田尻宗昭さんとは、東京都の知事が、美濃部亮吉知事の時代(1967年~79年)、所謂「美濃部都政」として世間から注目されているときに、私がNHKの都政担当記者になり、公害局担当になったことから知り合った。1976年のことだから、34年前のことになる。
私が都政担当になる前から、東京の下町を中心に工場から廃棄された6価クロム鉱滓が各地に棄てられているのが住民の告発で明るみに出て、東京都が、その対応に追われているときであった。マスコミも注目し、全国的なニュースとして、大きく取り上げられていた。東京都公害局の部長であった田尻さんは、熱心に現場に通って、脚を悪くされてしまったほどだ。寒い時期も、小太りで、小柄な体をよれよれのコートに包んで、何度も何度も、現場に立ち戻るので、当時テレビで人気のあった海外ドラマ「刑事コロンボ」の熱心な捜査官のコロンボ刑事になぞらえて、「コロンボ部長」とあだ名されていた。公害摘発の解決策は、現場にあり、というのが、田尻さんの哲学であった。マスコミでは、もう、死語同然になってしまったが、「公害Gメン」ということばも、田尻さんに捧げられていた。
田尻さんは、元々、海の男であった。電子文藝館に掲載されている略歴を引用してみよう。公害Gメン、元海上保安官。1928(昭和3)年~1990(平成2)年。福岡市生まれ。高等商船学校卒。海上保安庁に入り、四日市海上保安部警備救難課長などをへて退職後、東京都公害局規制部長などを歴任。公害Gメンとして企業の工場排水垂れ流し事件を摘発、環境破壊としてはじめて刑事責任を追及した。環境破壊や労働災害運動と交流しながら、異色の役人として現場からの摘発にあたった。
商船学校を卒業し、海上保安官になり、海一筋で生きて来たが、海上保安官時代から異色であり、海上保安庁を退職したのをきっかけに、美濃部知事が、革新都政の公害摘発に力を発揮してもらおうと、東京都入りを要請した結果、海から陸に上がる人生に切り替えたのだ。
私は、職場ばかりでなく、私事でも、田尻さんと馬があったのか、勤務後の田尻さんとも会い、良く話を聞きに行った。肝心の6価クロム鉱滓関連の取材ばかりでなく、海上保安官時代の話も、良く聞いた。保安官時代では、九州と韓国の間の公海上に設定された「李(承晩)ライン」(1952年~65年、日韓間の公海上に、当時の韓国李承晩大統領が、一方的に軍事境界線を引き、そのラインを越えて操業する日本漁船を拿捕していた)で、日本漁船が、拿捕されないように警備した頃の話は、海の男らしい田尻さんの面目躍如の、お得意な話であった。そして、三重県の四日市港での、複数の公害企業による工場廃液の垂れ流し事件の刑事告発の話なども、微に入り細に入り聞いた記憶がある。海上保安官たちが、高校の化学の教科書を片手に、硫酸などの初歩的な知識を学びながら、もう片手に、法律書を持って、取り締まるべき法律を港則法と定めるなど、苦労したことなど。田尻さんは、独特の、まさに、田尻節と言うべき語り口調で、話されるから、話に躍動感が籠り、同じ話を聞いていても、飽きなかった。
その語り口調を岩波新書の編集部の編集者も生かすべきだと思ったのだろう。その後、田尻さんが書いた本は、語り口調を生かした文体で仕上げられた。主な著作としては、『四日市 死の海と闘う』、『公害摘発最前線』、『海と乱開発』などがあるが、電子文藝館では、中学生向けに判り易く書かれた『羅針盤のない歩み 現場に立って考える』(1985年「東研出版」刊)という田尻さんの自叙伝的な作品を取り上げた。そこから、『四日市 死の海と闘う』、『公害摘発最前線』などでも取り上げられている四日市の公害企業を刑事告発した部分「公害企業摘発の決意」を掲載した。
この事件は、後に、公害企業の刑事責任を問う判決を引き出したが、NHK社会部の都政担当記者から公害問題担当の遊軍記者になり、全国の公害の現場の取材に飛び回っていた私も、三重県津市の津地方裁判所の判決取材の一員として出向いて、判決直後の田尻さんをNHKの中継テント小屋に導く役割をしていて、田尻さんと共に移動しているところを、他社のカメラマンに写真を撮られて新聞の紙面を飾ることになってしまったというエピソードもあるが、それは、余計なこと。
電子文藝館掲載の「公害企業摘発の決意」には、そういう田尻節の語りを生かした文体で、苦境になると燃えて来るとばかりに、ものごとに情熱的に当たりながら生き続けたある人生の軌跡が、若い人たちにも判り易いように書かれているので、是非とも、読んで頂きたいと思う。