきたプロデューサと俳優が登場している。
映画『ゴスフォード・パーク』の特徴は、全シーンにわたって登場人物のひとりひとりの言葉に耳を澄ませ眼を凝らせてゆくと、人間模様やその時代背景がしだいに浮き彫りされてくることにある。フィルム・メイキングについて、アルトマン監督(1925.2.20―2006.11.22)が「映画は観客に押し付けるものではない」と語っているように、映画は観る者によって様々にとらえられる。映画とは読み解くもので、『ゴスフォード・パーク』はまさにこれに類する映画だといえよう。
本映画は集団劇であるので、登場人物の人数は男性だけでなく女性も数多く、わずか一言であってもだれもがなにか映画のプロットに繋がる言葉を発言している女性だけでも15人になる。
名前を列挙すると、階上の女性は、コンスタンス・トレンサム伯爵夫人、シルヴィア・マッコードル夫人、イソベル・マッコードル(マッコードル夫妻の娘)、ルイーザ・ストックブリッジ夫人(シルヴィアの姉妹でレイモンド・ストックブリッジ卿の妻)、ラヴィニア・メレディス夫人(シルヴィアの姉妹でアンソニー・メレディス中尉の妻)、メルベル・ネスビット(フレディ・ネスビットの妻)である。
階下の女性は、ミセス・ウィルソン(メイド頭)、エルシー(イソベルのメイド)、“ミス・トレンサム”メアリー・マキーシュラン(トレンサム伯爵夫人の新米の召使)、ルイス(シルヴィア・マッコードル夫人の召使)、レニー(ルイーザ・ストックブリッジ夫人の召使)、サラ(ラヴィニア・メレディス夫人の召使)、ミセス・クロフト(料理長)、ドロシー(食料貯蔵室係)、バーサ(台所スタッフ)である。
ちなみに、シルヴィア・マッコードル夫人を演じたクリスティン・スコット=トーマスとミセス・ウイルソン役のヘレン・ミレンの二人は英国を代表する名女優で、前者は『イングリッシュ・ペイシェント』で1997年第69回(米)アカデミー主演女優賞にノミネートされ、後者は本映画では助演女優賞に、後の『クイーン』では2007年第79回(米)アカデミー主演女優賞を与えられた実力派女優である。『ゴスフォード・パーク』は作品賞・監督賞・脚本賞・衣装デザイン賞・装置賞・批評家賞など多数の賞を受賞しているが、この中でも第79回(米)アカデミー賞で最優秀脚本賞をジュリアン・フェローズが受賞したことは特記すべきことである。
さて、上記に列挙した女性の登場人物の中から、シルヴィア・マッコードル夫人と、エルシーとミセス・ウイルソン、コンスタンス・トレンサム伯爵夫人とメイドのメアリーにスポットをあててみよう。それはミズリー州カンザス・シティ出身のアルトマン監督が米国人でありながらその人生終盤において、なぜ1932年の英国貴族と召使の世界を描こうとしたのかを知る鍵の一つになると思う。以下は、それぞれの状況のもとで交わされる彼女たちの会話を引用して英語と日本語で表記した。ここで、その会話の深層に注目してみよう。
・シルヴィア・マッコードル夫人
彼女はゴスフォード・パークの持ち主ウイリアム卿(Sir William)の妻である。父親カートン伯爵(Lord Carton)が財産目当ての婚姻相手として、多数の工場経営者で巨額の富を築いたウイリアム・マッコードルにカードで選ばせて選ばれたのが自分であると自負している。古くからの習慣(しきたり)を無視する夫に対していつも皮肉をいう。
WILLIAM: I don’t give a shit about precedence.”
SYLVIA: Well, you always complain… that people look down on you, and then you behave like a peasant.
ウイリアム:「席順のことなんかどうだっていいんだ。」
シルヴィア:「そう、あなたはいつもみんなが貴方を見下すといって文句を言う...それでいてまるで農民のような振舞いをなさるのね。」
この会話は、晩餐会の席順についてシルヴィアの指示する席順をウィリアム卿が無視しようとするので、席順に関心を持たないのは農民みたいよと皮肉をいうのである。この類の露骨な言葉をいつも聞いているのは階下の召使やメイドたちである。
・エルシー
彼女はマッコードル夫妻のハウス・メイドである。階下のメイドでありながら、シルヴィアをとりまく貴族階級が他人に依存し搾取することに批判的である。シルヴィアのことを俗物女(a snobbish cow)と陰口をいい、そして、「みんなでビルを利用しまくっているのはむかつくわ。他の誰一人として紅茶1袋のお金さえ稼ぎ出す知恵もないのに(I think it’s disgusting the way they all use him. None of the rest of them have got the brains to make the price of a packet of tea.)」と言う。一方、ウイリアム卿は知恵と努力でトップへ上りつめた人(…who got to the top with brains and hard work)として、つまり、市民出身でありながら経営に成功して現在の社会的地位を得た人物として尊敬している。
この週末の狩猟が行われた日の晩餐会で、シルヴィアがウイリアム卿をいつもの調子で見下げるのを見て、うっかりつぶやいてしまった。次の会話はその場面の会話である。
WILLIAM: Why shouldn’t I be interested in films? You don’t know what I’m interested in.
SYLVIA: Well, I know you’re interested in money and fiddling with your guns, but I admit it when it comes to anything else, I’m stumped.
ELSIE: That’s it. That is not fair. Bill is…
ウイリアム:「映画が好きでなにが悪い?私の好みをなにも知らんだろうに。」
シルヴィア:「知ってますとも、あなたの好きなのはお金のことと銃をいじることでしょ、でも他にもあるとすると答えに困りますわ。」
エルシー: 「またそんなことを。だからお気の毒です。ビルは…」
招待客の前で、階下のメイドが階上のご主人様のウイリアムをビル...と呼ぶことはたとえ‘ツブヤキ’であろうと絶対に許されない。ウイリアム卿は憮然として書斎へひきこもり、シルヴィア・マッコードル夫人は「知らなかったわけじゃないわ(It’s not as if I didn’t know.)」と言って、平然と振舞う。このことでエルシーは解雇される。
エルシーを心配した同室のメアリーがウイリアム卿を愛していたかと聞くと、彼女は次のように答えている。
“I was a bit of fun, that’s all. I didn’t love him. I didn’t mind him, but… I liked the way he’d talk. He’d only talk to me because he was sick of her, but I liked it. He used to say to me I could be anything I wanted as long as I wanted it enough.” “It’s time for a change. Who knows? Could be the makin’ of me. What did he used to say? Seize the day.”
「ほんのお楽しみ、それだけ。愛してなかったし、気にかけていなかったわ、でも話し方は好きだった。彼は奥様にうんざりしていたから私に話しかけてきただけよ。でも彼の話が好きだった。彼がよく言っていたわ、心から望んでいれば望むもの何にでもなれるって。」「変わる時なのよ。誰に分かるっていうの。成功への一歩かもしれないじゃない。彼がよく言ったのは時期をつかめってこと。」
この返答を分析すると、エルシーはウィリアム卿がなぜ彼女に近寄ってきたかを判断し、彼が人生の生き方を示唆してくれたと察した知性ある女性だといえよう。エルシーは時代の変化を感性で感じとり、自分の信念に向けて歩もうとする新しいタイプの女性である。
・ミセス・ウイルソン
彼女はゴスフォード・パークの邸内を仕切る女性執事ともいえるメイド頭である。当家の‘しきたり’に従い、来客の従者を混乱しないように主人の爵位と名前で呼び、部屋割の手配やベッドメイキングからベジタリアン向きの献立やお気に入りの自家製ジャムの調達の手配もする。
事件後にトレンサム伯爵夫人付き新米メイドのメアリーが、ストックブリッジ卿の従者ロバート・パークスの行動を予期して、彼より先に毒殺行為に出た張本人はミセス・ウイルソンでないかと憶測するのだが…。メアリーの推測は確かにするどく、どこまでも真相解明にせまろうとする。が、彼女に詰問されてミセス・ウイルソンはこのように答えている。
“What gift do you think a good servant has that separates them from the others? It’s the gift of anticipation. And I’m a good servant. I’m better than good. I’m the best. I’m the perfect servant. I know when they’ll be hungry and the food is ready. I know when they’ll be tired and the bed is turned down. I know it before they know it themselves.” ……
“That’s what’s important, his life.” “I’m the perfect servant. I have no life.”
「よい召使とそうでない召使の違いが分かるのはどんな才能だと思います? 予期できる才能よ。私はよい召使なの。いいというだけでなく一流なの。完ぺきな召使なの。私には彼らがいつ空腹で、いつ食事を用意すべきかがわかるし、疲れるときとかベッドを片付けさせるときも。私には本人が気づく前にわかるの。」…….「私は完璧な召使で、私の人生なんてないの。」
ミセス・ウイルソンは当家をしきるメイド頭として、為すべきことを心得ており、自分の遂行すべき職務を公然と言い切っている。30年前とは違い、変り始める英国貴族社会で、ここゴスフォード・パークの古い習慣にしがみつく(stick to the old customer)世界ではあるが、自己独立した自分を信じて‘ゴスフォード・パーク’という世界の不確定さの中を凛々しく生きようとする。
・コンスタンス・トレンサム伯爵夫人とメイドのメアリー
トレンサム伯爵夫人はゴスフォード・パークを去りながら、車中でメアリーに尋ねている。トンプソン警部が帰り際に、「使用人たちには興味はないです。死んだ者に直接関わりのあった人だけです。(I’m not interested in the servants. Only people with a real connection with the dead man.)...犯人が誰であろうと突き止めてみせますよ。いつものことです。(Whoever he is, I’ll find him. I always do.)」、と言ったことを伯爵夫人は思い出したのであろう。それにたいしてメアリーはこう答えている。メアリーは貴族のメイド修業中でその分別をよくわきまえている。
LADY TRENTHAM: Oh dear, do you think if there’s a trial I might have to testify in court? Or you? I can’t think of anything worse. Imagine a person being hanged because of something one said in court.
MARY: I know. And what purpose could it possibly serve anyway?
トレンサム伯爵夫人:ねえ、マリー、もし裁判になれば法廷で証言することになると思う?私かあなたが? これほど悪いことは考えられないわ。想像してごらんなさい。裁判で言ったことで絞首刑になる者がいるなんて。
メアリー:わかります。そんなことをしてなんのたしになるのかしら?
ここまでに、シルヴィアとエルシー、ミセス・ウイルソン、コンスタンス・トレンサム伯爵夫人とメイドのメアリーの会話をとりあげてそこから‘読めるもの’について述べたが、こんどは視点を変えて彼女たちの映像を観察してみよう。
映像で見える登場人物の着衣や行動から彼女たちの年齢を推測できる。おそらくシルヴィア夫人は40歳前、エルシーは25歳前、ミセス・ウイルソンは50歳前後、コンスタンス・トレンサム伯爵夫人は65歳前後、メアリーは16歳前後でないかと思う。この推定年齢と会話の内容から明白なことは生き方の価値観が世代毎に違っていることである。いいかえれば、世代の違う人間が発言した言葉(セリフ)は映画の中のリアリティとなり、それは次の時代に興る第二次大戦やその戦後に顕在化するアイデアの原点や新生への萌芽を感じさせるものになっているのである。
さらにいうと、映画の映像はリアリティを表象するには最適なメディアであるが、それ以上に映画のなかの言葉にも映像を越えるリアリティがある。文字化された映画のセリフは、それは‘文字メディア’でしかすぎないが、映画の中では実力派の俳優たちがドラマのセリフをリアルに喋るので、音と声の表情を伴うひときわ冴えた言葉となって、その現実性が鮮明になるのである。
『ゴスフォード・パーク』という映画では、限定された時間と空間の中に世代が異なり、考え方や認識の仕方も異なる登場人物が、人々が集まり、去ってゆく。――そして、言葉が、女性たちの交わした言葉がスクリーンを越えて心に響いてくる。
本映画は日本で初公開されたときはロングランとなった。その10年後の今もDVDで鑑賞できる。これは本の愛読者が何回も読むのと同じようにこの映画も何回もDVDで鑑賞できる楽しみがある。