現代遺跡の最高峰 「太陽の塔」と岡本太郎
聞き手 熊谷真菜・佐久間文子
一九八九年一〇月、現代遺跡探険隊のメンバーは、万国博覧会協会の協力を得て、なんと約一九年ぶりに、「太陽の塔」にはいることができた。元テーマ館副館長・万博協会テーマ課長、現在大阪文化財センター専務理事・事務局長である広瀬智生さんにも同行いただき、当時をふりかえりながらの感動の再会である。
「太陽の塔」は中国縦貫道路を見下ろすように位置する。 吹田付近を走るときなど、彼と目を合わせることが、ほとんど習慣化しているのは、おそらく私だけではないはずだ。当時の人気もさることながら、大阪近辺に住む者にとって、「太陽の塔」はそこに絶対あるべきものとして、今も生きつづけている。
さて、「太陽の塔」にとって、ちょうどお尻にあたるところから入る。一筋の光もはいらない暗闇にライトを照らしてもらうと、「太陽の塔」の中心を支える「生命の樹」のラインが、かなた数十メール上の天井へと、息を吹き返したかのように伸びていく。赤いペンキがあせてはいるというものの、三葉虫、ブラキオザウルス、ゴリラ、クロマニヨン人など、進化過程がビジュアルに迫ってくる展示には、古めかしさのかけらも感じられない。
止まったままの、今では旧式なエスカレーターを上がっていく足音が、塔の鼓動のように響きわたる。どこから迷い込んだのか、鳩のミイラ、鍾乳洞と化した雨漏りのあと、少しだけ湿気のにおいもする。
「危険ですから、押し合わないで下さい」。広瀬氏が手書きした、張り紙もしっかりと上がり口に残っている。 七色に光り輝いていた天井の曲線は、灰色ながら美しい。そして「太陽の塔」の腕にあたる非常用階段の、鉄鋼の内壁構造に、しばしみとれてしまう。
あまりにもすばらしい体験に興奮しまくり、協会の人々を辟易させてしまった私たちだが、「太陽の塔」の作者であり、テーマ館プロデューサーだった岡本太郎氏は、現在の「太陽の塔」をどう見ているのだろうか。
一九九〇年六月一五日、私たちは南青山にある、岡本太郎先生のお宅へおじゃました。
玄関にはいると、まず「坐ることを拒否する椅子」(1963年 45×40㌢)が迎えてくれる。ふと応接間の方をうかがうと、先生が立っていらっしゃる。もう、お待ちくださっているのかしら。少しあわてる。が、なかへ通されて納得。さっきのは、先生そっくりの蠟人形だったのだ。
庭の大きな作品群からは、高い塀越しからも予想はできたが、それらを一望できるソファをすすめられる。 部屋のなかには、作品のレプリカ、タペストリー、陶器、掛け時計、椅子、電気スタンドから、小さなオブジェにいたるまで、あらゆるものが、先生のデザインなのだ。そんな、岡本太郎が凝縮された世界のなかで、おはなしをうかがうことができた。
秘書の平野敏子さんがいらして、先生はのどをいため、お声が出にくいため、解説いただく旨を伝えられる。そのあとから、岡本太郎先生がでてこられる気配を感じて、私たちは直立不動で、ご登場を待った。
実をいうと、私(熊谷)は数年前のテレビのCM“芸術は爆発だ!”といったもので、先生のイメージを勝手に描いていた。さらに今回のインタビューにそなえ、『今日の芸術』(一九六三年、光文社)などの著作から、やはりすごいと実感していたため、しっかりとおはなしをうかがえるかどうか、緊張と不安と興奮で、前日も眠れなかったほどなのだ。じっとにらみつけられて、沈黙が続いたらどうしよう。これが私たちの共通した心配ごとだった。
そろそろと足音がきこえる。静寂のなかの先生との初対面、予想とのあまりの格差に少々面食らってしまう。
ソファの背中ごしに、思わずごあいさつをはじめてしまった。先生は、お顔だけを私たちに向けられ、こちらの自己紹介に軽くうずかれると、また能の擦り足のような感じでゆっくりと進まれ、庭を背にして、腰掛けられた。
二〇年ぶりの再会
――先生は今年の三月、「太陽の塔」のなかをご覧になったわけですが、これは当時の万博以来はじめてでしょうか。
岡本 はじめてです。
平野 先日、みなさんが現代の遺跡で探険にいらしたというおはなしを、広瀬智生さんにうかがいましてね。 そっくりそのまま残ってますよっておっしゃるものだから、「へぇー、それは見たいなあ」って。
そしたら丁度テレビ局が、視聴者から「太陽の塔」の思い出ということではいってみたいという番組の企画があるので、できたら行っていただけませんかと言ってきたんです。それで、みなさんのそのおはなしを聞いていなかったら、わざわざ行ったかどうか、ですけれどね。
――二〇年ぶりにはいってみられて、どういうふうにお感じになりましたか。
岡本 どういうふうにって。(笑)
(少し間をおいて)ちがってみえましたね。
――それは外側ですか。 それとも……。
岡本 なかですね。もう少し残ってると思ってた。がらんとしてちょっとかわいそうな気がしたね。
生命の樹は、今みてもいいけどねえ。
平野 あれは鉄のパイプをしぼって、あの形を出してるんですよ。よくできてますねえ。デリケートな線だからなかなかたいへんで、作業がとてもむずかしかったんです。造船の技術でやってるんですけどね。でもあのような造形は、造船所でも、つくったことはなかっただろうから。あのとおりの模型をつくって。
でも内部の展示が残っていればねえ。万博が終わって、「太陽の塔」が保存されることに決まったとき、せっかくなら地下を通過するだけでも、見て歩けるようにしたらどうかという案が出たんですよ。天井の調光や展示物はそっくり生かして、ただエスカレーターに乗せるのは危険だから、透明なチューブを通して、それで遮断されてればいいんじゃないかって、言ったんですけど、結局規制があって。
胎内くぐりでおもしろいと思うんですよね。 アミーバや三葉虫までとても正確につくられていて、あれが全部そっくり残してあればとってもユニークな見せ物だったのに。もったいないですよ。ああいう空間ってありませんものね。
べらぼうなものをつくってやる
――依頼を受けられてから、完成までどのくらいの期間がかかったのですか。
岡本 二年半ぐらいかな。そのまえの万博がモントリオールであったんだ。それがはじまってから、ほんとにプロデューサーやることを引き受けた。
平野 だからもうぎりぎり、時間切れといってもいいぐらいだったんです。
――最初はおことわりになったんですか。
平野 そんな短期間にできると思えませんでしたし。 それに協会は、いろんな機関から出向してきた寄り合い世帯でしたから、岡本太郎さんみたいな人がそんなところに入っても苦労するばかりで、うまくいきっこないといわれてたんです。
あんまりみんながそう言うもんだから、「よし、それならやってやろうか。ほんとにだめなもんなら、ぶつかってやろう」って。そういう主義ですから。
みなさん、優等生のように固く小さくなって、万博協会の雰囲気が本当に暗かったんですよ。 はじめての万国博でしょ。どういうふうにやったらいいか、誰もわからないわけだし、日本でできるなんて思ってないわけです。だから、失敗するんじゃないか、失敗したらどうしようって、そればかりみなさん心配されてましたね。
そんななかにはいっていって、「これは祭りなんだ。ぱぁっとやって、失敗すればした方がいいじゃないか!」と演説をぶちまして。あらゆる機会に説得してまわりましてね。「べらぼうなものをつくらなきゃだめなんだ」って。 大きな声で、明朗にそう言ってたら、だんだんみなさんがうれしそうな顔になってきましてね。あれは大きな影響を与えたんではないかと思います。
――はじめての万博開催で“日本”ということが、何かにつけ意識されてたと思いますが、それについてはどのようにお考えでしたか。
平野 みなさんはそうでしたよ。 五重の塔や政府館も桜の形にしたり。
――先生ご自身はどうでしたか。
平野 日本なんて、意識されてないでしょ、先生?
岡本 なに?
何をつくるとき?
平野 日本ではじめての万博だから、日本的なものをつくらなきゃ、なんて思いました?
岡本 そんなこと思わない。
平野 あらゆる場合にそこが宇宙の中心だと思ってられるんです。むしろそういう考えでやらなきゃだめなんだってことも、関係者の人たちに吹き込んでました。相対的な価値ではかっていたのでは、魅力なんて出てこないと。
あの塔は岡本太郎そのものなんだ
――「太陽の塔」はすぐあの形に落ち着いたんでしょうか。
岡本 あれしかない。あの場所ではね。
平野 協会からは、何をつくってもいいって言われたんです。ただし条件として、ものすごい魅力のある展示をしなくてはならない。さらに一日何十万人もの人がはいってくるメインゲートなので、その流れをとめるようなものでは困るということでした。
じゃ、真ん中に塔を建てて、地下に展示をして、空中に展示をして、地上は自由に通行できるようにしようと。
テーマゾーンの大屋根は、ずいぶん前から丹下さんがやってらして決まってたんですね。その場所に連れていかれましたら、 大屋根を突き破ってやるって、ぱっとこの形がひらめいたようです。
――いつでもそうなんですか。
平野 いつでもそうなんです。この方は。ここに何かつくってくださいと言われたら、瞬間にそれがひらめくんです。
あのとき、NHKが「太陽の塔」のできるまでというドキュメントをつくってたんですけど、模型には最初から赤い稲妻もついてるんですよ。それからだんだん大きくなったものを想定して、金色のいちばん上の“未来の顔”は、お鍋のふたでこれくらいとかやってました。ただ最初からあまりにもできあがっているので、これだと番組として時間の経過が出ないということで、局の方は困ってられました。
これは、「太陽の塔」の顔をつくってるところです。(写真を見せながら説明)東京の近くでつくってるもんですから、それを運んでいかなきゃなんない。それで鉄骨の枠組みをして、切ってあるんですね。ひとつひとつトラックで運んで、向こうでそれを吊り上げて、とめました。大きなピースですから、吊り上げるときもたいへんおもしろい作業でした。
――ここの写真はどういう作業をなさってるのですか。
平野 このうえに石膏を塗って正確な形にしたのをめがたにとって、それにまた強化プラスティックではりこんでいくんですけど。これは、縮尺の模型があって、それをみながらまちがってないか、手直ししているところですね。
ななめに持ち上がる機械で上げてもらって、全体を遠くから見まして、あそこがちがうとなると、また下げてそこにあがって、なおしにいくわけです。大きくて、一面が白いから、自分がどこにいるのか、わかんなくなっちゃうんですよ。そこで番号を入れてみたり、たいへんでした。”現在の顔”の部分は、原型をつくるときは素材が発砲スチロールだったので、上がるときはゴムのぞうりをはいてるんです。
あのころはまだコンピューターの時代じゃなかったんですよ。 手回しの電子計算機が、東大でも二台か三台しかなかったんです。それもそんなにたくさん使えないので、ほとんどそろばんで解析したんですって。
だから構造計算やるのに、すごく時間がかかったようですね。
ただ「太陽の塔」のあの形がもうちょっとでも、ちがっていたら建築は無理だったかもしれないそうですよ。七〇メートルっていうと、大きなビルみたいなものですから、上の方は、強風が吹いたりしますし、あんまり変わった形だとね。そのぎりぎりのラインでデザインされてるって、建設会社の方たちは驚いてられました。
――私も(佐久間)当時「太陽の塔」に上がりましたが、片方の腕のなかを通って、大屋根にぬけて「母の塔」におりてきますよね。そして「太陽の塔」を中心にもう一方には、「青春の塔」がありました。
平野 ええ、そうです。やっぱり「太陽の塔」は男性のイメージですから。バランスをとる意味であれは三位一体です。 ここにもありますけど(入口に近い天井に「青春の塔」の一部である”濃緑色の深海魚“のレプリカが吊り下がっている)。あれは今も遊園地にあるそうですね。
岡本 何が遊園地にあるって?
平野 「青春の塔」
岡本 「青春の塔」どこにあるの?
――エキスポランドという遊園地に保存されています。
平野 あれはときどき塗り直して、もとのとおりにちゃんとしてあるそうですよ。
岡本 それがないじゃない。ここには。
平野 飛行機だの人間だのいろいろついていたんですが、みんなどこかへ行っちゃって、これしか残っていないんです。
――「太陽の塔」というタイトルは?
平野 はじめは名まえがなかったんです。建築家たちと打ち合わせをしていると、現場の方々が「太郎の塔」「太郎の塔」って言ってるんですね。
――“現在の顔”はむかしから、先生そっくりだなあと思ってました。
平野 そうなんですよ。模型を発表したときも、あまりにも岡本太郎的だと言われたくらいです。 でもなかには、国のお金を使って、国の広場を使って、自分の名まえをつけるとは何ごとぞ、と言う人もいますからね。それで「太陽の塔」という名まえをつけたんです。
岡本 名まえなんてどうでもいいんだよ。名まえはいつもあとからつく。根源から、ぬっとわきあがってくるような、人間像をつくろうとしたんだ。
平野 「太郎の塔」でもよかったんですけどね。
三〇万なければ、できない
――予算の関係でがまんしなくてはならないことはありましたか。
平野 最初は一〇億差し上げますから、絵を一枚描いていただくだけでも結構です、ということだったんです。
パリで民族学も修めてますから、世界中からちゃんとデータをとった民族学の資料を集めたいということになりました。 そしていずれは、民族学博物館にしたいと。それで専門家を世界中に派遣したんです。それにかなりかかったようです。空中には未来都市の展示をしましたし、どんどん予算がふくらんでいくんですね。
スタッフが集まって集約すると、どうしても三倍はかかるんです。それで万博にかかわる財界、政界の方たちに集まってもらって、岡本太郎が展示の説明を一時間ほどしたんです。哲学といい、ディテールといい、みなさん聞き惚れてらっしゃいました。
最後に「これをやるのに、一〇万では足らない。二〇万、いや三〇万なければ、絶対できない」って情熱をこめて力説してるんです。億なんてお金、ご自分のポケットに持ったことないもんだから、最後まで〝万〟とおっしゃってました。みなさんくすくす笑ってらしだけど、あれだけお金のことがわからない方が、あれだけおっしゃるんだからということで、三〇億の予算、ついたんですよ。
ほんとのことを言ってらっしゃるわけですからね、ほんとに思ったことしか言わないんですから。
――「太陽の塔」があのようにすべての世代に受け入れられるということは、あらかじめ予想されていましたか。
岡本 (うなずきながら) 予想なんかしなくても、そういうふうになると思ってた。
平野 予想ってことを、されないんですよ、この方は。予想もしないし、過去のことも思わない。みんな忘れちゃうんですよ。よく、これから先の芸術は?とかたずねられると、予想なんて全然、意味ないと言って、したこともない。だからつくるときは、本当にその瞬間につくるだけ。爆発しちゃうだけですよ。
それにしましても、みんな「太陽の塔」を喜んでくださいました。あのとき多くの子どもたちが「太陽の塔」の絵を描いたんです。あんまり描きようがないと思うんだけど、一〇〇人いたら一〇〇とおりあって、それぞれの自画像みたいでユニークでした。それの展覧会を、とってもおもしろがってらしてね。 いいねーって。
――当時の記録を見ると、美術界などは、はじめ「太陽の塔」に批判的だったそうですね。
平野 ええもう。 万博がはじまるまでは、本当にあれがいいと言ったのは、おそらく石坂泰三さん(元経団連会長、万博協会会長、故人)だけでしょう。本部に詰めてる新聞記者なんかは、「あんな変なもんと思ってましたけど、毎日毎日、真正面に見ているとだんだんよくなってくるから不思議ですね」と言ってました。
でもね、偶然広場に立っていらしたら、年をとったおじいさんとおばあさんが二人手をつないで、やってきたんです。「太陽の塔」をじっと見上げて、「命を質においても、来た甲斐があったねぇ」と。あれがいちばんうれしかったみたいですね。
孤独に生きる「太陽の塔」
――最初の計画では全部とりこわすということが前提にあったそうですが、その後、保存への声が高まり、「太陽の塔」だけは残されることになりました。先生は芸術論のなかで「作品を残す」ことについて、何の考えも持たない。つくった瞬間に作品は自分の手をはなれる、とおっしゃってますが、「太陽の塔」については、残した方がいいとお考えになってましたか。
岡本 そりゃ、残った方がいいでしょうけどもね。最初からこわすという前提だったし、残すってことになるとは思わなかった。
平野 なくなることについて、執着はないようですね。 で、まあ残ることになったら、それは結構だなんて。ですからアイジャック (会期中、「太陽の塔」のてっぺんの目玉に一週間ほどたてこもった“ハンパク”のひとり)のときも「彼につぶされたら、どうしますか」とインタビューされて、「そりゃ、しょうがないよ」って答えてました。つくられたものは、必ずこわれるって……。
――「太陽の塔」を喜ぶ子どもたちが生きている間は残すべきだと、当時書いてられますが、やはり物理的に耐久年数というのはあるのでしょうか。
岡本 それは、塗装とか、手を入れなきゃなんないでしょうけどね。やってくれるというんだけど、いずれきれいになったらいいと思ってます。ずいぶん汚れたし、「太陽の塔」ができたときの色とは変わってしまっている。軀体は大丈夫なんだから、ハゲたとこなんか直して、本当に何年もね、何十年もみんなが喜ぶように、手を加えてもらいたいと、そう思います。
――先生のお仕事のなかで、「太陽の塔」はいちばんですか。
岡本 いちばん大きいですね。あれは人気が出ましたね。
――大屋根を突き破る形でイメージされて、結局大屋根は撤去され、「太陽の塔」だけの姿になっていますが、 大屋根を失った「太陽の塔」というものに対してはいかがでしょうか。
岡本 大屋根を生かすために「太陽の塔」をつくったんですから。でも、なければないで、孤独に立ってるから……。 私としては何とも言えないですね。
平野 それまでは大屋根で首から肩の線も、背中の顔もあんまり見えなかったんです。屋根がなくなったら、すーっと見えて、本当に一人で立ってるって感じになりましたね。ご自分の人間像とだぶって見えて、とても感動されたみたいですよ。
岡本 なにが?
平野 「太陽の塔」が孤独に天と地の間につっ立ってるということ。あのとき何かにお書きになりました。
岡本 そう?全部忘れちゃった。
――先生は「人類の進歩と調和」というテーマに関してずいぶん批判的な考えをお持ちだったとうかがっているんですが。
岡本 そういう噂はあったでしょうね。
つまりモダーンとかねモダニズムっていうのではなくて、そういう時代の精神を超えた、超えてつくるべきだと思って……。
――先生はご自分の作品群のなかで、「太陽の塔」をどのように評価されますか。やはり傑作と……。
岡本 あ、いいですね。
ところがだいぶ汚れてきたんで、塗り直しをしなきゃいけないんで。そう言ってるんだけどなかなか動いてくれないね。
――私たちはどんなかたちであれ、「太陽の塔」があの場にいてほしい、という気持ちなんですが、もしあのまま放置され、風化していくことになるなら、こわしてしまった方がいいと……
岡本 そんなことはない。今のままでもいいけど、できればあれができた瞬間のイメージを生かした方がいいから。電話、長々とかかっているね……(数分前に平野さんが電話に立たれていた)。
(しばらく沈黙のあと、再び)
岡本 いつの時代でも、芸術はその時代にあった、つまりモダンなね、ものをつくるのがアートだと思われているけれど、そういうんじゃない、その時代を超えて、迫ってくるようなね、ものを作りたいと思って。それが私の信念で、昔からの信念ですからね。
芸術家は絶対的に自分を認めさせたい、という意志と同時に、絶対に認められることを拒否するという意志がある。それは反時代精神でもあり、無条件に、無目的に挑む、ノーという情熱なんだ。時代に媚びたようなね、もんじゃないっていうこと。
平野 (先生に向かって) 急ぎの仕事ですよ。
岡本 いまの電話でかい? そういうはなしがあったの?
平野 はい。あとで、報告しますから。
聞き手・熊谷真菜、佐久間文子
構成・熊谷真菜
岡本太郎 オカモト タロウ
生没年:1911-1996
出身国:日本
芸術家、作家。岡本一平(漫画家)、岡本かの子 (歌人・小説家)のひとり息子として、東京、青山に生まれる。1929-40年、パリに留学。超現実主義運動に加わる一方、バタイユらの組織したコレージュ・ド・ソシオロジーに参加。その間、哲学、社会学、民族学も修める。
戦後、日本を代表する現代美術の旗手として、次々と話題作、論評を発表する。
一九七〇年の日本万国博覧会以降、岐阜未来博、筑波科学博などに出展し、「万博男」の異名もあった。著書に『岡本太郎著作集』全9巻(講談社)ほか多数。