座席知盛

○ 序 幕

 「見るべき程の事は見つ」。歌舞伎の舞台の幕が開く前、場内のざわめきのなかで、座席に着いた私は、いつも、そう呟く。

 劇場に用意された自分の座席は、ひとつしかない。恰も自分の人生の一日は、体験した一日しかないように。

 劇場では、普通、座席を1等席、2等席、3等席などというように区別する。その区別は、本舞台からの距離、それは空間的な距離もふくめて、決められる。その結果、同じ劇場に入り、同じ舞台を観ながら、座席によって、料金が異なる。そこには、高い料金さえ支払えば、良い座席を確保できるという「思想」がある。だが、人生が高い犠牲を払ったり、大きな投資をしたりすれば、幸福な人生が約束されるかというと、そうとは限らないだろう。それと同じように、劇場の座席も高い料金を払えば、本舞台に近い席や舞台も花道も見通せる、見やすい席という意味なら良い席が確保されることはあっても、必ずしも舞台の本質を観ることができるという意味で良い席を確保できるかというと、そうとは限らないだろう。それは、例えば、地位や金のある人の人生より、方丈の住まいで送る清貧な人生の方に、より幸福感を持つ人がいるようなものだ。

 人生が一筋縄で行かないように、舞台から見て取れるものは、料金で表示される座席の位置とは、必ずしも一致しない。逆に言えば、劇場では、いわゆる良い席も、悪い席もふくめて、どの席でも、見えるものと見えないものがある。3等席や、歌舞伎座に、いまも残っている4階の幕見席のような、いわゆる「天井桟敷」では、花道が見えない、舞台の上を仕切る一文字幕で、舞台上部の奥行きが見えないという物理的に見えない部分はある。しかし、舞台から観えてくるものというのは、また、別の問題だと思う。これは、舞台を観る人の、舞台への知識や意欲的な視線によって違ってくる。例え、同じ席に別の日に座った人でも、そこから観えてくるものは違うことがある。場合によっては、物理的に舞台にはないものが観えてくることがある。要は、どの座席でも、そこで観えるはずのもの、あるいは、そこでしか観えないものをしっかりと観るということだと思う。どの座席でも、観るべきものは必ずある。それは、人生も同じかも知れない。

 「義経千本桜」の「大物浦の場」。

 この場面の平知盛は、通称「碇知盛いかりとももり」。碇の綱を体に巻き付け、岩組から碇を後ろの海のなかに投げ込む。重い碇に繋がる綱に曳かれて、やがて知盛は、岩組の後ろから海のなかへ落ち込む。

 その際、知盛の台詞は、「三途の海の瀬ぶみをせん。[(竹本)碇をとって身構えたり]おさらば」だが、歌舞伎や人形浄瑠璃のもとになっている「平家物語」では、こうである。「新中納言(知盛)『見るべき程の事は見つ、いまは、自害せん』と言うと、知盛は、「鎧二領きて」静かに海に入る。

 動と静のふたりの知盛。歌舞伎の豪快な知盛の最後も見応えがあるが、「平家物語」の、知盛の言葉にも含蓄がある。人生の最後に、こういうことを言って死ねる人は、例え、それが悲劇であっても幸せではなかったか。

 歌舞伎を観るとき、私は、この知盛の言葉を思い出し、きょうも、「碇知盛」ならぬ、「座席知盛ざせきとももり」になろうと思う。

 歌舞伎の場合、ほかの演劇よりも役者を観るという度合いが高い。役者と役柄を表現する演技の力量を見るというのが、歌舞伎観劇の王道なのだろう。しかし、天下には、昔から「王道」に対して「覇道」があるように、ものごとには、別の道があるのを常にしている。私の歌舞伎「観察」は、見巧者の歌舞伎「鑑賞」とは、違う。見巧者が王道を行くのなら、私は進んで覇道を行く。

 「戯場観察(かぶきウオッチング)」という私の方法は、「劇場」としての芝居小屋と「演劇」としての歌舞伎の両方を対象としている。それは、恰も、江戸の庶民が「戯場」という字を書いて、「しばい」と読むことを許容したように、演劇空間としての「小屋」=「場」と空間のなかで演じられる「芝居」=「戯」の、全てを愉しむ方法だと私は思っている。

 いまの歌舞伎の舞台は、横長のデジタルハイビジョンテレビや大型スクリーンの映画のように、様々な情報が埋もれている。舞台とその周辺は、役者、竹本・常磐津・清元・長唄の出囃子、黒御簾の下座音楽、大道具・小道具、鬘、衣装、後見、附打ち、狂言作者、幕内の人たちなど、総掛かりで取り組む総合芸術の表現の場である。その全てが歌舞伎の魅力に繋がっている。

 いまはないが、江戸の芝居小屋を訪れる庶民と同様に、「鼠木戸」を一旦くぐってしまえば、小屋のなかの、どの席に案内されようと、「戯場しばい」を堪能することはできる。それが、私の「戯場観察」なのである。

 私は、こういう幻想を抱く。観劇中の劇場では、多数の座席からの視線とそれぞれの視野に拡がる舞台の幅との間には、恰も、目には見えない多数の「三角形」が形成される。そして、その三角形の中身を濃くするのも、薄くするのも一人ひとりの観客の観察力である。

 視線の三角形、それが交錯する「座席の幾何学」。

 私の「戯場観察」から、座席の違いによる「観察の妙」、座席の幾何学の三態というべきものを、お見せしたい。今日の演目は、以下の通り。

  • 1)「与話情浮名横櫛」のうち「源氏店」
  • 2)「梶原平三誉石切」
  • 3)「二人道成寺」

○ 二幕目 ~4階の幕見席で、立ち見で観た「与話情浮名横櫛」のうち「源氏店」(2000年 10月・歌舞伎座)~

 10月の歌舞伎座・昼の部は、仁左衛門・玉三郎の競演(役者同士なので「共演」というより、「競演」を使いたい)ということで、前売り券が初日の幕開きを前に売り切れたとか。

 「源氏店げんじだな」は、「与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし」が外題で、「源氏店」は、その一幕の場面のタイトル。しかし、「与話情浮名横櫛」で、ほかの場面は、必ずしも演じられる訳ではないが、「源氏店の場」を演じない「与話情浮名横櫛」ありえないだろう。「源氏店の場」だけ演じることも多い。私は5回目の拝見。最初が95年9月の歌舞伎座。与三郎に團十郎、お富に雀右衛門、蝙蝠安に富十郎、多左衛門に吉右衛門、藤八に鶴蔵などといった配役で、このときは「見染(なぜか、「見初め」ではない)」から「赤間別荘」、「源氏店」、「元の伊豆屋」まで上演した。97年2月には、NHKホールで團十郎、雀右衛門(だったと、思う)で「見染」と「源氏店」を見た。与三郎・お富で言えば、梅玉・玉三郎、橋之助・扇雀、そして今回の仁左衛門・玉三郎。

 「見染」は、木更津海岸で、与三郎とお富が初めて出会う場面。与三郎の「羽織落とし」で有名な場面。与三郎が鳶頭金五郎(東蔵)と客席のなかの、昔なら「東の歩み」にあたる通路を歩いているうちに、海岸の背景が移動する。舞台では、竹籠に熊手を持った人たちが潮干狩りをする場面があり、なんとも風情がある。やがて、客席を一廻りして、再び本花道から七三のあたりに与三郎の上半身が来る。客席(と言っても、1階席と2、3階席の一部だが)の視線を仁左衛門と東蔵のふたりに引きつけておいて、舞台は「居処替わり」となる。与三郎の羽織が、このあたりから徐々に肩から巧みにれ始めていて、お富が花道を行き過ぎる頃、両手から自然に落ちるようにする。

「黒山の 向こうに七三ひちさん

           白塗りの 首が与三郎富よさ・とみ 入れ替わり」

「与三郎 お富が演じる 源氏店 幕見で観れば 席は『いろ』のみ」

                    (歌舞伎座・幕見席にて、詠める)

 ハイライト。「源氏店の場」。舞台では、使われない部屋だが、上手、障子の右、外廊下の奥に部屋がある。箪笥の側にシンプルな模様の寝間着のような着物が掛かっている。お富の「寝間」だろうか。お富の独り寝の生活が伺えるが、そこは若い女性の部屋らしい艶めかしさがある。

 舞台下手、蝙蝠安(弥十郎)と一緒にお富を強請騙りに来た与三郎がひとりで、先に室内に入った安から呼ばれるのを待っている。所在なさそうに、ぶらぶらしたあげく、柳の下に佇んでいる。仁左衛門は頬かぶりをしていて、表情が伺えないが、それだけで、木更津海岸にいた「若旦那」与三郎から「強請騙り」という自堕落な生活を送る、すさみを感じさせる与三郎に変わっているのが判る。

 さて、いよいよ与三郎が室内に入る。ここからが、私の「発見」。

題して、「五線譜の恋歌」。

 「源氏店」。その室内には、薄縁(上敷)が敷き詰めてある。木戸を開けて、なかに入った与三郎は、この店の女主人に顔を見られないようにと、背を向けていて、客席から見ると横を向いている。室内に入ったものの、安とお富の芝居には、まだ積極的に加わらない。一芝居終えた番頭・藤八(寿猿)は、上手奥、斜め後ろ向きで、やはり芝居には加わっていない、というより、この場面では事実上「無人(不在)状態」になっている。お富は斜め前向きで、安と芝居をしている。安のみ正面を向いている。それぞれの「向き」の違いが、4階からは、良く判る。この後、芝居が進行するに連れて、それぞれの「居処」と「向き」が変わるのが判る。恰も「向き(角度)の美学」のように。これぞ、「歌舞伎の幾何学」。

 さらに、4階から見ると、上敷の縁取りが全て見える。上敷のなかにある縁の数は、5本。まるで、五線譜だ。居処と向きを変える役者たちの動き(ときには、小道具の移動もこれに加わる)が、実は、この5つの線の上を、「音符」のように、メロディを奏でるように移動するのに、気が付いた。

 例えば、名場面の「イヤサ、お富、久しぶりだなあ」と与三郎が啖呵を切り始めると、安は座敷内、下手奥の5番目の線の上にいて、それまで項垂れて隠れていたようなのが「羅漢台」の観客のように、役者の後ろから舞台を観ている。与三郎とお富は、3番目の線上に居る。与三郎は、この線上を上手に移動して、お富に近づく。

 与三郎が使っていた煙草盆は、下手、1番目の線上に残されたまま。上手、1番目の線上には、以前から蝋燭立てが置いてある。お富の後ろ、奥3番目と、4番目の線の間には座布団が置いてある。舞台奥、真ん中あたり、5番目の線上に衝立と行燈。

 こういう五線譜の動きを促すものが、強請騙りの場面に相応しく、お金。まず、藤八が、はした金を出して、安のレベルで拒否される。次いで、お富が一分銀を出すと、安は引き揚げようとする。だが、与三郎は「手前、それで良けりゃ先へ帰んねぇ」と拒否。やがて、先ほどの名台詞となるのである。

 次に、多左衛門(羽左衛門)が登場すると、まず、お富のいた位置に座布団を持ってこさせて座る。やがて、与三郎と多左衛門の芝居が進むに連れて、与三郎は、下手、1番目の線上で、斜め前を向く。多左衛門は、与三郎と平行するようにやはり斜め前向きで中央、2番目の線上に移動する。お富は、多左衛門の与三郎との交渉を任せたとばかりに、上手、3番目の線上で後ろを向いている。安は、与三郎と多左衛門の間で、多左衛門と同じ2番目の線上に横向き(多左衛門には、背を向けている。芝居には加わらない。与三郎と多左衛門のやりとりには、格が不足しているのだろう。いわば、蚊帳の外という感じ)に座っている。多左衛門を演じる羽左衛門には、さすが風格が感じられる。多左衛門は、結局、与三郎に10数両の金を渡す。与三郎も多左衛門の格には勝てない。与三郎は、1番目の線上に残されていた煙草盆の前で、所在なげに、チェーンスモーカーのように煙草を吸う。気が付いたら、行燈は5番目から4番目の線上に移動していた。

 お富への恋情に未練のある与三郎は、去りがたそうだが、金の交渉の潮目を見抜いた安に促されて、与三郎もしぶしぶ引き揚げる。弥十郎の安は、巧い。ずるがしこい小悪党を過不足無く演じていた。藤八、お富の金の入った「お捻り」を、どさくさに紛れて懐へ入れ、その上、玄関先の多左衛門の履き物の向きを直してから出て行く。

 与三郎らふたりが木戸の外へ出て、花道でゆすり取った金の分け方でもめているとき、源氏店の五線譜の上では・・・。舞台奥、中央から衝立、行燈、後ろ向きのお富、斜め前向きで、俯いている多左衛門が、上手へ向かって斜め、一直線の線上にいる。

 「五線譜の恋歌」、つまり、「源氏店エレジー」の演奏は、これにて終了。

○ 三幕目 ~3階と1階で、別の日に観た「梶原平三誉石切」(2000年 11月・歌舞伎座)~

 顔見世興行だけに、歌舞伎座の正面玄関の上には、櫓が出ている。入り口玄関脇には、大関の積物。すっかり、芝居小屋の正月気分。顔見世ということだから、役者の顔をそろえるのが、大変だろうし、観客の方も、歌舞伎入門という気分で、ご新規の人も少なくないのだろう。従って、昼・夜合わせて七つの演目がみどり狂言興行として準備された。国立劇場の通し狂言興行とは、興行師としてのコンセプトが違う。ただし、幕見席には、先月の仁左衛門・玉三郎見物の熱気はない。

 「梶原平三誉石切かじわらへいぞうほまれのいしきり」は、5回目。

いずれも、違う役者が梶原平三を演じていたので、5人の梶原を論じてみたい。

私が見た梶原は、まず幸四郎、富十郎、吉右衛門、仁左衛門、そして今回が團十郎。

 「石切」の場面には、型が3つあるという。初代吉右衛門型、鴈治郎型、十五代目羽左衛門型。その違いは、石づくりの手水鉢を斬るとき、客席に後ろ姿を見せるのが吉右衛門型で、鴈治郎型は、客席に前を見せるが、場所が鶴ヶ岡八幡ではなく、鎌倉星合寺。羽左衛門型は、六郎太夫と娘の梢のふたりを手水鉢の両側に立たせて、手水鉢の水にふたりの影を映した上で、鉢を斬る場面を前向きで見せた後、ふたつに分かれた手水鉢の間から飛び出してくる。桃太郎のようだと批判された。幸四郎、吉右衛門のふたりは、吉右衛門型であった。富十郎は、鴈治郎型だったが、場所は鶴ヶ岡八幡であった。仁左衛門は、羽左衛門型で、颯爽と飛び出してきた。今回の團十郎は、羽左衛門型だったが、手水鉢の間から「よろよろ」と出てきた。「桃太郎批判」を意識して、変えたのだろうか。これなら、仁左衛門と同じように颯爽と飛び出した方が良かったのではないか。従って、私にとっての「颯爽とした」梶原としては、仁左衛門が1番。吉右衛門が2番、というところか。これより先の、「二つ胴」では、上で仰向けになっている囚人の胴を斬るが、下で俯せになっている六郎太夫については、彼を縛っていた縄だけを斬る。

 ところで、テキストとしての「石切梶原」について、述べたい。梶原平三は、この舞台ではいつもの憎まれ役という役柄と違って、颯爽としているが、実は、刀の目利きを頼まれ、六郎太夫が持ってきた刀が余りの名刀だったので、今回の舞台での憎まれ役の大庭三郎(左團次)や俣野五郎(正之助)を騙して、「二つ胴」を失敗させて見せる。その上で、自分の本心を聞かせ、六郎太夫を安心させて、その後で、手水鉢を斬って見せる。そして、自分でその名刀を手に入れると言うことだから、やはり、一筋縄ではいかない男である。そういう本性の持ち主としての梶原としては、富十郎が1番というところか。

 歌舞伎は、いつも、違った顔を見せてくれる。

 梢は、今回は時蔵で、吉右衛門が梶原のときと2回目の拝見。時蔵は、初々しい梢だけれど、来年時蔵襲名20年になるのに、いつまでも、得意な役をやっていては如何なものかとも思うし、だからといって、先日のような「小栗判官ものがたり」での小栗判官のような仁に合わない役というのもどうかと思う。40歳代後半に入り、真女形として飛躍が望まれる時蔵には、もう少し頑張って欲しいと思う。「停滞気味」の時蔵の役廻りという状況改革をファンとしても望みたい。

 「石切梶原」の、もうひとつの見せ場は、剣菱呑助の「酒づくし」の台詞だが、今回は鶴蔵。これまででは、團蔵、弥十郎の呑助が良かった。特に、弥十郎の呑助は、絶品だったと、いまでも、思っている。鶴蔵は、剽軽な役に味があるので、今回の舞台を楽しみにしていたが、鶴蔵は、ほかの役のときのようには、あまりおもしろくなかった。

 ところで、二つ胴で、生き残った六郎太夫(坂東吉弥)の背中に、偶然、落ちてきた赤い梅の花びらが、一瞬、血のように見えた。

 歌舞伎座の「顔見世興行/昼・夜の部」を通しで、再び拝見。月初めの前回と違う席で拝見したのと、20日間の時間が経っているので、また新たなウオッチングが愉しめた。そこで、「補遺ノート」と題して、簡単に箇条書きで舞台の記録をしておきたい。前回のウオッチングとダブらないように書くので、合わせてお読みいただきたい。

 「石切梶原」では、團十郎の梶原の刀三態を、特に、注意して拝見。

 1)刀の目利き。まず、梶原は、袋から刀の柄の部分を出す。鞘の部分は袋に入れたままで袋を折り返して紐で縛る。その縛り方が整然としていて見事。昔の日本人は、こういう、きちんとした縛り方をしたのだと思う。いまでは、普通の人は、こういう縛り方を忘れてしまったか、学んでいなかったか、ということだろう。

 目利きの場面では、まず、刀を上下逆に持ち、鞘を袋ごと下から上に抜いてゆく。この間、梶原は目を瞑っている。やがて、刀を鞘から抜き終わると、目を開けて、縦にした刀身を下から上にじっくりと見る。次いで、刀身を横にする。今度は、刀身の切っ先から、つまり、刀身の上から下にじっくりと見る。さらに、

再び、刀の切っ先を前に、刀身を縦にして、刀の背から刀身全体をじっくり見る。

 2)「二つ胴」の試し切り。俯せにした六郎太夫の上に、囚人剣菱呑助を重ねて試し切りをするのだが、梶原は腰を落として刀を降り下ろすとき、呑助の身体で刀身を、いわば「バウンド」させるようにする。つまり、刀身を一旦呑助の身体に降り下ろしながら、すぐに持ち上げる。その結果、呑助の胴は、まっぷたつに斬れるが、下の六郎太夫は、後ろ手に縛られていた縄のみが切られて、六郎太夫は、無事で、かすり傷さえないと言うことになる。このふたつの動作には、役者による違いがあるのか、ないのか。次回、別の役者のときに、ウオッチングするのが愉しみ。

 3)石の手水鉢を切る。十五代目羽左衛門型の團十郎の梶原は、手水鉢の向う側に廻り、顔を客席に向けて石の手水鉢を切る。この際、梶原は刀を手水鉢に叩き付けるように降り下ろした。手水鉢を見事まっぷたつに切った後、團十郎の梶原は、手水鉢の間から飛び出して来たものの、山梨県増穂町で観た仁左衛門の3年がかりで続けられていた襲名披露興行の掉尾の舞台(2000年7月)のようには、飛び出し方が颯爽としていなくて、よろよろしていた。「剣も剣」、「斬り手も斬り手」の後、前回同様3階席から「役者も役者」の声が掛かったが、声が小さくて、今回は、ほぼ不発。こちらも「よろよろ」していた。

 さて、この際、梶原が高らかにかざす刀身には、八幡の刻印が刻まれていたのを、一階中央、前から5列目という席のため、私もしっかりウオッチングした。前回は判らなかった。

 本来、この刀は六郎太夫の家に伝わる重代の名刀ということなのだが、何故、そういう銘が入っているか、梶原が目利きをする場所の鶴岡八幡宮の「八幡」なのか。実は、六郎太夫の家が源氏縁りのため「八幡」という銘が刀身に刻まれていて、梶原は、目利きの際に、すでに六郎太夫の正体と刀を売り急ぐ事情を察知したということになっている。「石切梶原」の梶原は、ほかの舞台の梶原と違って、どこまでも「知将」であり続ける。そこで、「知将」梶原への素朴な疑問。

 梶原は、どの時点で、六郎太夫の命を助ける(ということは、自分の目利きが間違っていたことになり、「二つ胴」を失敗することになる)とともに、梶原に目利きを頼んだ大庭三郎らを騙して、この名刀を自分で買い取るという決意をしたのか。

 1)最初、梶原は自分の目利きに自信を持ち、この刀が「八幡」という源氏縁りの銘の入った刀と知りながら、大庭らに刀を買い取るよう薦めている。梶原の本心は、どうなのか。本来なら、源氏縁りの刀を大庭らには、渡したくはないのではないか。そういう表情を役者はどう演じるのか。今回、團十郎の梶原は、どこで「八幡」という銘を認識し、それをどう表そうとしたのか、しなかったのか。今回、私には、その変化が判らなかった。

 また、そういう本心を隠して大庭らに刀を買い取らせようとしたのは何故か。そういう表情を役者はするのかしないのか。團十郎は、どうしたのか。それにもかかわらず、梶原は、いつ、どこで、自分が買い取ると「心変わり」をしたのか。今回なら、團十郎は、どう、それを表現したのか、しなかったのか。私は、それをちゃんと受け止めたのか、見落としたのか。まあ、「荒唐無稽」が、セールスポイントのひとつでもある歌舞伎で、あまり理詰めで精査しようとするのは「邪道」だとは知りながら、それも「知の遊び」と、ご勘弁願いたい。要は、歌舞伎の魅力の幅を拡げたいのだ。

 2)梶原の目利きを信用せず、大庭の弟の俣野や大庭方の大名らが試し切りをそそのかした時点で不愉快になり、せっかくの名刀を、こういう連中に渡すのは、まさに「宝の持ち腐れ」と思い、真に名刀の価値を知る自分が持つべきだと思ったのか。

 3)「二つ胴」の試し切りをする際、囚人がひとりしかいなかったため、大義のために、金が欲しい六郎太夫が自分の命を差し出してでも試し切りをと申し出たことから、六郎太夫を助けるために、梶原は「二つ胴」の試し切りを失敗する風を装った。その結果、大庭らに刀を売ることができなくなった六郎太夫のために、自分で刀を買い取りを申し出たのか。

 だとすれば、六郎太夫の「騙り」を見抜いたと思って、意気揚々と引き上げた大庭らは、実は、梶原の「騙り」の罠に嵌ったことになる。歌舞伎のおもしろさは、まさに、ここにある。如何ようにも、観客の立場で、舞台を深読みすることが可能だし、深読みなどせずに、表面的に、素直に受け止めて舞台を愉しむこともできる。

 もうひとつ。梶原と大庭らのやり取りを聞いていて、六郎太夫と娘の梢は、お家重代の名刀の評価が揺れ動いたり、自分達たちの立場が揺れ動いたりしているのを聞きながら、坂東吉弥の六郎太夫も時蔵の梢も、そういうプロセスでの演技に、なんらの顕著な変化も見せなかったのは、何故だろうか。もう少し自分たちの置かれている状況に対する「不安感」が、にじみ出ても良かったのではないか。

 また、時蔵の演じる梢は、確実に梶原に惚れているし、何度か惚れ直している。それは、観客の梶原に対する気持ち(好感)のバロメーターなのだが、そのあたりの表現として、あの演技で良かったのかどうか。あるいは、團十郎の梶原の梢の気持ちに対する受け止め方が、あれで良かったのかどうか。先の不安感の演技とあわせて、時蔵の梢の気持ちの表現の仕方が上滑りしていなかったかどうか。

 幕になり、終わってみれば、九代目團十郎からは、平家方と源氏方とを両股にかけた「二股武士」と嫌われたはずの梶原は、十二代目團十郎が演じると、「知将」として、さらに穿った見方をすれば、意外とジェームス・ボンドのような確信犯の「スパイ」として、「恰好良く」、敵陣営に残置して、任務をまっとうしてきたような気がしてきたが、如何であろうか。

○ 大詰 ~1階で観た「二人道成寺」(1999年9月・歌舞伎座)~

 「二人道成寺」は、雀右衛門の傘寿の祝いの舞台。息子の芝雀と、白拍子花子・桜子の共演。一人で踊る「娘道成寺」とは、下手で踊る雀右衛門の踊りの手が逆になるわけだから、難しいだろうと思う。この舞台を見た東京のK・Mさんから、良い内容のメールをいただいた。ご本人の了解を得たので、一部を引用する。「見えないもの見ちゃいました」、「もう嗚咽してしまいました」、「『人が生きるということ』を見たのではないかと思います」、「歌舞伎役者は、舞台の上にその身をさらし生涯かけて、『生きるということ』を私たちに示しているような気がします」とある。

 歌舞伎好きのほかの若い人も、同じような感動をしたという。

 私も舞台を拝見しながら、このことを考えてみた。舞台では、まず雀右衛門の孫(息子の友右衛門の二人の子ども)が所化役で出てきて、友右衛門、團蔵、松助、秀調、高麗蔵など本来の所化たちと一緒に雀右衛門こと、「おじいちゃん」の長寿を祝う口上に一役買う場面がある。倒産やリストラで、企業崩壊、サラリーマン崩壊、家庭崩壊、学校崩壊、高校崩壊など、「崩壊」という言葉が新聞などの紙面を賑わしている。30年前の大学解体は、「解体」して再構築するという理屈があった。だが、30年後のいま、先の見えない世紀末のなかで「崩壊」は、社会全体に蔓延しそうな勢いである。若い人たちも、偏差値で縛られる受験体制のなかで自主自律性を無くしている。せっかく大学を出ても、就職の「氷河期」のまっただなか。先行きの不安がつのる。何を頼れば良いのか。見つからない。まさに「不安の時代」だ。

 ところが、歌舞伎の舞台では幼児、父親、祖父が一つの舞台に共演して、400年の伝統芸能を引き継ごうとしている。それも上手の芝雀と下手の雀右衛門の間に、見えない鏡があり、そこに、逆の形で映る二人の踊りは、どちらかが本当であり、どちらかが幻である。鏡のある位置、そこが冥界と現世のみぎわであり、現在につながる過去、未来につながる現在の狭間はざまである。そこに、人類の歴史や生き方の一つのモデルを感じ取ってしまったことが、K・Mさんを泣かせたのではないか、と私は思う。脈々と続いてきた伝統の強さ。年齢を感じさせない雀右衛門の若々しい踊り、表情。「これほどまでに、人はすごいのか」という彼女の言葉になったのではないか。「正しい歌舞伎の見方ではないのかもしれません」と、さらに彼女は書くが、拙著「ゆるりと 江戸へ」の冒頭にも、「歌舞伎は物語のひとつの表現形式である。物語は(略)『物を語る』人の心から生まれ、物語は別の人の心へ行く。(略)何故なにゆえに。江戸庶民の生活感覚を伝えるために・・・・。」と書いたように、私はそれこそ「歌舞伎の正しい見方」だと、常々思ってきた。舞台の本質を見極めるのに、見巧者も初心者もないと思っている。

 だから、K・Mさんにも、そのように返事を出した。しかし、歌舞伎は、長い歴史のなかで幾度も消滅の危機を乗り越えてきたのであって、決して平たんな道を歩んできたわけではないことも事実である。先人たちの絶えまざる努力の蓄積の果て(それが歌舞伎の歴史である)に、いまの現状があるし、将来も安らかな道が続いているわけではないだろう。

 さて、「二人道成寺」では、長唄の出囃子である。四拍子の笛が、演奏をリードしているように思えた部分があった。「手鞠」の振りの部分である。能管と篠笛の吹き分けもよかった。「道成寺」は、大曲なので、注意して聞いていると鼓が先導したり、太鼓が仕切ったり、三味線が主導したり、いろいろな局面があるのが判る。

 雀右衛門と芝雀は顔の形が違うのだが、最近表情が似てきた。裃後見が4人いて、それぞれ男女のペアというのもおもしろい。「二人道成寺」は3度目。扇雀・翫雀(襲名披露)、時蔵・福助で見ている。しかし、鐘に乗った後の、花子・雀右衛門の、「般若のこしらえ」で、「妹背山」の、お三輪のような「疑着ぎちゃくの相」を思わせる、物凄い表情を一瞬だけ見せるというのが、印象的だったのは今回が初めてのような気がする。これまで見落としていただけなのかもしれないが。

 雀右衛門の芸とは「老い」への闘いであるということを見せつけられたような気がした、なかなか見応えのある良い舞台であったと思う。