口上
21世紀。新世紀、歌舞伎界は、中村歌右衛門を失った。市村羽左衛門を失った。ふたりは、立女形であり、立役の重鎮であり、何より、20世紀後半の歌舞伎界の屋台骨を背負ってきた。十代目坂東三津五郎の襲名披露の舞台で明けた21世紀、初年の歌舞伎の舞台。そのすべての舞台を観たわけではないが、それでも、地方巡業を含めて、いくつかの舞台を拝見し、私の個人電子マガジン「遠眼鏡戯場観察」として毎月連載した。そこに描かれた歌舞伎の舞台の数々。ときに、人形浄瑠璃の舞台も混じる。
歌舞伎は、男たちの演じる演劇だ。男たちが、女を演じる。元々、そこには、日常性から乖離した非常の世界が出現することになる。江戸時代の庶民たちは、そういう「非常の世界」を求めて、芝居小屋の「鼠木戸」(出入り口)を潜った。
男が、女たちを演じるというだけで、日常の世界が「傾く」。これを「かぶく」と読む。「かぶく」世界は、その非日常性故に、日常性から見れば、過激である。男が女を演じ、さらに、女の狂気を演じる。そこには、いわば、「『かぶく』の自乗」とも言うべき世界が、出現するはずである。歌舞伎の「過激度」(これを、私は「歌舞伎味」とも言っている)を見るには、「狂気」がテーマとなる演目の、舞台の出来具合を測るのが、いちばんである。「歌舞伎」とは、本来、「傾く」という言葉の当て字である。だから、私は、「かぶく」=「カゲキ(過激)」という関係を重視する。つまり、カゲキな歌舞伎とは、生来的な、かぶく歌舞伎の謂いだからである。
この1年の舞台から、通常の「劇評」とは、ひと味違う「歌舞伎観察」のまとめをしてみたい。そこで、「仮名手本忠臣蔵」、「伽羅先代萩」、「摂州合邦辻」という3つの舞台を選び、「女性」、「子ども」、「狂気」という視点で、舞台をクローズアップし、男(役者)たちの日常性から遠い舞台を、男たちが、どう演じたか、「新世紀カゲキ歌舞伎」と題して、記録してみた。
序幕 女たちの「愛の忠臣蔵」~死なれて・死なせて~
浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に斬り掛かったのは、18世紀が始まったばかりの新世紀初頭(1701年)であった。あれから、3世紀。21世紀の初頭を飾る「忠臣蔵」通し上演は、新橋演舞場と歌舞伎座の両方を使うという異例の興行だった。こうして、「通し」で見ると、死んで行く男たちのドラマとして知られる「忠臣蔵」の陰で、生き残った女たちの愛のドラマが浮かび上がってくる。死なれて・死なせて。女たちの「愛の忠臣蔵」。
まず、「落人(「道行旅路花聟」)」の道行では、お軽が軽やかに踊っている。「勤め」という男の世界をしくじった勘平には、心の揺れがある。お軽は、そんな勘平を絶えず気遣っているのが判る。この舞台でも、勘平(新之助)につきそうお軽(菊之助)が良い。新之助の勘平は、六段目のような「色に耽ったばっかりに、大事の場所にもおりあわさず」などと、分別臭いことを言うようには見えない。颯爽とした青春まっただなかの勘平である。それだけに、「青春の蹉跌」の虚ろさが感じられる。そういう不安定期の青年のありようを、このところ充実の新之助はしっかりと演じていた。また、菊之助のお軽は、この時期特有の女性の早熟さ(=「姐さん性」)を滲ませながら、道行途上の頼り無い青年への気遣いを感じさせていて、ときにリーダーシップを発揮したりして、失意のあまり、自殺しかねない恋人への気遣いをみせたりしながら、「恋人の愛」を感じ取ることができる演技をしていた。良いお軽だ。
勘平も、伴内が出てくると、恋人に良い所を見せようと、強くなるところに初な青年らしさがある。最後に、花道から伴内へ声をかける勘平の「馬鹿めぇー」は、河内山宗俊や籠を背負った石川五右衛門(宙乗り)の「馬鹿めぇー」のように、カタルシス(観客も重苦しさが続いた舞台や日常生活の鬱陶しさに対して、「ふうっ」と息を吐く)がある。さて、今回、伴内役の十蔵がよい味を出していた。「千本桜」の静御前と狐・忠信の道行にしろ、この道行にしろ、基本的には、男女の道行を邪魔立てする滑稽男の藤太や伴内の登場の場面は、江戸の庶民のお気に入りの場面だろう。テキストの深刻さより、見た目の華やかさ、特に花四天のからみによる「所作立て」(所作事のなかの立ち回り)は、何回観ても飽きない。長い演目の息抜きとして、あるいは、「みどり狂言」として単発演目として、それぞれ如何様にも愉しめるというメリットがあるからだろう。
舞台が廻る。廻って、廻って、「忠臣蔵」は、実に廻り舞台の機能をフルに回転させる。浅葱幕の振り落としといい、廻り舞台といい、大道具の機能の魅力をよく知っている。「六段目」与市兵衛内、主な役者の顔ぶれが出揃う。勘平(菊五郎)、お軽(菊之助)、お才(芝雀)、源六(松助)、おかや(田之助)。いずれも理想的な配役だ。私が、3回観た舞台のなかで、今回がいちばんしっくりする。「六段目」では、「妻の愛」。お軽とおかやという、ふたりの妻の夫への愛情ぶりが描かれる。
茶の着物に菊五郎格子の継ぎ当て。勘平が戻って来た。家のなかに源六やお才という見知らぬ人たちがいる。2度繰り返される勘平の「あのお方は?」という問答で、観客の笑いを誘う。悲劇の前に笑劇という定番通りの展開。鴬色の洒落た着付けに替わる勘平。紫の着付けに黒い帯というお軽の洒落たレベルにあわせる。この場面、登場人物のほとんどが灰色のようなくすんだモノトーンの衣裳のなかで、鴬色の勘平と紫色のおかるの衣裳は、印象的だ。色彩で歌舞伎がふたりをクローズアップしているのが判る。お軽は、「道行」の初々しさが消え、猟師・勘平の妻としての落ち着きもあり、日常化した夫への愛情もあり、夫への献身ぶりが伺える。
田之助のおかやが良い。夫・与市兵衛の遺体(「五段目」は、佳緑だが、「六段目」は、筋書に名前がない。戸板で運ばれたまま、最後まで動かない。遺体だから、当たり前か)を相手に夫への愛情溢れる演技、それと対照的に誤解に基づく勘平への憎しみを率直にぶつける巧さ。それゆえに、後の場面で、死に行く勘平が「疑いは晴れましたか」とさらっという台詞が生きてくる。日本芸術院賞受賞の田之助の周到の演技が光る。
勘平は、「色に耽ったばっかりに、大事の場所にも居り合わさず」という歌舞伎独特の名台詞(もともとの人形浄瑠璃にはない。三代目尾上菊五郎の「入れごと」)を七代目らしい菊五郎節で、たっぷり。菊五郎は、判官役に続く、この日の舞台、二度目の切腹の場面。
「七段目」。一力茶屋の前半は、「忠臣蔵」全十一段のなかで、最も華やかな舞台。團十郎が貫禄の由良之助。捌き役(特に、「四段目」)でありながら、華のある一力茶屋の由良之助。この場面の由良之助が、2回とも幸四郎だったので、團十郎の由良之助は、なんとも良い。「一力茶屋の由良之助」は、華のなかにも捌き役が透けて見えなければならない。由良之助の「二重性」。そうなると、これを表現できるのは、当代では、團十郎、吉右衛門、仁左衛門あたりだろう。吉右衛門は、何故か、13年前から本興行では演じていない(「四段目」の由良之助は、演じている)。仁左衛門は、おととし、大阪・松竹座で演じているが、私は観ていない。ふたりの由良之助を観てみたい。
夫・勘平の、その後の悲劇は知らないまま、夫のためにと、遊廓に身を売ったお軽。悲劇を知るのは、色っぽい遊女として一力茶屋に馴染んでからだ。二階のお軽。梯子で降りてくるときの、「船玉さま」問答。エロチックな問答では、玉三郎のお軽がいちばん色っぽかった。「ええ、覗かんすな」と言って幸四郎の由良之助を睨んだ玉三郎の台詞が、今回の菊之助は「そんなこと言わしゃんすな」に替わっていたが、ここは、本来通り、玉三郎の台詞の方が良い。ここも、お軽の、その後に来る悲劇の前の笑劇の台詞だからだ。観客の笑いを呼んでおいて、後の悲劇を際立たせると言う作者の工夫魂胆を大事にしたい(人形浄瑠璃の場合も、同様の台詞があるが、エロチックな会話で会場を湧かせている間に、お軽の人形遣いは、人形を梯子に載せたまま、裏を廻って、上手から平舞台に出てくる。そういう工夫魂胆の仕掛けが、実は、この台詞には隠されている)。
兄・平右衛門に夫の最後の様子を知らされると、「遊女」お軽には、勘平という「見えぬ遺体」に対して「妻」お軽としての想像力が沸き上がる。それは、狂おしいまでの夫への愛の表現として菊之助から迸る。遊女の色っぽさの下に隠された夫への親愛。 お軽の「二重性」。菊之助は、立女形・雀右衛門、玉三郎、福助に次ぐ、堂々のお軽であったと思う。平右衛門(辰之助)が、悲劇の告白では、竹本の三味線「チンチンべンベン」の執拗な繰り返しの糸に合わせて熱演。三味線も平右衛門の動きに合わせる。演技と音の止揚する効果。
「大序から十一段目」が、新橋演舞場なら、「八段目・九段目」は、歌舞伎座。十四代目守田勘弥二十七回忌追善興行だけあって、いずれも養子の玉三郎が中心の舞台。初役・戸無瀬の玉三郎も期待に応えての熱演で見応えがあった。まず、「八段目・道行旅路の嫁入」では、母・戸無瀬(玉三郎)、娘・小浪(勘太郎)。舞台は、竹本が「文楽座出演」という人形浄瑠璃の演出を真似たもので、出語り。背景も、いつもの富士山のある野遠見ではなく、大きな松の松並木が全面を覆っている(人形なら、松並木がより大きく見えるだろう)。暫く「置き浄瑠璃」で、舞台は、無人。やがて、松並木の書割りが、上下にふたつに割れて引き込まれ、富士山が真ん中にある、いつもの遠見になる。普通、ふたりは下手から上手に道行をする体だが、今回は、舞台奥から観客席に向かって道行という体。奴も絡まず、人形浄瑠璃の演出を大事にしていると観た。
「八段目・道行旅路の嫁入」の舞台は、2回目の拝見。「景事」と呼ばれる道行の所作事だが、忠臣蔵通し上演のときには、お軽・勘平の「落人(「道行旅路花聟」)」に押されて、上演されないが、今回も通し上演の新橋演舞場の舞台からははずされている。悲劇の母娘の道行で、私はこちらの方が好きだが・・・。前回は、芝翫の戸無瀬と今回同様、勘太郎の小浪。5年前の舞台だから、勘太郎は、まだ、14歳の中学生だった。祖父と孫の「共」演ということで、祖父の芝翫の孫への気遣いが感じられる舞台で、微笑ましかった。
以来、5年、勘太郎も、ことしの10月には20歳人間近の花形役者に成長してきた。今回は、祖父との「共」演ではなく、先輩・玉三郎との「競」演。玉三郎が軽やかに、雲の上を歩んでいるように踊るのに比べて、勘太郎は、所作が重い。特に、後ろ姿が固くて、重い。玉三郎のように軽やかに踊るためには、あと20~30年ぐらいかかるのかな。今後の精進を期待したい。「八段目」、「九段目」では、小浪に対する母・戸無瀬(玉三郎)の娘への愛が描かれ、義母となる大星お石(勘九郎)の一日限りの嫁への愛が描かれる。「道行旅路の嫁入」では、玉三郎が娘との長旅を気遣う所作が良い。柔軟さを感じさせる玉三郎の所作のなかに、玉三郎は、強靱な母の愛を滲ませる。それは、「九段目」への伏線だ。
背景の遠見が、富士山が見える街道筋から、雲か霧に霞む住家のある城下町の高台、鈴鹿の石場の遠見、最後は、琵琶湖の見える大津までと、いつもより細やかな演出。さらに、花道からは、大星由良之助の山科閑居の場へ道を急ぐふたり。
「九段目・山科閑居」。舞台下手に木戸。これは、人形浄瑠璃の大道具とは逆。去年の国立劇場、人形浄瑠璃での忠臣蔵通し上演では、九段目を前に、七段目の一力茶屋から由良之助が帰ってくる「雪こかし」を観た後、九段目になった。そのときは、木戸が上手にあった。舞台は、下手に竹林があり、竹林の向こうは雪の原、遠くに雪山という遠見。大星宅には、いつもの漢詩の襖。襖の上の鴨居には槍が懸かっている。舞台は、暫く無人で、雪が降っている。いつもの竹本の出語り。
戸無瀬(玉三郎)が駕籠の一行に付き添って花道を出てくる。傘、駕籠、従者の笠や衣装、荷にそれぞれ雪が積もっている。遠くから来たのだろう。大星宅を探し当て、案内を乞う。下女・りん(松之丞)が剽軽な味の「チャリ」(滑稽味)で深刻な芝居の出で、笑いをとり、場内を和ませる。歌舞伎は、意外とバランスをとる演劇だ。笑わせた後の方が、悲劇性が高まるのを知っている。戸無瀬の傘の雪は、白布で、傘を畳むと、さあっと一気に落ちた。荷の上に積もっていた雪は、厚めの綿。これも、蓋を開けると、同じように、さあっと落ちた。やがて、駕籠のなかから白無垢の花嫁衣装の小浪(勘太郎)が出てくる。
「山科閑居」の前半は、まさに、「女の忠臣蔵」。女形たちの芝居が見所。悲劇の母を玉三郎は、細部まできちんと演じている。踊りが重かった勘太郎は悲劇の娘・小浪を白無垢姿でゆるりと演じていて、初々しい。小浪と力弥の結婚を目指して「熱演」する戸無瀬。打ち掛けの下は赤い衣装。由良之助女房・お石を勘九郎は、初役ながら過不足無く丹念に演じる。こちらも、この結婚問題に対する婿の母、大望を隠す由良之助の妻という二重の立場で「芝居」をする。灰色の衣装。後に、黒の衣装に替わる。建前と本音の、女の芝居が衝突する場面だ。白無垢の娘に対して、嫁入りに命をかける赤い衣裳の母、灰色から、後に黒に着替える義母は、娘を一夜限りの嫁にしないよう冷たくあしらう。そういうふたりの母の思いを歌舞伎は、色彩感覚でズバリと表現して、緩怠がない。
歌舞伎座、この月の勘九郎は、愛嬌のある藤娘、味のある老け役・平作、女の捌き役ともいうべきお石と、いずれも初役ながら素晴らしい演技で、見応えがあった。見所の力弥との祝言を断られた戸無瀬が、小浪の首を持ってきた刀で斬ろうとする場面。このとき、上手の障子の内から「ご無用」の声が掛かる。勘九郎の声が二度響く。凛と響き、ふたりの母の愛がひとつになる。ふたりの母の、その「共感」が、観客の共感に繋がる。後は、「九段目」後半、男たちの「友情」のドラマに引き継がれるが、それは、この論考の目的ではない。
このあたり、「仮名手本忠臣蔵」の3人の合作者のひとり、並木宗輔の顔が、江戸の闇のなかから浮かび上がってくる。さまざまな並木宗輔作品に共通する、彼の「母の愛」思想が伺える。そういう運命の大浪に揉まれながらも、小浪は、力弥(孝太郎)への初々しい愛を表現する。死なれて、死なせて。死んで行く男たちの潔さより、生き残る女たちの苦悩。並木宗輔は、きっと、そういうメッセージを、こうした女たちの愛の表現に滲ませたと、私は思う。
(2001年、3月・新橋演舞場、歌舞伎座)
二幕目 「子どもたちの先代萩」~ひもじゅうても、ひもじゅうない~
歌舞伎の舞台で、これまでに「伽羅先代萩」を5回拝見した。その末に、私に観えて来たもの。それは、「子どもたちの先代萩」というテーマであった。二幕目「足利家奥殿の場」、いわゆる「飯焚き」の場面では、鶴千代役と千松役の、ふたりの子役が、主役だ。千松が、「お腹がすいてもひもじゅうない」と言う。今回は、橋本勝也。この子役が、なかなか芸達者で、巧い。この台詞で、客席から拍手が来た。足利鶴千代の身替わりに千松が、母で、鶴千代乳母の政岡の命に応じて、「飯焚き」から食事までに再三、毒味をする場面がある。
まず、1)お湯の毒味。次いで、2)生の米の毒味(これは、庭に来た雀の役目。親子の雀は、「飯焚き」を先取りして、なぞるという効果がある)。3)炊きあがった握り飯の毒味。4)栄御前が、持って来た毒入りの菓子の毒味(これを食べて、苦しみ出す千松は、八汐に、何度も刃物で抉られて殺されてしまう)。冷たい表情で、幼子を殺す八汐。母として、我が子・千松の命を助けたいのだが、若君の乳母という立場で、お家大事という思いから、母の愛情を胸中深く押し込める政岡。八汐の刃物で身体を抉られる度に「あー」「あー」と切な気に声を出す千松。それを厳しい表情を変えずに耐える政岡。屈指の名場面である。母の愛情とは、厳しいものであるというメッセージが伝わって来る。
こういう畳み掛けるように、叮嚀に子どもの死までの道筋を描くのは、大人たちのお家騒動の陰で、命を落とす子どもの悲劇を強調し、客席の涙を、これでもか、これでもかと誘う作者の演出意図があることは、間違いない。その上で、私には、大人=武家社会、子ども=庶民の社会という、構造もダブらせて、武家社会に対する庶民の批判が隠されていると思う。
「伽羅先代萩」は、もともと伊達騒動という実際にあったお家乗っ取りの事件を素材にした先行する人形浄瑠璃や歌舞伎の狂言の名場面を集めて集大成した演目だ。同じ10月、国立劇場で上演した「殿下茶屋聚」の作者・奈河亀輔らが1777(安永6)年に合作した「伽羅先代萩」。それを改作した人形浄瑠璃。翌、1778年に桜田治助が書いた書き換え狂言「伊達競阿国戯場」をアレンジしたものが、現在は、「伽羅先代萩」という外題で上演されている。それだけに、この演目に携わった作者たちの「思想」としての武家批判が、「子どもたちを先代萩」という形で、象徴されているように私には、思える。
もう一度、足利家の奥殿の舞台を覗いてみよう。足利幕府管領山名宗全の奥方・栄御前(田之助)の登場である。山名宗全(芦燕)こそが、お家騒動の黒幕。仁木弾正(仁左衛門)と 八汐(團十郎)の兄妹は、山名の意を受けて暗躍しているに過ぎない。政岡(玉三郎)は、八汐、沖の井(秀太郎)、松島(孝太郎)とともに、栄御前を迎える。
全員が居所に着いたとき、私の眼に飛び込んで来たものがある。それは、豪華な打ち掛けの裏地である。政岡を含めて、ほとんどの裏地が、赤なのに、八汐と栄御前の裏地が、白なのだ。悪の暗躍グループが、白。善のグループが、赤。これは、源平合戦以来の、赤旗・白旗、つまり、「紅白合戦」ではないか。色彩による善悪の区分け。赤面の役者は、悪役という歌舞伎の決まりがあるが、そういう歌舞伎独特の善悪を色彩で区分けする手法が、この場面でも使われているのではないか。そういう決まり事は、いまの私たちには不明でも、江戸時代の庶民たちには、極く常識的な知恵だったのではないか。もし、私の思いつきが正解なら、歌舞伎の小屋に詰め掛ける庶民たちは、赤勝て、白勝てというような運動会の気分で、ものを食べたり、飲んだりしながら、武家社会のお家騒動の舞台を見物していたのではないか。
我が子・千松が殺される場面で、表情を変えなかった政岡を誤解して、栄御前は政岡を味方と思い込み、皆を下がらせた後、一人残った政岡に秘密を打ち明ける。政岡の策略で千松と鶴千代を入れ替えていたため、殺されたのは千松ではなく、鶴千代だったのではないかと思い込んだのだ。そして、一味の連判状を政岡に預けて、満足そうに帰って行く栄御前。花道を去る田之助の笑みが、そういう思い込みの激しい栄御前の性格を巧く演じていた。一方、それを見送る政岡の表情の厳しさ。玉三郎の眼の鋭さ。私が観た6年前の舞台より、充実した玉三郎の演技の象徴は、このときの、この眼の鋭さにあると感じた。
栄御前が向う「揚幕」ならぬ「襖」(この場合、花道は、長い廊下なのである。だから、いつもの揚幕の代わりに襖が取り付けられている)のなかに消えると、途端に表情が崩れ、我が子・千松を殺された母の激情が迸る(巧くなったぞ、玉三郎)。誰もいなくなった奥殿には、千松の遺体が横たわっている。堪えに堪えていた母の愛情が、政岡を突き動かす名場面である。打ち掛けを千松の遺体に掛ける政岡。打ち掛けを脱いだ後の、真っ赤な衣装は、我が子を救えなかった母親の血の叫びを現しているのだろう。このあたりの歌舞伎の色彩感覚も見事だ。「三千世界に子を持った親の心は皆ひとつ」という「くどき」の名台詞に、「胴欲非道な母親がまたと一人あるものか」と竹本が、追い掛け、畳み掛け、観客の涙を搾り取る。
そして、企み発覚を悟り、連判状を取りかえそうとした八汐が、政岡に斬り掛かると、政岡は、その刃物を奪い取って八汐の胸をぐりぐりと抉る。子の仇を取る母親。多分、江戸の庶民は、千松の仕返しの「ぐりぐり」を、もっとやれ、とばかりに声を掛け、積もり積もった溜飲を下げていたのではないか。引っぱりの見得で大団円。残酷美を絵に描いたような幕切れ。この後の「問注所」の場面は、一転して、男の「対決」の舞台だ。
「伽羅先代萩」の舞台を観るのは、5回目。95年10月の歌舞伎座が初見。政岡は、今回同様、玉三郎であった。ほかの政岡は、99年11月が菊五郎、98年8月が福助、96年10月が雀右衛門、いずれも歌舞伎座である。4人の政岡。凄みがあったのは、今回の玉三郎。前回、政岡初演の玉三郎だったが、今回は、特に充実していた。6年間の蓄積が滲み出ている舞台だ。雀右衛門の政岡は、円熟。菊五郎は、重厚。福助は、初役で、これからの精進を見届けたいという感じだった。
一方、憎まれ役の八汐は、3人。今回の八汐は、團十郎だったが、團十郎の八汐は、2回目、いずれも、玉三郎の政岡を相手にしている。印象に残る八汐は、何といっても、仁左衛門。孝夫時代と襲名後の2回拝見。相手の政岡は、菊五郎、雀右衛門であった。八汐は、性根から悪人という女性だが、そういう不敵な本性をいちばん現していたのが、仁左衛門の演技であった。この人は、藝に華もあるが、凄みもある。そういう意味で、希有な役者だ。もうひとりの 八汐は、勘九郎で、相手の政岡は、福助。
母の愛の政岡、悪の化身の八汐。ふたりの女性のダイナミズムが、「子どもたちの先代萩」の子どもをクローズアップさせている。
(2001年、10月・歌舞伎座)
三幕目 「狂気の演じ方」~「連続と断絶」あるいは「蓄積と飛躍」~
前回、「摂州合邦辻」の玉手御前は、芝翫であった。この舞台について、拙著「ゆるりと 江戸へ~遠眼鏡戯場観察~」のなかで、こう書いている。
「この時は、西の桟敷席と花道の間の、縦に細長い座席群の後で、花道の横の席であった。花道の両脇に埋め込まれたライトに明かりが点いた。『さあ芝翫が出てくるぞ』私は後を振り向いた。近くの席の誰もまだ後を振り向いたりなどしていない。『鳥屋』と呼ばれる花道へ出るための溜まり部屋の揚幕がサッと開かれた。鳥屋にいる、いわば花道への出を待つ芝翫の姿が目に入ったっばかりではない。すっかり玉手御前になりきっている、異様な表情の芝翫と視線が合ってしまった。その異様な表情に負けた私は一瞬目をそらしてしまったが、役になりきっている芝翫はそろそろと近付いてくる。若い継母で継嗣の俊徳丸と恋仲になっているという異常な人間関係が展開するドラマの始まりである。玉手御前の芝翫は虚ろな足取りで花道を左右にヨロヨロしながら私のすぐ横を通り過ぎ、本舞台に近付いて行く」。
本では活字になるので、通称「どぶ」と呼ばれる座席群(1等席)の、俗称を使わなかった。前回は「どぶ」の最後の列の上手側、「よ・36」(歌舞伎座は、最前列から「いろは」順)の席だった。後は、江戸時代なら「なかの歩み」と呼ばれた通路で、歌舞伎座の場合、1等席と2等席の境である。今回は、「を・38」の席だから、前回より3列前の、2つ下手に寄った席で、まあ、ほぼ前回同様のポジションなので、前回と同様のことを観ようと、私は待ち構えていた。
ライトが点いた。花道の、このライトをフットライトという。花道を歩く役者の足元を照らすと言うわけだ。前回は芝翫が出てくるぞと、思っていたら、いきなり玉手御前と遭遇して、吃驚したわけだが、今回は、どうか。私は、後を振り向いた。鳥屋の揚幕がサッと開かれた。だが、鳥屋のなかは、見えない。暫くして役者が出て来た。
玉手御前か、菊五郎か。
「菊五郎が出てきた」。異様な表情でもなかっった。いつもの菊五郎の視線であった。菊五郎の玉手御前は、「虚ろな足取りで花道を左右にヨロヨロ」せず、颯爽とした足取りで、私の近くの「横を通り過ぎ、本舞台に近付いて行く」ではないか。いやあ、違うんじゃないの菊五郎さん、と私は心のなかで叫んでいた。
引きちぎった片袖を頭巾代わりにした玉手御前は、竹本の「しんしんたる夜の道、恋の道には暗からねど、気は烏羽玉の玉手御前、俊徳丸の御行衛、尋ねかねつつ人目をば、忍び兼ねたる頬冠り」とあるように、暗い夜道を烏の羽のような暗い気持ちで人目を忍んで、そっと歩いてくる場面ではないか。菊五郎は、10年前にも玉手御前を演じている。菊五郎は、「僕は玉手は俊徳丸に本当に惚れていて、それだからこそ自分の命を捨てて助けたと思ってるんです」と語っているが、まあ、いろいろ解釈ができる演目だから、どう工夫して演じても良いわけだけれど、「物語」の伝えるイメージを思えば、私は10年ぶりに玉手御前を演じた菊五郎よりも、5年前に初役で演じた芝翫の方が、この場面は正解なような気がする。
花道の出という短い場面だけで、長いこと語り過ぎたかも知れない。先を急ごう。いつものように、劇場内でメモした記録を元にウオッチングを辿りたい。大坂天王寺西門にある合邦道心(團十郎)の庵室。道心の妻・おとく(田之助)が、講中の人たちを招いて、玉手御前こと娘・辻が継嗣の息子・俊徳丸に邪恋をしかけ、殺されたと思っているので、亡き娘の回向をしてもらっている。講中の人たちとのやり取り、講中の人たちを木戸から送り出す場面という、なんらドラマチックではない場面だが、ここの田之助が良い。亡くなったと思っている娘への心遣いが、所作の端々に出ているように私には観えた。田之助は、足が悪いが、そういう身体的なハンディキャップさえ、おとくその人のハンディキャップのように自然で、リアリティが感じられた。木戸を閉めて座敷に上がる場面で、偶然、脱ぎ捨てた草履が乱れたが、そういう場面さえ、自然に娘への思いの乱れのための計算された演技のように観えた。
合邦道心の團十郎も、私が観た前回の舞台の羽左衛門と比べてしまう。当代の歌舞伎界の芯になる菊五郎と團十郎だが、私の眼には、菊五郎より芝翫が良く映ったように、團十郎より羽左衛門が良く映った。合邦は難しい役だ。親の跡目を継いで、一旦は大名になったのが、讒言されて落ちぶれて、坊主になり、閻魔堂建立を願って活動をしている頑固な老人だ。そういう複雑な人格の合邦を羽左衛門は、本興行の舞台だけでも8回演じている。それと彼の風格は、こういう役柄にぴったりだ(その羽左衛門の舞台は、もう、観ることができない)。それと比べると初役の團十郎の合邦は、スマートすぎ、重層構造が出ていないような気がした。羽左衛門と芝翫の父娘に比較すると、團十郎と菊五郎の父娘は、ひとまわり小さく、私には観えた。
これにおとくの田之助を加えると、今回は田之助だけが、足を地につけていて、團十郎と菊五郎は、足が地に着いていないように見受けられた。そういう視点で、前回の舞台を思い浮かべると、前回のおとくは又五郎であったが、あまり印象に残っていない。羽左衛門と芝翫の陰で、印象が薄れてしまったのかもしれない。今回とは、逆に。まあ、だから、歌舞伎というものは、おもしろいのかも知れない。歌舞伎は、本当に一筋縄ではいかない怪物というわけだ。
ところで、「摂州合邦辻」は、外題も役名も皆地名だという。大阪市天王寺区逢阪下之町、天王寺の西門から逢阪を西へ下ったところにあるコンクリート造りの小さなお堂がいまもあるという。「合邦が辻」の閻魔堂だ。そこから下へおりる小さな石段があるのが合邦が辻で、さらにそこから天王寺公園の方に広い坂を下ると、左側に「玉手水旧跡」の碑があるという。近くの高台には、新清水清光院という寺があり、その北側の坂の下には、「浅香ノ清水」というのがあるという。地名から物語が生まれ、役名も決める。そういう人形浄瑠璃の作者の工夫魂胆が伺える。
だから、舞台下手の、おとくが、やがて、火を入れることになる一本柱の釣灯籠も、それがあるだけで、合邦が辻というロケーションを示すと共に、竹本の出語りの「しんしんたる夜の道」を照らす、ほのかな明かりを実感させることになる。歌舞伎の大道具の使い方の巧妙さを感じる。
さて、この物語は、「狂気」の物語であった。義理の母・玉手御前が、先妻の息子に抱く恋心も狂気なら、父・合邦が玉手御前こと、娘の辻を殺すのも狂気だ。玉手御前は、後妻とは言え、20代の若い女性、原作では、お家騒動が前半の要で、お家大事と、「策略」で邪心ならぬ「邪恋」を企むという設定になっているが、菊五郎は、先に引用したように「真実の恋」説だと言う。もともといろいろ解釈される原作で、そのあたりの問題点は、作者論ともあわせて別途触れるが、さは、さりながら義母から逃げた俊徳丸(新之助)を追って実家へ立ち寄ると、乞食に身を落とした病身の俊徳丸が、合邦に助けられ、妻の浅香姫(菊之助)といっしょに実家に身を隠しているという荒唐無稽さ。
玉手御前は、この場面で「くどき」=「口説き」という女形の長台詞を2度言う。母・おとくへの告白、俊徳丸、浅香姫らへの嫉妬だが、本心を隠しているという二重性のある難しい台詞だ。玉手御前という「母」と辻という「娘」の二重性という「狂気の装い」に対して、父親としての合邦の怒りが、娘を殺すという狂気になり、娘に斬り付ける。その挙げ句の「もどり」で、手負いの身体で本心を明かす玉手御前。確かに難しい演技だ。
折口信夫は、「玉手御前の恋」という文章のなかで、この狂言の原作者菅専助、若竹笛躬のふたりに触れている。長くなるが、引用してみよう。
「口説き」の文句は、文章として読んでしまうと、「何のへんてつもない文句なのである。でも幸福なことに、我々は浄瑠璃の節を聞き知つてゐるので、たゞ読んでも、記憶の中に、ここの『よさ』(同前)が甦つて来る。浄瑠璃の文句は一体に、皆さうだと言へる。(略)何もない所からある節を模索して来る。節づけの面白さは、ここに発現する。(略)類型を辿つて、前の行き方をなぞると言ふ方が、多いのであらう。(略)それと同じ様な事が、浄瑠璃の作者の場合にもある。一体浄瑠璃作者などは、唯ひとり近松は別であるが、あとは誰も彼も、さのみ高い才能を持つた人とは思はれぬのが多い。人がらの事は、一口に言つてはわるいが、教養については、どう見てもありさうでない。(略)さう言ふ連衆が、段々書いてゐる中に、珍しい事件を書き上げ、更に、非常に戯曲的に効果の深い性格を発見して来る。論より証拠、此合邦の作者など、菅専助にしても、若竹笛躬にしても、凡庸きはまる作者で、熟練だけで書いてゐる、何の『とりえ』(同前)もない作者だが、しかもこの浄瑠璃で、玉手御前と言ふ人の性格をこれ程に書いてゐる。前の段のあたりまでは、まだごく平凡な性格しか書けてゐないのに、此段へ来て、俄然として玉手御前の性格が昇つて来る。此は、凡庸の人にでも、文学の魂が憑いて来ると言つたらよいのだらうか。併し事実はさう神秘的に考へる事はない。平凡に言ふと、浄瑠璃作者の戯曲を書く態度は、類型を重ねて行く事であつた。彼等が出来る最正しい態度は、類型の上に類型を積んで行く事であつた。我々から言へば、最いけない態度であると思つてゐる事であるのに、彼等は、昔の人の書いた型の上に、自分達の書くものを、重ねて行つた。それが彼等の文章道に於ける道徳であつた」。
つまり、職人芸で、先達の教えを守り、いわば先達そっくりに手法を守ることが、ときとして、こういう「連鎖と断絶」あるいは「蓄積と飛躍」のような効果を生み出すことを知っているのである。それが、「狂気」を描くことに成功したのだろう。
さらに、折口は書く。「次の人がその類型の上に、その類型に拠つて書くので、たとひ作者がつまらぬ人でも、其類型の上にかさねて行くと、前のものゝ権威を尊重して書く為に新しいものは前のものよりも、一段も二段も上のものになる事が多い」と。必ずしも、類型の上に、類型を重ねれば、良いものができるとは思えないが、ひょんなことから、そういうものが突然変異のように現れる可能性はあるだろう。伝統と創造との関係は、そういうものだろう。
「併し作者が凡庸である場合には、却つて、少しづゝよくなる事もある。玉手御前の場合は、おそらく、それであつたと思はれる」と折口は、推論する。そういう幸福な作品が、「摂州合邦辻」の「合邦庵室の場」であろう。荒唐無稽さ、類型さの「蓄積と飛躍」と言えば、ひとり浄瑠璃ばかりではない、歌舞伎役者の演技も同じだろう。つまり、職人芸の極みとしての、伝承と洗練、それが歌舞伎の歴史の隅々に生き残っている。
この、いわば「狂気」のドラマでは、狂気でない人を探す方が難しい。その数少ない「正気」の登場人物が、合邦の妻であり、辻の母であるおとくであり、俊徳丸の消息を訪ねてやって来た高安家の若党入平(左團次)であろう。ふたりの「正気」の、この場面での役割は、多くの狂気の人たちの、まさに「狂気」を際立たせるということである。
その狂気の極みの果ての、「もどり」というトリック。観客たちは、トリックを知りながら、「騙された振り」をしている。父親に斬り付けられたとは言え、玉手御前は「寅年、寅の月、寅の刻生まれ」の自分の肝臓の生き血を毒を盛ったときの鮑の盃に入れて飲めば、俊徳丸の業病は治癒すると言う。その上で、女形としては珍しい切腹をして息絶える玉手御前。トリックに驚くのは、登場人物ばかり、観客は、優しく「騙された振り」をしている。そういうなれ合いの果ての戯曲が、何回見ても飽きないという歌舞伎の面妖さ。それが、歌舞伎の悪賢い魅力なのだろう。
菊五郎の玉手御前としての「切腹」の場面を観ていると3月の「忠臣蔵」で、菊五郎は、一日に塩冶判官、勘平として2度も切腹をしたのを思い出した。我が身を捨てて他人を助ける。身替わりのトリック(「熊谷陣屋」や「寺子屋」などが、すぐに浮かんで来る)も、浄瑠璃や歌舞伎が、良く使う手法だが、こういう「類型の上塗り」という浄瑠璃や歌舞伎の特性だと主張する折口の文章には、説得力がある。
(2001年、5月・歌舞伎座)
(了)