茶色い戦争と茶褐色の戦争画

幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました

~ 中原中也「サーカス」より

「アッツ島玉砕」という画がある。日米兵士たちの肉弾戦を描いた凄惨な群像画である。この「アッツ島玉砕」など藤田嗣治つぐはるの描いた戦争画が東京国立近代美術館に14点所蔵されている。このうち、9点は、茶褐色のほぼモノトーンの濃淡で描かれた戦争画である。茶色い戦争の茶色い戦争画である。同じ戦争で、広島と長崎には、アメリカ軍により原子爆弾が落とされ、非戦闘員が多数殺された。広島の高校生たちが被爆体験のあるお年寄りから体験談を聞き取り、それを被爆画という戦争画に仕上げている。「人間襤褸らんるの群れの中に」というタイトルがつけられた画には、爆心地から逃げて来た襤褸(ぼろきれ)のようにされた人々の群像が描かれている。

 ここでいう戦争画とは、直接的な戦闘場面、軍事行動、出征、凱旋の光景に限らず、戦時下の非戦闘員、市民の被害状況まで含む、戦争一般を題材として描かれた戦争記録絵画や戦後の時代に戦争をテーマとして描いた「歴史画」なども含むと理解している。

映画「FOUJITA」

 小栗康平監督作品の映画「FOUJITA」を観た。コンパクトに紹介すると、この映画は、藤田嗣治の伝記映画ではない。小栗康平監督は、「伝記的な再現ではない」(小栗康平『じっとしている唄』)と述べる。藤田嗣治をモデルにしながら、史実の藤田嗣治ではない「FOUJITA」という画家(パリが愛した日本人)の姿を1920年代のパリと1940年代の日本でそれぞれ独立して描く。2つの時代に芸術家たる画家は、何を感じ、何を思ったか。1920年代前半に「ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)」で洋画に面相筆めんそうふで(日本画の絵筆のひとつ。眉毛や鼻の輪郭など細い線を描くときに用いる穂先が細長い筆)を使用したりする日本画の技法やセンスを取り入れた画法で絶賛され、ピカソやモディリアニなどと並んで、時代を代表する画家のひとりとなった藤田の華やかなパリ生活を描く。126分の映画は、ふたつの時代、パリと日本、1939年9月に勃発した第二次世界大戦の戦「前」と戦「中」にほぼ半分に二分される。私が興味を抱いた藤田嗣治の戦争画が取り扱われるのは、1940年代、日本、戦中の方である。

 小栗康平『じっとしている唄』(白水社刊)のうち、「映画の思考」という章には「静けさから」「フランス語の表現」「『FOUJITA』を撮る」「じっとしている唄」が所収されていて、今回の映画「FOUJITA」に関連する文章が掲載されている。

 それによると、映画「FOUJITA」は日仏合作映画。実写映像とデジタル映像、それにセットの積極的な活用。映画自体は、最初からパリのパートと日本のパートを半分ずつにしている。日本は、普遍的な「架空の農村」=「F村」として描かれる。「史実では神奈川県藤野で、相模湖に近い街道筋の細長い村」だという。さらに最上川、山形県の東根市(「巨大なケヤキの木」)。栃木県(「稲を刈り入れるところ」)などのシーンもつなぎ合わせている。デジタル化で、映画は、ちぎり絵のようにして作られていることが判る。1920年代のパリ。「フジタ・ナイト」と呼ばれるどんちゃん騒ぎが、パリ編のハイライト。「映画の中で20年代のパリと40年代の日本とを併置して見る」、「2015年の今を定点として、二つの時代、二つの文化を透視しようとする映画」(『じっとしている唄』より)にしようとしたという。

 日本とフランス。第二次世界大戦前のパリ。敗戦に向けて坂道を転げ落ちて行く日本。国、時代と文化の違いを描くために藤田嗣治ものがたりを、いわばモデルにして架空の世界を描いた、と受け止めるべきだろう。

 藤田は、1933年から39年まで、一旦日本に帰国していたが、アメリカ経由でフランスへ行き、1940年5月、パリがドイツ軍の手に落ちる寸前に再び日本へ帰国する。前の帰国時の1938年に海軍省嘱託画家として中国の戦線取材をしたのに続いて、再帰国後、1942年、陸軍省・海軍省から南太平洋に派遣される。1941年12月、日本はそれまでの日中戦争に加えて、米英などを相手に太平洋戦争に突入する。以後、藤田は、1945年まで戦争画を幾つも描くようになる。1943年、国民総力決戦美術展に「アッツ島玉砕」を出品する。1944年初秋、神奈川県の農村(藤野村)に疎開する。

 映画の後半は、日本のパートがスタートする。「陸軍美術協会のプロパガンダ」である戦意高揚のための絵画を集めた国民総力決戦美術展の青森巡回のシーンが描かれる。会場中央の特別展示が「アッツ島玉砕」だ。入場者たちが手を合わせて画を拝んでいる。画面左側に「脱帽」と書かれた紙が貼ってある。画面右側には国民服の正装で直立不動する藤田が立っている。藤田は、画の前に置かれた箱に人々が賽銭を投げ入れるたびに、敬礼をし、頭を下げている。

「アッツ島玉砕」は、1943年、アリューシャン列島(アメリカ・アラスカ州)にあるアッツ島の日本守備隊が起死回生の夜討ちを仕掛け、アメリカ軍と熾烈な戦いをした挙げ句、玉砕した様子を描いた。海を背にして陸地に向けて攻め込んでいるのがアメリカ軍か。それを向かい撃つのが日本兵か。いずれにせよ、両軍の兵士とも茶褐色の濃淡だけで描き分けられているので、人種などは顔の表情だけでは判りにくい。陸側で抵抗する日本の兵士を軍刀(刀の鐔から日本刀のように見える)で突き刺そうとしている海側の兵士がいる。拳銃の銃口を向ける敵兵に大きく口を開けて叫びながら銃剣のきっ先を向ける海側の兵士。画面中央近くで日本刀を突き出し、内陸部へ攻め入るように号令をかけているのは指揮官か。その右隣で、横たわる敵兵の胸に銃剣を垂直に突きたてようとしている兵士。キリストの「磔刑図」のように両手を水平に伸ばして息絶えている兵士は、画面では上下逆さまに描かれている。多数の兵士たちが折り重なるように幾層も描かれている。死屍累々の遺体もある。細部をきちんと凝視しないと、藤田の意図を十分に理解できないだろう、と思う。仏教の地獄極楽の悲惨な「地獄図」のようだ。そう、これは、宗教画ではないのか。あるいは、ヨーロッパの歴代の宗教画からポーズを借り受けたか。映画では、藤田が戦争画の製作に取り組むようなシーンは、ほとんど描かれない。描かれた絵だけが登場する。

 藤田嗣治の戦争画と言っても、確かに戦意高揚の意図が透けて見える1938年に中国戦線を描いたカラフルな画と1943年以降アメリカ相手の太平洋戦争を描いた茶色から黒に近い茶褐色という暗いモノトーンの色調で描かれた画では、全然印象が違う。先に「アッツ島玉砕」で見たように、南太平洋の戦争画は、戦争をテーマにした歴史画というか、戦争という歴史の事件、物語を描き、まるで人間の極限状況での狂気というテーマの宗教画というか、宗教的な奇蹟を描く、というような作品で、藤田嗣治は、画家としての力量アップを狙ったのだ、と思う。藤田の戦争画製作の隠された狙いは、ドラクロアなどのヨーロッパの歴史画との比肩願望だったのではないか。戦争は歴史そのもの。戦争という歴史を藤田は洋画の歴史画の手法で描いたのだろうか。

 映画には、こういうシーンがあった。青森での巡回展を終えて、関係者と一緒に東京へ向かう夜行列車の中で、藤田の科白。

「あれは会心の作、です。画が人のこころを動かすものだということを、私は初めて目の当たりにしました。今日は忘れがたい日になりました」。

 映画「FOUJITA」が去年(15年)の秋に一般公開されたころ、東京・竹橋の東京国立近代美術館では、戦争画展が開かれていた。「特集藤田嗣治、全所蔵作品展示」ということで、東京国立近代美術館所蔵の藤田嗣治の25点と特別出品の1点が展示され、このうち、藤田の戦争画が14点、初めて一挙展示となった(会期は15年9月半ばから12月半ばまで)ので、私も見に行った。東京国立近代美術館所蔵(戦後アメリカ軍に接収され、その後、無期限貸与という形で日本に「返還」されている)の戦争画のうち、藤田嗣治作品14点は、すべてが「陸・海軍の公式記録画」である、という。

藤田嗣治の戦争画

 藤田の戦争画は、1939年から1945年までに製作された。まず、中国戦線。1938年から39年にかけて描いたのが「南昌飛行場の焼打」。日の丸を付けた双翼の戦闘機2機が南昌飛行場に着陸している。空爆で征圧した場面だろうか。遠景では空中戦の最中だ。前景にクローズアップしたものを精緻に描き、中景を省略して遠景を描く。藤田嗣治は、その後、こういう独特の遠近法で描き続ける。日の丸の赤が目を引く。この赤色は、戦意高揚に役立っているのだろう、と思われる。

 どんよりした空の下、茶色い水面の大河・長江(下流部分は、揚子江という地名が知られている)を征く軍艦の艦隊を描く「武漢進撃」(1938年~40年)。

 ノモンハンの戦闘を描いた「哈爾哈ハルハ河畔之戦闘」(1941年)。中国戦線ものの戦争画は、南太平洋戦線ものの作品とは異なる。青空の下、「哈爾哈ハルハ」の広い草原のような河畔が地平線で青と緑に上下に二分されている。近景では、ソ連の戦車に4人の日本兵士が立ち向かい、止めた戦車の入り口を開けて、ひとりが中の兵士に銃剣を刺しているように見える。遠景では、背後に黒煙がいくつも立ち上り、同じように立ち往生している戦車。立ち向かう日本軍兵士たち。ソ連軍を破った日本軍、というイメージの画だ。

 ところが、この「哈爾哈ハルハ河畔之戦闘」については、興味深い証言がある。日動画廊の長谷川仁証言である。神坂次郎ほか『画家たちの「戦争」』(新潮社刊)には、日動画廊の長谷川仁の証言が『日動画廊の五十年史』から引用されているので、孫引きしたい。今回、私も見た油彩画の「哈爾哈ハルハ河畔之戦闘」(1941年)には、同じテーマながら、別ヴァージョンの作品があるというのだ。

 この別ヴァージョンの作品について、「日動画廊の五十年史」によると、「画面全体をおおうように赤黒い炎が燃えあがっている。その下には、日本兵の死骸が累々と横たわっている。ソ連軍の戦車が、その死骸のうえを冷酷無残に踏みにじりながら通り抜けようとしているではないか。(略) それにしても、この絵は、戦争賛美とは決していいにくいものである。とまどいに言葉を失っている長谷川を見ながら、/「どうだ、傑作だろう、長谷川君」/と藤田は得意気な笑顔を見せて言った。(略)「今は、君たちにはわからないだろうが、これから五十年も経てば、わかるときがある。この絵は、間違いなく博物館ものだよ」(「画家たちの『戦争』」参照)。

 別ヴァージョンがどうなったかは不明のようだが、この証言が事実だとしたら、事実をありのままに描くか、軍の意向に添って、「戦意高揚」「戦争賛美」に協力するつもりか、藤田の中でも葛藤があり、ふたつの「哈爾哈ハルハ河畔之戦闘」は、藤田なりの分岐点だったのだろう、と思われる。

「博物館もの」という藤田嗣治の自己評価については、実際、私は、「五十年」どころか、この画の製作から74年後の2015年になって、初めて藤田嗣治の「戦争画」のひとつである「哈爾哈ハルハ河畔之戦闘」を東京国立近代美術館で見た。それは、まさに「博物館もの」になっている状態で見たのだから、藤田嗣治の予言はピッタリと当たっている。

「十二月八日の真珠湾」は、軍から提供された空撮写真を見て、真珠湾攻撃を描いたという。奇襲を受けて軍艦などから煙や水柱があちこちに立ち上がっているが、水柱や白煙の白い色を除けば、色調は暗い。

「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」(1942年)も、茶色や緑色など暗い色調で戦闘の様子を描いている。近景に兵士たち。遠景はあちこちで煙が上がっている。

「ソロモン海域における米兵の末路」(1943年)は、漂流しているボートに乗せられているのか。横たわっている兵士が多い。波頭が白いほかは、茶褐色に塗り潰されている。南太平洋の戦場を描いたコーナーは、こういう暗い茶褐色の画面ばかりが並んでいて、戦争に対する藤田の真意は、あの茶褐色の色調にこそあると思われる。

すでに触れた「アッツ島玉砕」(1943年)。

「◯◯部隊の死闘 ― ニューギニア戦線」(1943年)は、林の中での死闘。「◯◯部隊」という表記は、ママ。銃剣を使った肉弾戦。「アッツ島玉砕」と似たような筆致で描かれている。地面に突き立てられた剣は、日本刀の鐔とは違う。ここも死屍累々の地獄絵。

「血戦ガダルカナル」(1944年)も、肉弾戦。似たような筆致で茶褐色の色調。中央上部に稲妻が光り、そこだけ明るんでいるのが、まさに宗教画。

「神兵の救出到る」(1944年)は、入り口の扉が開き、銃剣の兵士が入ってきたので、かろうじて明かりが差し込んでいるが、暗い室内でインドネシア人のメイドらしい少女が柱に縛られている。

「大柿部隊の奮戦」(1944年)は、暗い林の中で、近景に少年兵が匍匐している。遠景の密林の中には多数の匍匐前進兵士たち。

「ブキテマの夜戦」(1944年)は、明かりがない、褐色の闇。戦い済んで日は落ちて。戦闘の残骸。

「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)は、茶褐色の墨絵のようだ。女性や子供たちを擁護する男たち。断崖まで逃げ惑ってきて、薄暗闇の中地面に座り込む群像。女性や子どもを守るために追っ手に銃を向ける兵士と思われる男。銃口を口に咥え、足で銃の引き金を引こうとしている兵士。身体中包帯だらけの兵士。座り込んだり、抱き合ったりしている女たちの中には赤ん坊に乳を飲ませる母親もいる。断崖より投身した女性の姿もある。ここには、加害者も被害者も併置されている。

戦争画と宗教画

 美術の専門家の中には、藤田が描いた群像の中に、先行するヨーロッパの歴史画の素材を取り込んだ可能性があるという説がある、という。例えば、「サイパン島同胞臣節を全うす」の群像の中で寄り添うように描かれている3人の女性像は、キリスト教絵画に良く登場する人物群像のポーズを連想させる。もっと直接的にはドラクロアの「民衆を導く自由の女神」のポーズとの類似を指摘する人もいる。藤田の「サイパン島」画の中央に描かれた竹槍を持って立つ女性は、確かに「自由の女神」に似ている、と言えなくもない。

 こうした指摘が正しいとすれば、藤田の戦争画には、江戸時代の歌舞伎狂言の台本を書いた狂言作者のように先行作品を下敷きにしてでもヨーロッパの歴史画、宗教画に比肩してみせるという画家としての強い願望があったのではないのか。

 藤田の戦争画を見ていて、直感的に感じたことは、これは、もしかしたら、殉教画ではないのか、という思いだった。悲愴を悲愴のままに描くことで、極限状況の人間を神聖化する宗教画を目指したのではないか。陸・海軍の要請で戦争画というジャンルに遭遇させられたが、ヨーロッパで評価の高い歴史画、さらに宗教画という大海がそこにあることを密かに感知した藤田嗣治は、まさに「会心の活動目標」を得たのではないか。

 2012年7月放送のNHKの美術番組「極上美の饗宴」に出演した菊畑茂久馬という画家は「藤田は、絵描きの業として、西洋人に匹敵する歴史的名画を描く好機が到来したと思ったのであり、この画はプロパガンダといったものを突き抜けた名画である」と指摘している、というが、私もこの意見に同感する。

 戦後、フランスに帰化した後、カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった藤田嗣治。カトリックの宗教画も描いている。「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と言ったという、藤田嗣治の孤独感。

「薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す」(1945年)は、タイトルは勇ましいが、画面は、これまでの戦争画よりもいちだんと暗い。ほとんど真っ黒に近い。暗闇で手探りの夜襲。「歌舞伎のだんまり(暗闘)」演出もどき。

藤田のサインの謎

 戦後の藤田は、製作当時、画に記入したサインを後に一部変えている。日本語の漢字署名に英語表記のT.Fujita、あるいは、フランス語表記の T. Foujita というサインを追加、あるいは漢字を消して、書き換えをしたり、皇紀2605年を1945などと西暦年号に書き換えたり、あるいは「我身ヲ以テ太平洋ノ防波堤トナラン」という文を消したりした、という。これらは、野見山暁治氏の重大な目撃証言である、という(前掲のNHK番組「極上美の饗宴」より)。

 例えば、「アッツ島玉砕」も、「T.Fujita 1943」となっている。「サイパン島同胞臣節を全うす」は、追加と書き換えがあったのか。「嗣治 T.Fujita 1945」と、漢字とアルファベットのふたつの署名がある。「南昌飛行場の焼打」では、「昭和十三年七月拾八日 嗣治」と縦書きの署名が入っている上に、「Foujita 1938—1939」と、追加されたのか、同じようにふたつの署名がある。「哈爾哈ハルハ河畔之戦闘」では、「昭和拾六年 嗣治謹画」のサインが残されている。「神兵の救出到る」では、「嗣治 2604」というように、名前と皇紀年号のみのサインが、そのままになっている。

 なぜ、藤田嗣治は戦時中に製作した戦争画のサインを書き換えたりしたのだろうか。日本の美術界で、戦後、藤田の戦争責任を問う声が出るとそれを背にして日本を脱出し、生涯日本には帰らなかったのはなぜだろう。戦後、詩集「暗愚小伝」を書き、戦時中の言動を悔いて、苦しみ抜いた高村光太郎に通じるような「疚しさ」ゆえ、サインを書き換えたり、日本脱出をしたりしたのだろうか。それとも、積極的にコスモポリタンへの変身の決意表明だったのだろうか。疚しさだとしたら、サインを書き換えという隠蔽行為は、いかにも稚拙だし、先に見たように隠蔽の不徹底さは、どうだろか。皇紀の年号が一部残っていたり、「謹書」という軍への姿勢とも取れる文言を残したりしているのは、どういうことなのだろう。

 戦時中の高村光太郎は詩人の絶対心として主体的に戦意高揚を狙ったと思うが、藤田嗣治は、時局に追随しながら、密かに画家としての己の力量アップにも利用したのではないか。光太郎は、戦後を生きる日本国の日本人として、戦前の己を悔い改めたけれど、嗣治は悔いずに「日本国の日本人」たることを拒絶し、「コスモポリタンな日本人」を目指していたのではないか。そういう意味では、戦前の藤田嗣治も戦後のレオノール・フジタも合わせて貫く、画家としての太い棒の如きものの存在を藤田嗣治の内面に私は感じる。

広島の高校生たちが描く被爆画

 戦争協力として戦争画を描いた画家たちがいる一方で、丸木位里・俊夫妻の描いた「原爆の図」という「被爆画」、「戦争画」も頭に浮かんで来る。丸木位里・俊夫妻は広島に原爆が投下された直後に位里の両親の住む広島に入り、1ヶ月ほど滞在し、被爆の実況を見て、5年後の1950年から以後30年以上に亘って「原爆の図」を描き続けたことで知られている。

 この系譜に繋がり、今も活動している人たちがいる。広島の高校生たちの試みを紹介したい。高校生たちは原爆の被爆図を描いている、被爆者の体験の聞書きとしての被爆画を描いているのだ、という。広島市立基町高校。創造表現コースの生徒たちだ。美術部の生徒たちが1945年8月6日に広島に落とされた原爆の被害者から被爆体験を聞き、その証言を元に被爆図を描いている、という。高齢ゆえ人数が少なくなってきた被爆体験を証言するお年寄りから何回も話を聞き、何枚も下絵を描き、証言者に見てもらい、下絵を修正する作業を続ける。下絵がオーケーになっても、油絵段階でダメが出されると、何回も描き直す。半年かけて描き続け、証言者が「私の絵」というくらいの作品を完成させる。この絵は、被爆者と高校生の、正に戦争体験の共有化作業であり、体験画の共同製作だろう。高校生たちも画を描くことで、被爆者の体験を再現する過程で被爆体験を追体験することになる。特に、安部政権後の政治の右傾化に対する危機感から、家族など近しい人たちにも話していなかった辛い体験を話し始めたお年寄りもいる。そういうお年寄りにキチンと応えようと真摯に向かい合う高校生や美術部の顧問の先生たち。そこに生まれてくる信頼関係が一枚一枚の被爆画を生み出す。被爆体験、被爆の記憶の継承が画を通じて行われる。その製作過程が芝居になった。

 芝居では、広島市の私立高校の1年生の女子が主人公。被爆体験を持つ祖父母は、その体験を孫の女生徒に伝えようとはしていない。美術部の活動として、その女生徒がお年寄りの被爆体験を画にする活動に応募することにした。初めての被爆体験の聞き取り。見たこともないものを絵にすることの難しさ。その結果、生徒たちはどういう体験をして行くことになるのか。

 美術部の顧問と生徒たちがお年寄りの被爆体験をできるだけ正確に画として残そうと苦労しながら活動を続ける様を芝居にしたのは、青年劇場《創立50周年記念》スタジオ結(YUI)企画第6回公演「あの夏の絵」である。青年劇場の稽古場の舞台を使っての公演で、シンプルな大道具で舞台展開をする。作・演出は福山啓子。2015年12月に公演された。被爆体験を持つお年寄りに何回も話を聞き、何度も描き直しをして画を完成させて行く様が丹念に演じられる。芝居で表現されないのは、高校生たちが完成させた画そのものだけ。ほかの苦労話はきちんと伝わってきた。

 戦争中には、まだ生まれていなかった高校生たちがお年寄りという他者の戦争体験、被爆体験を聞き取り描いた被爆画とは、どういうものだったのか。芝居では、全く表現されなかっただけに、終演後、戴いた被爆画の資料は興味深く拝見したので、それを紹介したい。

被爆画

 広島市の市立基町高校の美術を専門に学ぶ創造表現コースの「次世代と描く原爆の絵」は、被爆体験を継承しようと11年前(04年)から取り組み始めた、という。半年かけて描き上がった作品は、広島平和記念公園資料館に毎年寄贈されている。画は、修学旅行生徒などに被爆者が被爆体験を説明する時に使われる、という。

 最近の高校2年生の女子の作品。「本当に、おとうさん?」というタイトルがついている。原爆が投下された翌日未明、親戚の家に避難していた父親を兄が荷車に乗せて連れ戻った。大火傷を負った父親は生きている人に見えない。体は真っ黒、衣類は何も身につけていない。目は見開いたまま。唇は荒れて柘榴のよう。画を描いた生徒は、証言を聞いただけでは「想像が全くつかず、資料をいくつも見て、何度も描き直しました」という。証言者は「私の願った以上の仕上がりにどれ程ご苦労をかけたことか」と話す。

「重症者を運ぶトラック」は、高校3年生の女子の作品。救護トラックに無理矢理乗り込んだ。同乗していたのは膝の割れたおばあさん、頭の割れたおじいさん。大火傷の私は小さくなってトラックの中で耐えていた。

「爆風で下敷きになり焼かれた軍人の骸骨」は、高校3年生の女子の作品。原爆が落ちたことも知らないまま病室で被爆し、骸骨になってベッドに横たわる将校たち。証言者は通りかかった広島第一陸軍病院第一分院の傍で見た光景を話した。「目に焼きついて、今も忘れられません」という。

 高校3年生の女子の作品。「被爆して避難した河原での出来事」は、目撃者が避難した河原に第十一連隊歩兵隊も避難していた。目撃者の父親が家から持ってきたヤカンの水を兵士たちに飲ませた。対岸では、建物などが燃えていた。横たわる兵士たち。顔に包帯を巻いた将校は地面に軍刀を突いて立ち上がっていた。

 高校2年生の女子の作品。「人間襤褸らんるの群れの中に」。証言者は爆心地方面からボロ布を纏ったような悲惨な姿をした被爆者の大行列に遭遇した。左目が飛び出し眼球を左掌に抱えた青年などがいた。証言者は、その青年になにもしてあげられないので、「寄り添って歩いた」という。画の中には、そういう情景も描かれている。「70年前にこの広島で本当にこのような悲惨なことが起きたのだと衝撃を受けました」と画を描いた女生徒は言う。

「お母さん待って!」は、高校3年生の女子の作品。当時6歳の証言者から話を聞いた。道に横たわっている焼死体を跨ぐことができず、先に焼死体に手を合わせて「通らしてください」と言って、通って行ったお母さんに「待って!」と言った体験を画にしてもらった。黒焦げの遺体を挟んで、離れて立つ母親と少女の姿が描かれている。

 高校3年生の女子の作品。「後に生きる人たちへ」という画は、原爆投下後、全身火傷で両手の皮膚が剥けて垂れ下がっているまま、街を彷徨っている様子が本人の証言で再現されている。証言者から聞いた話のうち、「なるべく事実だけを取り入れて描こうと努力した」という。証言者は、「何度も何度も訂正してもらい、時には熱が入って語気が強くなってしまったこともありました」という。

 祖父の被爆体験を初めて聞いたという高校3年生の女子の作品は、「脳裏から離れないあの子の目」というタイトル。行方の分からない父親を探していて、辛うじて残っていた「福屋」という百貨店の窓際に避難していた少年と目が合った。大きく見開かれた片目が何かを訴えかけて来る。忘れられない眼差し。画を描いた女生徒は「家族でありながら、祖父が原爆について口を開くことがなかった」。「祖父が自分の被爆体験を『語り部』として語り始めたのを見て、その勇気、今伝えなければという意思を感じ、少しでも自分のできることでお手伝いしたいと思い、原爆の絵を製作しました」という。

茶色い戦争を描く~茶褐色の戦争画と被爆画~

 藤田嗣治の戦争画と高校生たちの被爆画について、考察してみたい。

 戦意高揚を描くという「加害」に加えて、加害だけの画ではなく、加害者であり被害者であるという視点で画を描いたのが藤田嗣治だったのではないか。国家が惹き起こした戦争という悲惨な歴史的な事件を描いた藤田は、ヨーロッパに伝わる歴史画の手法、それも犠牲が神聖化されて行く殉教画のような宗教画を描こうとしたのか。エコールドパリ派の代表的な画家の一人になった藤田。歴史に名を残す資格のある画家としてのプライドを胸底深くに隠したまま、国家に貢献するという立場を利用して、藤田は戦争画に取り組んだのではないか。それでも、藤田嗣治の描いた戦争画は、人間の業のようなものに突き当たり、その真相を抉り出したことで、国家や軍隊の思惑を超えて藤田本人の予感通りに永遠に歴史に残った、と言えるだろう。

 一方、高校生たちは、見たこともない歴史の悲惨さを何度も聞き書きしながら画を描き、何度も描き直しをしては、体験者の思いに寄り添うようにして証言者の「事実」を再現させて画を完成させて行ったことで、証言者の胸に秘められていた光景を改めて可視化させた、と言えるだろう。藤田嗣治の戦争協力を咎めるよりも、戦争画という絵画の中に秘められた光景を70年以上も前に可視化させた画家の力の凄さ、ということで改めて藤田嗣治の戦争画を見つめ直してみるべきだろうと思った。藤田嗣治の戦争画は全点が、いつでも見ることが出来るように、東京国立近代美術館で常時公開すべきではないのか。