口 上
「歌舞伎の幾何学」の勧め ――ひと味違う歌舞伎の見方
大きな舞台に華やかな色彩。一九九四年四月歌舞伎座。夜の部は「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋の場」で始まった。私が初めて歌舞伎を見たのは、ざっと二〇年ぐらい前か。知人に誘われて国立劇場の二階席だったが、どんな演目だったか、全く覚えていない。特に感銘も受けず、それ以来一〇数年間歌舞伎と接することはなかった。途中何度か歌舞伎座の招待券をいただいたこともあったが、知り合いに回してしまい自分で見るということはなかった。自分には高尚過ぎると敬遠して、見ようとはしなかったのだ。
それ以来の歌舞伎見物であった。この時の歌舞伎は、いま、歌舞伎座の「初代松本白鸚十三回忌追善四月大歌舞伎」という筋書を見ると松本幸四郎の熊谷直実に中村雀右衛門の相模、故尾上梅幸の源義経、その上、市川新車改め高麗蔵の襲名披露と幸四郎の息子の市川染五郎ら三人の名題昇進披露という大舞台で、「熊谷陣屋」では染五郎が堤軍次役で出ている。襲名披露の「口上」という舞台も当然初めて見た。あとは新歌舞伎の「井伊大老」、最後が「御存鈴ヶ森」の上演であった。義母とふたりで見たのであった。それ以来、ほぼ毎月のように歌舞伎座に通っている。
「歌舞伎」というのは何だろうか。
歌舞伎は荒唐無稽である。
歌舞伎は、何故に、何処から、生まれ、何処へ行くのか。
歌舞伎は物語のひとつの表現形式である。
物語は、伝説であれファンタジーであれ、ドラマであれ、ノンフィクションであれ、「物を語る」人の心から生まれ、物語は別の人の心へ行く。
何故に。……生活感覚を伝えるために。非現実的な物語でも、いや非現実的であるがゆえに、時に真実を伝える。荒唐無稽は「物語」の本質的で、共通性のある性格である。
だとすれば、歌舞伎も、ほかの物語や芸能と同じように人の心から生まれ、別の人の心へ行く。
何故に。江戸庶民の生活感覚を伝えるために……。それも四〇〇年間伝えられ、衆知を集めて洗練されてきた表現方法で。
その方法が荒唐無稽であっても、いっこうに構わないと思う。むしろ「洗練された荒唐無稽」こそ、江戸庶民が幕府の権力に反発しながら歌舞伎を支えてきた生活感覚の原型ではなかったか。それこそが江戸の歌舞伎の魅力である。
しかも、それは、いまも歌舞伎の舞台で見ることができる。
時代物の華やかな錦絵のような華麗な舞台。心が浮き立つような伴奏音楽や竹本、常磐津、清元、長唄などの節回し、役者たちのメリハリのある演技、トンボなど大部屋役者の群舞、廻り舞台や大ゼリなど大道具のダイナミックな動き。
舞台を見ている時、観客としての私たちは何を、あるいは、何処を見れば「歌舞伎を見た」と言えるのか。そういうことが、いま私はいちばん気になって仕方がない。
一度見て、退屈し、一〇数年ぶりに見てから、病み付きになった歌舞伎の魅力。歌舞伎には当初上演された後、全く演じられなくなり何百年も埋もれていたものが、ある日魅力が再発見され、それ以来一〇〇年間も上演され続けるという演目がある。「双蝶々曲輪日記」の「引窓の場」や「盟三五大切」・通称「小萬源五兵衛」などが有名だ。
私の意識の中でも当初退屈に思えたものが、一〇数年埋もれていて「熊谷陣屋」で再認識されたのかもしれない。当初何が見えなかったのか。そして、いま、何が見えるのか。
もちろん、その間に特に歌舞伎に関心を寄せるような勉強をしたわけではない。強いて言えば当初の三〇歳から四〇歳半ばという時の流れと人生の経験があったことぐらいか。
歌舞伎を見るようになって、歌舞伎の本を読み漁るのだが、何せ長い歴史を誇る歌舞伎が相手だけに歌舞伎に関する本は、文字通り「やまほどある」のである。
しかし、一見歌舞伎とは何の関係もなさそうな本の中にも歌舞伎について触れられていることもある。そう思えば私にとって歌舞伎の本の「やま」は、ますます大きく、深くなる。
確かに歌舞伎の見巧者は大勢おられる。その一方で、歌舞伎の初心者はもっと大勢おられる。歌舞伎の歴史は約四〇〇年。多くの役者が歴史を飾ってきた。こうした役者についての役者論、演技論、舞台論は気の遠くなるほど書かれてきた。座付き作者についてもいろいろ書かれてきた。演劇としての歌舞伎はもちろん、芝居小屋(劇場)、大道具、小道具、衣裳、鬘、下座音楽だが、背景音楽・バックグラウンドミュージックではない)などについてもたくさん書かれてきた。四〇〇年の歴史というものは「只者」ではないだろう。さらに、歌舞伎を楽しんできた人たちは何人いるだろう。それこそ、星の数ほどいるだろう。歌舞伎について書かれた書物がどのくらいあるのかも、私は知らない。
歌舞伎を見始めて四年あまりにしかならない私はもちろん、初心者である。見巧者の方はいざしらず、初心者にとって、歌舞伎を見ていて、いろいろ疑問に思うことがたくさんある。ところが歌舞伎を見始めた時に便利に利用させてもらった、いわゆる歌舞伎の入門書では、飽き足らなくなっていることに私はある日気が付いた。歌舞伎の基礎用語、簡単な歴史、歴史に残る名優、当代役者のプロフィールや家系、主な演目の解説など、いずれも最初はおもしろく読ませていただいた。しかし、入門書、概説書では、歌舞伎は判らないことにも気付かされた。
古今東西の歌舞伎の本をできるだけ読む作業(多分死ぬまで読んでもすべてを読むことは無理だろう}は、歌舞伎鑑賞とあわせて私のライフワークにしたいとは思っているが、私の四〇年近い書物一般の乱読による直感で、いわゆる「歌舞伎の本」というグループとは違う「本の山」を崩してみるのもおもしろいと勝手に決めて、私の疑問の痒いところに手が届くような本に、なかなかぶち当たらないなら、いっそのことと、次のようなことを考えてしまったのである。つまり、自分のために、あるいは、私と同じような思いをしている人がいるとすれば、その人のために本を書くことにすればよい。
その私の思いとは、いずれ歌舞伎を観賞することになるが、その前に舞台で「見るべきものは見る」、つまり「観賞」の前提となる「観察」がしっかりしていないと、「観賞」なんて、まだまだおこがましいということだ。しかし、観察するにしても巧い観察の仕方があるだろうと思うが、そういうことの具体的な手ほどきをしてくれる本がない。
「観賞入門書」、つまり、「いろは」の「い」のレベルのような本ならたくさんあるし、いまも出版され続けている。しかし、「い」で満足するのは歌舞伎の知識がまったくない頃だけである。「いろは」の「ろ」や「は」になってくると、そういう本では飽き足らなくなるし、だからといって高度な役者論や演技論、演劇論などは、まだ歯が立たないという人にとってみると、歌舞伎観賞に役立つ本がないという、いわは中だるみのような状態になってしまう。歌舞伎座の金田栄一支配人が、かつて、おもしろいことを書いていた。「ある時、観劇歴も永く、歌舞伎好きで通っている方が『鏡獅子のウシロシテ』といっているのを聞き、『???』と思いましたが、『そうか、ノチジテ(後シテ)か』と気がつきました。」これは、能や狂言(歌舞伎には、能や狂言を元に歌舞伎化したものも多い)を知っていれば「前ジテ」「後ジテ」といって、「中入り」の前と後で主人公が「人」から「霊」などに変わる(役者は同じまま)ことを知っていたかもしれない。だが、日本語では普通「まえ」には「うしろ」というし、「さき」には「あと」・「のち」というから、「前」ジテなら「うしろ」ジテと言ってしまうかもしれないし、「後」ジテなら「さき」ジテと言ってしまうかもしれない。しかし、歌舞伎や能・狂言など伝統芸術は、言い習わした言葉が残っている以上それが正解なのだが、こうしたことは必ずしも「入門書」には書いていない。しかし、歌舞伎に限らずものごとを始めた時には、初期の段階で間違ったままでいると、そのまま間違ったことに気付かずに過ごしてしまうことは往々にしてありがちなことだ。
そういう歌舞伎ファンにとって、一種の空白状況を早めに埋めてみようと思い、この本を書いてみたいと思った。いきなり「観賞」ではなく「観察」の積み重ねが、本当の「鑑賞」に通じるのではないか。
そのために、この本では、私の問題意識として、次の三つのことにこだわることにした。
歌舞伎の中の「江戸」を「観察」するために「幾何学」を使う。
(一)「江戸」と言うのは日本が近代化路線(それはいくつかの戦争を挟んで、いまも続いている)をとる前の時代であり、近代化路線が、いわば「江戸」を否定して始まったわけだが、その近代化路線は、いまいろいろな問題を抱えて苦慮している。いま江戸を再評価する動きが江戸ブームという形で表れている。江戸をタイムカプセルに入れたまま、劇的空間を作っているのが歌舞伎ではないか。まず、江戸の原型に近い形を歌舞伎の舞台に探すことは、多くの人にも関心があるのではないか。
(二)「観察」することが、やがて「観賞」から、さらに「鑑賞」することにつながる。
(三)「記号論」としての歌舞伎論は、渡辺保『歌舞伎 過剰なる記号の森』という名著がすでにあるので、私流の「幾何学」を使って、巧い「観察」ができないか。
ある時、歌舞伎座の二階席で歌舞伎を見た幕間(休憩時間)に二階ロビーのギャラリーで個展が開かれているのに気が付いた。「役者が描いた役者絵」というようなタイトルが付けられていた。それまでにも役者絵というものを見たことがなかったわけではないし、ある時など私が座った席の隣で役者の姿をスケッチされている方を見かけたことがある。役者の一瞬の動きを見事なタッチで描かれていたと思う。名のある方だったのか、趣味で描いている方だったのかは判らない。銀座の古書店で役者絵の色紙を拝見したこともある。その個展の主が中村時枝だった。時枝の絵は古書店や座席の隣の観客が描いていた役者絵とは大きく違っていた。大部屋の役者たちの群像であったり、舞台裏で出を控えている役者の姿であったり、舞台の役者絵と言えども、観客席からでは絶対に見えないアングルで描かれていた。その時枝は八〇歳近い(絵を描いた当時七〇歳すぎ)ということが個展の会場に掲示された略歴で判った。舞台の役者絵の中に中村歌右衛門の「助六由縁江戸桜」の傾城「揚巻」が縁台に座っている後ろ姿を描いたものがあった。歌右衛門は八〇歳(当時七〇歳半ば)を越えているし描き手の時枝も老人であるわけだし、などと思うとこの絵が欲しくなった。
その個展は会期が終われば作品も販売することになっていた。会場には絵を希望する人は歌舞伎座の受け付けに申し込むようにと注意書きがあった。
受け付けで聞いてみると、私のようなサラリーマンが簡単に買えるような値段ではなかった。でも「一期一会(絵)」の洒落ではないが、金額を超えて惹かれるものがあり、思い切って買うことにした。歌舞伎座の人にひとつだけ条件を申し出た。「私が時枝さんご本人に会いたいと言っていることを伝言してください」ということであった。ご本人が「嫌だ」と言われたらそれまでと思っていたところ、しばらくして時枝本人から私の自宅に電話がかかってきた。「会ってもよい」と言うことであった。
時枝は渋谷の私の職場まで会いにきてくださった。私が報道機関の人間だということでたくさんの資料や絵(小振りの色紙に描いた役者絵の数々)をバッグにつめて、バスに乗ってこられたと言うことであった。職場の喫茶コーナーで一時間あまりお話を伺った。幼いこどもの頃、母親に連れられてよく歌舞伎を見に行ったこと。一時、伊東深水に師事し、日本画の絵師になったこと。歌舞伎の評論家・川尻清潭に勧められて、五〇年以上前に先々代の中村時蔵(三代目)の弟子になったこと。以来、ずうっと
大部屋の役者で来たこと。途中で名題試験を受けるように勧められたことがあったが、名題役者になるとそれまでのように舞台裏や舞台の袖で絵を描くことができにくくなることが試験を受けなかった理由だということだった。
確かに下手など舞台の袖から表舞台の役者をスケッチする時枝の絵は、客席からは見えないアングルで描かれていた。
「これは、もうひとつの歌舞伎なのではないか」その時、私はそう思った。観客から見えない「もうひとつの歌舞伎」を時枝は見ているのではないか。そう言えば「もうひとつの歌舞伎を見ている」時枝のような人たちはたくさんいるのではないか。舞台で役者衆の世話をする「後見」や「黒衣」の人たち、舞台上手や舞台の後方で竹本、常磐津、清元、長唄など伴奏音楽を担当する人たち、舞台下手の黒御簾のなかで「下座音楽」を演奏する人たち、舞台の袖で隠れて見ている役者たちなど。
いや、客席だって座席の場所によって舞台や花道のうち、見えるものと見えないものがあるのではないか。同じ日の同じ舞台を見たといっても見る席によって、味わえる歌舞伎の味は異なるのではないか。ところが、見巧者とも言うべき歌舞伎評を書く人たちの文章を読んでいると、まるで神様のように、あるいは全体小説の作者のように、すべてが見えることを前提にして批評を書いているのではないかと思う。時枝の作品を見ていて印象に残り、さらに私のその後の歌舞伎観察にとって、ひとつのこだわりになったのはこのことだった。
こうした話を聞きながら私は、たくさんの作品や時枝の絵が表紙になった戦前の雑誌、「女形役者絵師」時枝のことを特集した雑誌など見せていただいた。「三階さん」(楽屋が三階にあることからこう呼ばれた)と呼ばれる大部屋の役者たちの群像とも言える、さまざまな姿を描いた作品が印象に残った。
時枝は「大部屋の仲間の役者たちの姿を描き残したい」と情熱を込めて語ってくれた。そして、「死ぬまでに作品集を出版したいので、尽力してもらえないか」と私に熱心に訴えた。絵画集ともなれば印刷にかなりの金をかけなければならないだろう。それだけに、ある程度の部数の売れ行きが見込めるなど、採算が合わなければ出版社は絵画集の刊行に二の足を踏むだろう。これはむずかしいなと正直に思った。ただ、時枝の熱意だけはきちっと受けとめておこうと決意した(かって、時枝は東京新聞社から作品集を出したことがあるが、この時、時枝は何故かそれを私には言わなかった)。
話を伺った後、私は時枝を送って渋谷のバス停まで一緒に歩いた。バスに乗った時枝を見送りながら、時枝が一〇年以上前に亡くなった私の父親の年令に極めて近いことに気付いた。なにか、この老優のためにできないか。緩やかな坂道を下って行くバスの後窓のガラスが夏の強い日差しを受けて、きらりと光った(その後、時枝は九九年一月久々の個展を東京・松屋銀座のギャラリーで開催した)。
その年、九六年九月、歌舞伎座で「摂州合邦辻」の「合邦庵室の場」で中村芝翫の「玉手御前」を見た。この時は、西の桟敷席と花道の間の、縦に細長い座席群の後で、花道の横の席であった。
花道の両脇に埋め込まれたライトに明かりが点いた。「さあ芝翫が出てくるぞ」私は後を振り向いた。近くの席の誰もまだ後を振り向いたりなどしていない。「鳥屋」と呼ばれる花道へ出るための溜り部屋の揚幕がサッと開かれた。鳥屋にいる、いわば花道への出を待つ芝翫の姿が目に入ったばかりではない。すっかり玉手御前になりきっている、異様な表情の芝翫と視線が合ってしまった。その異様な表情に負けた私は一瞬目をそらしてしまったが、役になりきっている芝翫はそろそろと近付いてくる。若い継母で継嗣の俊徳丸と恋仲になっているという異常な人間関係が展開するドラマの始まりである。玉手御前の芝翫は虚ろな足取りで花道を左右にヨロヨロしながら私のすぐ横を通り過ぎ、本舞台に近付いて行く。その横顔から、足取りも覚束ない後ろ姿へと変わって行く芝翫の動きを目で追いながら、鳥屋の中の芝翫の「演技」を、歌舞伎座にいるいったい何人の観客が見ることができたのだろうと思った。一階の一等席にいたって、ほとんどの観客には見えない演技であっただろう。本舞台での芝翫の演技も良かったが、鳥屋の中という小さな空間で見た芝翫の演技が強烈に印象に残った舞台だった。
芝翫の玉手御前は、実はこの時が初演であった。これについて芝翫自身は、次のように述べている。
「これも(玉手御前-注)祖父の五代目歌右衛門が得意とした役で、詳しいやり方も残されています。歌舞伎座での上演時には、なるべく忠実に祖父のやり方をなぞり、その上で、見ている方に分かりいいようにと自分の工夫を加味しました。『深々たる夜の道……』という竹本で玉手は花道を実家に向かってとぼとぼと歩いてきます。成駒屋型では引きちぎった片袖を頭巾代わりに被ります。俊徳丸が実家に匿われていると予想はしているものの、確証はない。本当にいるのか、いないのか、まま子に恋をしかけている自分を生まじめな父親はきっと怒っているだろう。玉手はそんなさまざまな煩悶を胸中に抱えて歩いています。だから後ろ姿には気をつかいました」(注は引用者)中村芝翫、聞き書き・小玉祥子『芝翫芸模様』)こうした芝翫の言葉を、舞台を見てからしばらくして私は読んだわけだが、初演ながらこれだけの思いを私に伝えていた芝翫の凄さを改めて感じた。
この時、私は舞台裏や袖という、観客が幾らお金を出しても得られない場所=視座で多くの役者たちを五〇年間も見続け、描き続けてきた時枝の「至福の時の繋がり」を想像せずにはいられなかった。
時枝と言えば、九七年九月の歌舞伎座の「隅田川続俤」・通称「法界坊」では、逆の体験をした。法界坊に扮した中村吉右衛門を先頭に講中(定期的に神仏にお参りに行く団体のこと)の連中が花道から出てくる。時枝は講中のひとり「よね」を演じていたと思う。「と思う」というのは歌舞伎座の筋書に載っている配役一覧に、そう載っているからだ。この時、私は二階の花道の上の前から三番目の席にいた。しかし、いわゆる花道七三で演技をした法界坊と講中の何人かを見ただけで「よね」を見ることはできなかった。法界坊以外の講中の連中は花道に出ただけで、再び鳥屋の中へ戻ってしまったからだ。時枝を知ってから、彼の舞台は配役に載っているかぎり必ず探すようにしていたのだ。これについて時枝からの便りには、こう書いてある。「大勢のお客の中に一人でも注目して下さる方の有る事を喜んで居ます」
つまり、歌舞伎という大きな舞台では、鳥屋の中の芝翫と言い、花道のはずれでの時枝と言い、大名題役者だろうと、大部屋役者だろうと、役者が役になりきって演技をしていても、劇場にいる全ての観客が役者の演技の一部始終を見ることは不可能なのだ。二階の奥、三階、四階となればなおさらそうなるだろう。先ほどの本の中で芝翫はこう言っている。
「『まず芝居をたくさん見なさい。(略)ノートに取らないでじっくり見なさい。同じ舞台でも歌右衛門のおじさん、梅幸兄さん、雀右衛門さんのものと全部見て、それを覚えなさい。どんな役がきても大丈夫な役者になりなさい』それを福助は確実に実行しました。客席から見る。黒御簾で見る。舞台の横から見る。同じ舞台でもいろいろな場所から見る」息子・福助への助言だが、役者が先輩たちの演技をいろいろなところで見なければ学べないように、観客が座席から見えるものには限度があるのだ。
九七年一〇月の歌舞伎座「加賀見山旧錦絵」を見た時のことである。この演目は九四年九月の歌舞伎座でも見ている。しかし、前回気が付かなかったことに、気付いたことがある。第三幕・第一場「長局、尾上部屋の場」である。第二幕の有名な「奥殿草履打の場」で「局・岩藤」にいじめられた「中老・尾上」が、自分の部屋に帰って来る。屋体(家をかたどった大道具)の部屋の中央に襖がある。この襖の紙の色が銀色なのである。第二幕の奥殿の襖は金色であった。当初尾上部屋の襖が銀色の意味が判らなかった。その銀色の襖の前に、大きな衣桁がある。ここに仕掛けがあった。尾上は「召使・お初」に手伝わせて裲襠(婦人の礼服)を部屋着に着替えるのだが、脱いだ裲襠を、お初が大きな衣桁に掛ける。すると銀色の襖が赤く染まるのだ。最初は気が付かなかった。尾上とお初のやりとりに気を取られていたが、しばらくして襖が一部赤くなっていることに気付いたのだ。先に言ったようにこの場面を見るのは二度目である。だから、舞台の次の展開を私は知っている。「何時の間に襖を、あたかも血潮を浴びせたように赤くしたのか」、「次に展開する尾上の悲劇(自害)を暗示する歌舞伎の仕掛けの一種が何時の間にか仕掛けられたのに、気付かなかったのか」などと思ったが、そのうち、裲襠の内側が赤かったことに気付いた。普通の台本を見ても、そのような指示は書かれていないが、この舞台の美術は、「長谷川勘兵衛」だから筋を知っている観客の心理まで計算に入れて衣桁の向こうにある襖を「鏡」のように銀色にしたのかもしれない。しかも、この銀色の襖に映る裲襠の内側の赤い色の反映、それが銀色の襖に描かれた薄の葉や穂とマッチして、何とも印象的なのだ。そして、さらに気が付いたのは、この襖に映る赤の効果を見ることができるのは舞台正面の真ん中の座席の線から上手に一〇番ぐらい横に移動した座席でないと見えないのではないかということだった。私はこの時、一階の「よ7番」の席に座っていたので、よく見えた。この後、舞台は尾上に親宛ての手紙を文箱に入れて持って行くよう、用を言い付けられてお初が外出させられるが、本舞台が廻って、次の場面。第二場「塀外烏啼の場」で文箱の封が切れて中の手紙を見てしまい、お初はあわてて尾上の館に戻る。第三場で再び舞台が廻って尾上の部屋に戻るのだが、第一場では立ったまま舞台と一緒に廻った尾上は、今度は倒れたまま舞台と一緒に廻って戻って来る。その際、注意して見ていたのだが屋体正面の襖を真正面で見ても襖に映る裲襠の内側の赤い色の反映は見えない。舞台がしばらく廻って行かないと赤は見えてこない。何故このような些末なことにこだわるのかと思われるかもしれない。座席によって、舞台の見えるものと見えないものがあり、また、それに気付く人と気付かない人がいるということだ。いや、私が言いたいのは、例え東西の桟敷席や一階の一等席などの最高の席にいたとしても、次々に展開する歌舞伎の舞台を、この場面は何処を見るかという明確な意識がないかぎり、見るべきものを見逃したりしてしまうのではないかということだ。この銀色の襖に映る赤い色も場面展開を知り、見るべきものを見る工夫(座席を取る場所も含む)をしていれば、見ることができるが、そうしていなければ見ることができないということだろう。逆に言えば、どんな席にいても、何処を見るかが判っていれば、見るべきところを見ることができるのではないかということだ。どんなよい席にいても、そういう知識がなければ見るべきものも見ることができないということになるかもしれない。
歌舞伎は劇場で座る座席の場所によって、舞台の、何を、何処を見ようと心がけると、ひと味違って見えてくるのではないか、ということだ。逆に言えば、三階とか四階でしか見えない歌舞伎というものもあるのではないか。例えば、廻り舞台は上から見たほうが良く判るし、「絵面の見得」(出演者全員が一枚の絵になるような幕切れの演技の「きまり」方)など、それ自体が幾何学模様(三角形など)の場面は三階の上、四階の全体が見える席の方が見易い。歌舞伎は、その座席(点)から見るべきものを見れば、それで良いのではないか。
普通の歌舞伎入門書では、そういうことを教えてくれない。これは歌舞伎の見方としては損ではないか。見巧者の人たちも、今更という感じでそういうことを教えてくれないのではないか。この論考を当初「歌舞伎『座』の幾何学」(後に「座」だけではなく、歌舞伎全体を「幾何学」で見てみようということで「歌舞伎の幾何学」に変えた)と題して書き始めたのは、歌舞伎を見る劇場の座席に座って、きょうのこの席ではほかと違って何が見えるのか、あるいは何処を意識して見るとほかと違ったものが見えるのか、そういうことをあらかじめ知っておくと、「ちょっと得する歌舞伎見物になるぞ」という思いがあるからである。その私なりの方法論を「幾何学」を援用してやってみようと思った。
十一段目
「形」としての歌舞伎 ――様式美とリアリテイ
「コミさん」こと田中小実昌といえば作家で映画評論家として知られている。
飄々とした風格そのものが文体となっている田中小実昌の文学が大好きな私の所には、ダンボール二箱分のコミさんの本がある。コミさんの作品世界と言えば、生まれた呉(広島県)時代の話、「進駐軍」、あるいは「駐留軍」(要するにいまの在日米軍に日本が占領されていたころの呼称)の臨時雇いのような形で働いていた頃の話(これも呉とか横田とかの時代がある)、ストリップ劇場で幕間のコメディで舞台に出ていた頃の、踊り子との交流などの話、路線バスに乗ってフラフラと街を移動する話(これは、国内編と海外編がある)、さらにいまも熱心に通っている映画の試写会の話などに分かれると思う。そうしたさまざまな「コミさんワールド」に東大の哲学科中退で、いまも持ち歩く本の中には哲学書が多いという「哲学好き」という調味料が加わって、何とも言えない独特の味を醸し出すのである。
私も、ここ数年機会があって代休の日に映画の試写会を覗くことが多かったので、よく会場でコミさんの姿を見かけた。毛糸の丸い帽子に、夏なら半ズボン姿で、使い込まれたカバンを肩に掛けている、あのコミさん。愛読者というものは、意外とシャイなもので、何か切っ掛けでもないと声を掛けられるものではない。何度か声を掛けようとしながら、実現できずにいたが、ある時コミさんの新著『バンプダンプ』が発売された直後に、たまたま試写会でご一緒になったので、思い切って声を掛けて少し話をした。『バンプダンプ』という本が縦長の少し変形の本であること、最近は、小説などを書いてもなかなか本にならないんだよね、などとおっしゃった。そして『バンプダンプ』に署名をお願いしたら、何か書きましょうということで、お名前のほかに識語として「うしろから おされて」と書いてくださった。ところが、この「うしろから おされて」は、実は一九年前の七九年度上半期の直木賞(ちなみに受賞作は「浪曲師朝日丸の話」、「ミミのこと」)を取られた時に、書店で私が買い求めた署名本に書いてあった識語と同じだったのだ。
直木賞の時は、本人が意図していないにもかかわらず、後から押されるようにして、賞を受賞してしまったという感じが出ていて、おもしろいと思ったものだが、その後『ポロポロ』で谷崎賞を取ったりして、田中小実昌文学も評価が定着したと言えるのに、何年経っても、同じ識語を書くというコミさん。私は、呆れないとは言わないが、それ以上に、この飄々として老人(失礼、でもコミさんもとうに七〇歳は越えているが、印象はここ何十年と全然変わらないのだから、これも凄い人だと思う)の足元の確かさを感じてしまう。
そういえば、「うしろからおされ」続けたせいか、コミさんは前から見ると以前とほとんど変わらず老いを感じさせないが、試写会の後、先を歩くコミさんの最近の後姿に老いを感じるようになったのは、たぶんコミさんが、普通の人より後ろ姿を使いすぎたのかもしれない。
しかし、よく考えてみれば「コミさんワールド」には、歌舞伎で言う「形」(「型」、「仁」などの様式)のうち、「仁」(=役柄にふさわしい「らしさ」)があり、それが「うしろから おされて」という持味なのではないかと思ったのだ。「家の芸」や「型」も、先祖や先輩から押されて(過去の伝統という、いわば「うしろ」から押されて)いることにならないだろうか。
歌舞伎では、女形が立役より舞台の前に出ることは、原則としてないのである。ただひとつの例外が遊女の役だと言う。封建時代に生まれた歌舞伎は封建時代の様々な約束事をいまも残している。歌舞伎では「売り物買い物」の遊女だから舞台でも前に出すと言うのだ。封建的なことだが、否、価値観を超えて昔をそのまま残しているからこそ歌舞伎の劇場に一歩足を踏み入れると、「封建時代」という江戸時代に安心してタイムスリップできるのだ。しかし、女形が普通は立役より舞台の後に居るというのは、役者が全員男ばかりという歌舞伎の特性から、同じ男同志でも立役より少しでも本物の女性らしく、小さく見せたいという演出意図が根底にはあるのだと私は思う。その証拠に立役が座る時には、黒衣が役者の後に回って「合引」を役者の尻の下に入れて、座った立役の姿がそばに座っている女形より大きく見えるようにしているではないか。前の方で触れた歌舞伎役者絵師の中村時枝は「戦後、本当の日本女性は歌舞伎の舞台の中にしか居なくなった」というが、これが時枝一流のアフォリズムだとしても、男たちだけの劇団でリアルに女性を表現するということは、畢竟、「歌舞伎とは何なのだ」という演劇としての原点となる根源的な問い、つまり、約束事という幻想とリアリテイという客観性という根源的な矛盾の共存という問いを含んでいると思う。
おそらく初期の歌舞伎では、そうした役者のさまざまな個性(人品とか演技の持味など)がそれぞれ工夫され、伝えられ、長い歴史の過程で洗練されていく中で、仁とか型とか家の芸とかの概念が明確になって、歌舞伎の演劇としての特性が作り上げられてきたのではないか。
少し横道にそれたようだが、ここでは、そういう歌舞伎の「形」について、考えてみたい。
歌舞伎の「形」、つまり「様式美」には、大きなものでは二つあると思う。ひとつは「役者と演技」である。もうひとつは「装置」である。
まず、「演技」では、役者の本来の持味ともいうべき「仁」、役者の家代々に伝えられてきた演技の「型」(「家の芸」、芸の工夫の体系)、それに役者の技量ともいうべき「肚」の三つが揃わないと演技の様式美は完成しない。
四〇〇年間の歌舞伎の歴史の中で舞台に登場した人物は大勢いるが、それにもかかわらず、その多数の登場人物を分類すると一枚の表に納まってしまうと言う(渡辺保『歌舞伎』)。
これは、どういうことかと言うと「赤姫」に象徴されるように、姫君は誰でも皆赤い衣装を着ている。歌舞伎には登場人物の個性よりも、人間の原型の類型化の方が大事だという考え方がある。そういう考え方がすべての役柄について、貫かれているのが、歌舞伎の人間の本質的なとらえ方なのである。だから、大勢の登場人物も、類型化の表に納まってしまうのである。女形以外の立役、敵役、道化役などでも同じである。渡辺によれば、それは「ガラ(役柄)」と「ニン(仁)」で、分類が決まると言う。役柄は役者の身体的な特徴を規制する。背が高くて太った人は女形には向かない。背が低くて痩せていれば荒事には向かない。つまり、役者はまず「ガラ」で規制される。しかし「仁」は「潜在的後天的な可能性の身体」(渡辺)のことだと言う。だから、役者が努力して芸風で、身体の持味としての「仁」を作り上げることができると言う。
歌舞伎役者の名跡を継ぐ家系では、子供たちは幼い頃から舞台に馴染まされる。将来立役に向きそうだとか、女形に向きそうだとか、何も判らないうちから修業が始まる。親や先輩の役者たちは、どういう所で、子供たちの将来の向き不向きを判断するのかと言えば、まずは、ここで言う「ガラ」だろう。
九八年三月二七日に東京のホテルで「松尾芸能賞」の授賞式があった。今回で一九回という授賞式で「大賞」を受けたのは、中村雀右衛門であった。六代目大谷友右衛門の長男に生まれ、幼い頃から将来の立役を目指して育てられ、名子役として好評な子供時代を過ごしながら、戦争で兵隊に行き、戦後二七歳で女形に転身を勧められ、いわば「遅れてきた女形」として再スタートし、「仁」の形成に苦労に苦労を重ね、いまや立女形として歌舞伎を代表する女形になった七八歳の雀右衛門。
戦後、歌舞伎界に女形が少なくなり、歌舞伎の存立さえ危ぶまれた状況で、岳父となった七代目松本幸四郎に勧められた女形への道。結局、いまからみれば、七代目には雀右衛門の「仁」を見抜く力があったということだろう。
雀右衛門は受賞のインタビューの中で「数年前から心で女形になりきってもダメだということが判った。言葉ではうまく表現できないけれど、心の奥にある何かを演じきらないと、本当の演技にはならない」という趣旨の発言をしていた。『女形無限』の中でも雀右衛門が強調しているのは、幼い頃から女形になるよう修業してきた名跡の家系の普通の役者と二七歳で突然女形に転身した自分とでは、女形の修業が二〇年遅れているという強烈な意識であった。「歌舞伎の女形ですから、型があって、それは先輩が一から十まで教えてくださいます。しかし、その下敷きになっている女形の芸があって、その上に型が乗るわけですが、わたくしには土台となるべースがありませんでした」
「体当たりの芝居をすると、自然に女になってしまいます。それで、若いころはよく『女優みたいだ』というお叱りを受けたのだと思います」と言うことを、繰り返し書いている。いわば「遅れてきた女形」としての劣等感が雀右衛門の演技を一所懸命にしてしまい、それが逆に「女形」から「女優」へと、歌舞伎の「型」から遠ざかる結果を生み出してしまうと雀右衛門は言うのである。そういう意識と努力が、試行錯誤を経て、今日の雀右衛門の芸を完成させたと私は思う。
このように歌舞伎の女形はデフォルメされた役柄であって、舞台の大きさや大道具、衣装もすべて「男」向けにできているから、いくら「女らしく」演じても、女優が透けて見えては歌舞伎にならないわけである。
玉三郎は、歌舞伎の実力派の女形の中では、比較的若いし、顔も綺麗なのだが、私の個人的な意見では、若さと美貌という「女優」なら強力な武器も、こと歌舞伎に関するかぎり、場合によって武器どころか足枷になりかねないと思う。歌右衛門、雀右衛門、芝翫、鴈治郎あたりが、現在の立女形だろうが、それぞれ女形としての決め手となる役柄を持っている。遅れてきた歌舞伎ファンとしては健康が勝れない歌右衛門の舞台は、「孤城落月」の「淀の方」、「建礼門院」、「井伊大老」の「お静の方」しか拝見できず、女形の大役の数々をこなされた舞台をビデオでしか見ることができないのは誠に残念である。雀右衛門は、ここ四年間あまりの歌舞伎座の舞台はほとんど拝見できた。姫君や傾城役も良いが、「一本刀土俵入」の「お蔦」は、雀右衛門が女形として突き抜けたものを手に入れたと感じて私には印象的である。芝翫は、大きな、えらのはった顔、胴長など典型的な女形役者に資質に恵まれている上、丁寧な芸風で、いつも楽しみにしている。「お初」、「雲絶間姫」など一味違った初々しさやユーモアのある性格に深みのある役柄の時が、特に良かった。鴈治郎も、大きな顔、胴長など典型的な女形役者で、その上、目の色気では、このクラスではいちばんではないかと思う。さて、玉三郎だが、綺麗なだけの姫君などの役柄より、傾城、遊女の役がいまのところいちばん「仁」にあっていると私は思う。九八年三月の歌舞伎座の「忠臣蔵」では、大序などの「顔世御前」より七段目の「遊女・お軽」の方が、良かった。特に二階から梯子を使って降りてくる場面で、お軽「船に乗ったようで恐いわいなア」由良之助「道理で船玉様が見ゆるワ」お軽「エゝ、覗かんすな」と、由良之助(幸四郎)とやりあう所で、由良之助を睨んだ時の目の色気の凄まじさは最高であった。先にも触れたが九七年一〇月歌舞伎座の「神田祭」の芸者の時は鳶頭(片岡孝夫、いまの仁左衛門)とは、本当の恋仲のようであった(この時も花道の引っ込みで鳶頭を気遣う風情が、目の色気も含めて何とも言えなかった。渡辺保は、その著『歌舞伎』の中で「道行が女の目、袖、心が問題」と言っているが、そうだとすれば、この時の花道の引っ込みは「短い道行」のようにさえ私には感じられる)。九七年六月歌舞伎座の昼の部「時雨西行」の「江口の君」(西行法師は中村梅玉)も裸足の遊女に色気があった。この時の夜の部は「かさね」(与右衛門は孝夫)であった。九七年三月歌舞伎座の「籠釣瓶花街酔醒」の傾城・八ツ橋の花道での微笑み顔。このところ、歌右衛門の芸の後継者として、「先代萩」の「政岡」(九五年一〇月歌舞伎座)、「加賀見山」(九七年一〇月歌舞伎座)の「尾上」などに挑んでいて、いずれは「仁」の範囲を拡げて行くかもしれないが、九八年一月歌舞伎座の「熊谷陣屋」の「藤の方」は、ただ「型」をなぞっているような気がしたし、九六年六月歌舞伎座の「楊貴妃」は、綺麗なだけという感じであった。このように(私と違う見方の人もいると思うが)役者の「仁」は、同じ役者でも役柄によって「仁」に合ったり、合わなかったりして違ってくるから難しい。
例えば、こういう「仁」は、「人」、「人柄」とも書くように人間の場合はまだ判りやすいが、「千本桜」の狐・忠信(源九郎狐)のように動物の格好をしたまま主役を演じることが多い役柄の場合の「仁」(つまり、動物としての「ニン」)は、どういう風に考えれば良いのだろうか。狐・忠信は九五年五月の菊五郎、九六年一二月、九八年七月の猿之助と、いずれも歌舞伎座で見た。狐といえば普通ならスリムな体型が思い浮かぶが、二人ともがっちりした体格であるから、本来は「ガラ」としては不向きなのかもしれないが、「ニン」としては、そういう違和感を感じなかった。特に猿之助は「外連」も含めて得意芸にしていて「千本桜」の「忠信編」は「猿之助十八番」として、通し上演をする。確かに狐・忠信は最後にちょっとだけ出てくる本物の「佐藤忠信」と「忠信実は源九郎狐」の両面を演じるわけだから「仁」としては忠信で良いのかもしれない。動物の化身もの、例えば「芦屋道満大内鑑」・通称「葛の葉子別れ」の白狐・葛の葉姫などは、「仁」はやはり姫であり、母であろう。つまり、歌舞伎の場合、馬の脚など、ぬいぐるみを着たままで舞台を終えてしまう役は別として、主役を張る動物は「化身」が多いわけだから、動物とは言え、「化身」の「仁」で考えたほうが良いと言うことだろうか。なかなか難しい。
一方、演技の「型」は、「忠臣蔵」の早野勘平に四つの型があるように、先祖や先輩の役者の演技の工夫が伝えられてきている。勘平役で言えば、「菊五郎型」、「團蔵型」、「鴈治郎型」、「延若型」である。例えば切腹する勘平の有名な「色に耽ったばっかりに」という台詞は本来の台本にはないもので、三代目菊五郎発案の「入れ事」(本文にない文句を挿入すること)であった。いまでは、あらゆる役者が使っている。「忠臣蔵」の定九郎と言えば初代中村仲蔵がいまのような浪人ものの衣装を考案するまでは違っていた。いまでは、もともとの型で定九郎をやる人はいない。前に述べたように「熊谷陣屋」の直実では二つの型がある。「幸四郎型」、「芝翫型」である。演技、衣装、幕切れの在り方、音楽など「型」は先人たちのさまざまな工夫の蓄積である。こうした「型の伝承」を「家の芸」として、名跡役者の家系では、大事にしてきた。「歌舞伎十八番」の演目は、市川團十郎の「家の芸」である。こうした型はそれぞれの家の芸風として、名跡に生まれた子供たちは幼い頃から、疑問に思うことなく、身体で取得させられる。
「型」の集成とも言うべき「家の芸」には、次のようなものがある。
「歌舞伎十八番」(七代目團十郎) | 「勧進帳」、「鳴神」、「助六」、「矢の根」、「毛抜」、「暫」、「景清」、など。 |
「新歌舞伎十八番」(九代目團十郎) | 「鏡獅子」、「船弁慶」、「紅葉狩」、「地震加藤」、「腰越状」、「酒井の太鼓」、「高時」「釣狐」、「素襖落」など。 |
「新古演劇十種」(六代目菊五郎) | 「土蜘」、「茨木」、「戻橋」、「身替座禅」、「羽衣」など。 |
この他「杏花戯曲十種」(二代目左團次)、「玩辞楼十二曲」(初代鴈治郎)、「淀君集」(五代目歌右衛門)、「可江集」(十五代目羽左衛門)、「片岡十二集」(十一代目仁左衛門)、「高賀十種」(七代目宗十郎)、「秀山十種」(初代吉右衛門)、「猿翁十種」、「澤潟十種」、「猿之助十八番」(いずれも三代目猿之助)
老舗の名品のように多種多様である。それぞれの括りの中には、互いに重複するものがある。例えば「釣狐」は「新歌舞伎十八番」、「澤潟十種」に含まれる。
「肚」は、役者の技量ともいうべきものであり、役者によって「心」(先の雀右衛門は、これを強調していた)、「性根」(気持ち、内面的な本質)とか、表現しているものも、歌舞伎の台本にある「思い入れ」も、要するに同じものであろう。
「思い入れ」というのは、昔の台本(「台帳」と言った)には狂言作者が書き入れた「○印」で、表現されていた。ある場面での役者の心理状態を示す演技のことを「思い入れ」と言う。
以上の三つの要素を整理してみると、次のようになるのではないか。
「ある役柄」のリアリティ=「仁」十「型(先人の演技の工夫)」十「肚(気持ち)」→表現の「様式美」
江戸時代の歌舞伎は、自然光や蝋燭の明かりという薄暗さの中で、厚化粧をした役者が身体全体の表現として、ある役柄のリアリティを出すために、(1)身体の特徴による役柄の規制、(2)役柄ごとの表現の工夫の蓄積、(3)気持ちの演技、こういう工夫を重ねてきたものの結晶が、表現の「様式美」として洗練されてきたのだと思う。さらに言えば「様式美」にまで洗練された歌舞伎の演技の「連鎖」(伝統の蓄積)とでも、言えるかもしれない。
こうした表現の様式美を、劇場全体でささえているのが、装置の様式美ではないか。
私は、まだ京・大阪で上方歌舞伎は見たことがないが、上方と江戸では芸風も違えば、道具も違うと言う。歌舞伎の台本を見ていると、例えば「仮名手本忠臣蔵」では「いつものところに門口」とか「よきところに誂えの松の木」、「すべて〇〇〇の体」、「門の前のよきあたりに○○」、「○○よろしく」などとしか書いていない。
様式を重視する歌舞伎では、長い歴史の中で洗練されてきた装置の様式美が、言わずもがなになっていて、細かなことをいちいち言わなくても判るようになっている。逆に言えば、上方は上方で判るようになっていて、江戸は江戸で判るようになっているから、両方の役者が一緒になると、混乱したと言うが、最近では本来上方出身の役者も東京住まいがふえているからそういうことも少なくなったかもしれない。
一般の演劇では舞台は、それだけで舞台だが、歌舞伎の場合、平舞台と二重舞台の二重構造になっているのが特徴だろう。世話物の場合、「世話木戸」(いわば玄関)が置かれ、平舞台に薄べりが敷かれると、そこは座敷になる。世話木戸の下手は道路だけれど、上手は家の中なのである。その奥の座敷は二重の上で、同じ家で床の高さに高低差があるのは変だろうが、客席の観客から見れば、役者の動きが立体的に変化しておもしろいものだ。さらに、この世話木戸も次の展開で不要なら、木戸も薄べりも黒衣などによって、さっさと取り片付けられて、庭になってしまう。約束事と言ってしまえばそれまでだが、装置の約束事は、決まったところに決まったものがあったり、なかったりということで、舞台での役者の演技の安定感を引き出すのではないか。
先にも触れたが、装置、大道具で気が付く決まり事では、例えば二重舞台は高さが「七寸」刻みの四角形からできていることだ。それは二重に役者が上がる時に使う階段が、実は一段が「七寸」で、演技しながら上ったり、下りたりする時にちょうど良い高さが「七寸」なのだ。長い試行錯誤の末に、体験的に決められてきた大道具の約束事の安定感とそれが生み出す様式美。
いずれにせよ演技や装置の、こうした様式美は、「形」にこだわる歌舞伎の原点のひとつなのではないか。様式美とは、四〇〇年の歴史の中で、磨かれ、削ぎ落とされてきた歌舞伎の持つセンスであり、このセンスが結局は観客の側の共感というリアリティの獲得を担保してくれるということを、知りぬいているということではないだろうか。
大 詰
歌舞伎の「世界」 ――クローズアップ効果
歌舞伎というものを、「江戸」、「ウオッチング」、「幾何学」という三つの視点で見てきた私の、この本も無事「大詰」を迎えることができた。
「大詰」という言葉は、本来江戸歌舞伎では、一番目、時代物の最終幕のことを言い、二番目、世話物の最終幕は「大切」と呼んだ。しかし、幕末になって、この原則が崩れてからは、すべての最終幕を、「大詰」と呼ぶようになったと言う。「大切」はいまでは寄席などの言葉として残っているが、日常的には、ものごとの最終段階を示す用語として「大詰」が定着している。ところで、時代物の最初の部分を示す言葉は、この本の構成にも使ったが「大序」と言う。「大序」で始まって、「大詰」で終わるというのも何だか変な気がするが、歌舞伎では、こういう風に使うことになっていると言われればそれまでだ。なお、いまでは歌舞伎で単に「大序」と言えば、「忠臣蔵」の最初を意味することが多い。
こうして見てくると、この本を書き始めた一年半前には、私には見えなかった「歌舞伎の世界」が私の前に広がっていることに気付く。
(一)それは、歌舞伎が江戸時代には技術的に不可能だった、一〇〇年ほど前に発明された映画が初めて可能にしたような役者を「クローズアップ」して見せるということを、比較的早くから演出の基本のひとつにしようとしたと言うことだ。
(二)もうひとつ気が付いたのは舞台を始め、劇場と言う劇的な空間を「立体」として強調すること(これは表現を変えれば大道具を「クローズアップ」して見せると言っても良いかもしれない)に、非常にこだわった芸能だったのではないかと言うことである。
何故、歌舞伎の演出の基本が「クローズアップ」かを、これまで述べてきたことを私なりに整理してみたい。
まず、(一)私が歌舞伎の演出の中で「クローズアップ」と思うのは、役者の演技する(1)位置、(2)顔、(3)姿、(4)動作、の四つである。
(1) 位置のクローズアップ
歌舞伎役者は花道を出入りすることで、観客から見れば、役者が大きく見えたり、小さく見えたりする。花道は能の「橋掛り」から発展したと言う説があるが、橋掛りにはなくて花道にだけあるのは、花道は客席の中を、例え歩くだけの演技だとしても、役者にとっては、いわば「無防備」な形で劇的空間を作らなければならないと言うことだ。つまり、舞台なら背景があり、上手下手があるのだが、花道にはなにもない。足元に花道の板(「地」)があるだけで、天、左右、前後にはなにもなく、ただ役者の体があるばかりである。橋掛りには少なくとも板羽目の背景があり、左右には本舞台と出入口があり、観客は横にいるだけである。ところが歌舞伎の役者は「六法」(六方向)のうちの五方向から観客に見られている。例え江戸時代の劇場には自然光や蝋燭の光しか照明がなかったとしても、観客から見れば、花道では役者が「クローズアップ」されるように、大きくはっきり見えるのである。つまり、ごまかしがきかない。歌舞伎の演出では、花道を発達させることによって役者をそういう困難な状況に追い込むことで役者の芸の洗練を促したと思う。すでに触れたように、本舞台と違って、なにもない花道は、なにもないと言うことで逆に役者と観客の想像力の中で、街道になったり、川や海になったり、土手になったり、御殿や屋敷の廊下や座敷になったり、街になったり、此岸から彼岸を結ぶ観念の道になったりするのである。花道の役者は、観客の視線の傍で「見える演技をする」、観客の想像力の中で「見えないものを見えるようにする」ことが迫られる。
こういう困難な状況は、演出者の「思惑どおり」花道の芸を生み出した。「六法」がもっとも典型だろうが、もっと「普通の」、しかし歌舞伎独特の「歩き方」(戸板康二『わが歌舞伎』では、「歩く芸」として独立させている)は、戸板によれば「『歩く芸』が歌舞伎の演技の中で一つ流れを有つために、……少なくとも、花道といふ、舞台以外の舞台がなければ、これほど『歩く芸』はよき発達を見る事がなかったのではあるまいか」と言う。さらに花道は「出端の芸」、「引っ込みの芸」も生み出した。
これは四角い本舞台だけで演技する、いわゆる「額縁演劇」では、創出不可能な劇的世界と言える。
そういう芸が、歌舞伎独特のものとして発展したのは全て、五方向から注がれる観客の視線の中で、クローズアップされた演技を見せなければいけないと言う、花道独特の役者の「位置」が生み出した劇的空間なのである。
(2) 顔のクローズアップ
これは、時として役者の顔に施される「隈取」や顔の表情を強調し、静止して見せる「見得」である。「隈取」のところでも述べたが、隈の色は、本来なら顔の皮膚の下に隠れていて見えない筈の、血管や筋肉を化粧という形で皮膚の上に固定させて、グロテスクさを強調しながら、役柄の感情や表情を「クローズアップ」させてみせる技法である。
「見得」は、服部幸雄『歌舞伎のキーワード』によれば、「演劇的時間の流れに一種の間を作り出すことである」と言う。渡辺保『歌舞伎』によれば、「静止したポーズをとって役者がおのが姿を観客に印象づけるためであり、その瞬間役者は一人の人間であるよりも、一枚の絵になる」とある。写楽が描いた「大首」の役者絵は「見得」のポーズをとっているものが多いが、それは絵になりやすいからであり、クローズアップされた役者の表情が、舞台を離れた後で見ても印象深いからである。戸板康二『わが歌舞伎』では「見得」を二つに分けている。ひとつは顔の表情の見得としての「にらむ」演技であり、もうひとつは「動作中の或る瞬間的な姿態を特に意味づけて観客に印象させる演技」であると言う。
確かに「見得」が「隈取」と違うのは、「隈取」が顔だけのクローズアップなのに対して「見得」は顔も含めた身体全体のクローズアップ効果を狙っているという点である。
よく役者の芸談を読んでいると「見得をきる」というのは誤りで、見得は「する」、「きめる」ものだとあるが、戸板によれば「きる」は「限る」と言うことではないかと述べている。「限る」とは「輪郭を際立たせる」と言うことではないかと言うのである。
舞台で役者が行なう見得は、場合によって、「かげを打つ」、つまり柝の音が添えられたり、ツケ板の音が添えられたり、「引抜き」や「ぶっ返り」で見得の前に変えられた衣装を後見が広げてみせる、俗に言う「大見得」のポーズをしたりするが、これはまさしく「見得」の「輪郭を際立たせる」とともに「大きく見せる」、つまりクローズアップ効果をさらに高めようとする演出であろう。
(3) 姿のクローズアップ
見てきたように「見得」も役者の顔ばかりでなく姿のクローズアップだが、歌舞伎には姿をクローズアップするために、「遠見」と言う演出をする。ここで言う「遠見」はすでに述べた「面」としての「遠見」ではなく、もうひとつの「遠見」のことである。
舞台の奥行を出すために、遠くに見える人間の姿を子役にやらせる、あの「遠見」である。それならクローズアップではなくて、「ズームアウト」ではないかと言われるかもしれない。例えば「一谷嫩軍記」の「須磨浦組討の場」では、馬に乗った敦盛が舞台上手から姿を消した後、海の「遠見」に平家一門を乗せた遠くて小さい御座船があり、三段の「浪手摺りより二重の上に、子役、遠見の敦盛、後向きに出て歩み行く」と台本にあるように敦盛役者は大人から子供に替わる。花道には敦盛を追い掛けてきた直実。「オゝイオゝイ……」と海の中の敦盛に声を掛ける。「敵に後を見せ給うか。引き返して勝負あれ」この後、直実も舞台上手から姿を消すとすぐに「手摺りへ子役の遠見出る」となる。「ほにほろ」という馬に乗った子役の敦盛、直実の戦いが竹本の名文句「朝日に輝く剣の稲妻、駈けよせちょうちょうちょう、蝶の羽返し諸鐙……」に乗って、ひとしきりあった後、「イデヤ、組まん」、「げに尤も」で組みあうと「両馬が間にどうと落つ。トこれにて、浪幕をふり落とす」で場面が替わる。敦盛の馬だけが浪幕の前を通り、花道の向こうへ入ると浪幕が切って落とされると組みあった見得のまま「大人」の敦盛、直実がせり上がってくる。つまり、二人がクローズアップされてきたわけである。
このように子役の「遠見」を使って役者の姿のクローズアップ効果(ズームイン、ズームアウト)を狙う演目としては、ほかに「新口村」の「梅川・忠兵衛」や「逆櫓」の「樋口と船頭」が知られている。
歌舞伎では舞台に複数の役者がいる時に台詞のやりとりのない場面で、役者が後を向いて静止している時がある。私はこれも一種のクローズアップ効果を狙った演出だと思う。つまり、舞台にいる役者のうち、観客に注目してほしい役者を際立たせるために、その場面では、いわば「不要な」役者への観客の関心を無くそうという狙いがある。そうすることによって台詞をやりとりしている役者だけを注目させようとする。いまと違って江戸時代の照明の乏しい舞台で主要なやりとりを強調するために、こうした演出方法をとったのではないかと思う。余談だが、津本陽『死生夢のごとし』という本を読んでいたら次のようた文章に出会った。(中間は殿様が庭に出てくると)「平伏してあいさつするかというと、しない。後ろ向きになってしゃがむ。背を向けるのは、存在しないという表現である。御目見以下、御目見得以上という殿様の顔を見てもいい人といけない人、そのまた上に、口をきいてもいい人といけない人という差別がある」(太字は引用者)と書いてあった。封建時代の差別的習慣と歌舞伎の、いまに残る演出との類似が、私には興味深く感じられた。
つまり、クローズアップ効果を狙った演出は、私が主張する観客の視線と台詞をやりとりする役者で作る「三角形」を強調することに、ほかならないのである。
(4) 動作のクローズアップ
これは、すでに述べた姿のクローズアップと似ているように見えるが、実は違う。ここで私が注目したいのは、「三階さん」とか「稲荷町」とか呼ばれる「大部屋役者」のことである。「三階さん」と呼ばれるのは、楽屋の大部屋が三階にあるからだし、「稲荷町」と言うのは芝居の守護神として楽屋に祀ってある稲荷大明神の傍に大部屋(一階)があったからだ。楽屋で行なわれる二月の初午の行事、稲荷祭は彼らが取り仕切る(「夜想EX(2)『歌舞伎はともだち 三階さん』」というおもしろい本がある。現役の三階さんが大勢登場する)。
ちなみに「中二階」は女形のこと。江戸時代の劇場は二階建しか許されなかったので、実際の三階は表向き「本二階」と呼ばれ、二階は「中二階」と呼ばれた。一階は頭取、狂言作者、囃子方、大道具方、小道具方、衣装方、「稲荷町」の大部屋などの部屋。二階は女形の部屋、いちばん奥に立女形の部屋(個室)、次いで二枚目女形の部屋(個室)があった。そのほかの女形の大部屋(これを「中二階」と称し、名題下の女形に意味を限定して、こう呼ぶこともある)。三階は立役の部屋、いちばん突き当たりの座頭役者の部屋から序列で立役の部屋(いずれも個室)が続く。そして名題下の立役のいる大部屋(ここの立役を「三階さん」と呼んだ)で、この大部屋は舞台稽古以外の稽古をする場所も兼た。「稲荷町」は下立役。「仕出し」をしたり、「馬の脚」をしたり、舞台や楽屋の雑用もする。大部屋役者でも新入りなど、その他大勢という意味がある。
ところで「名題」には三つ意味がある。(1)演目名のこと、「外題」とも言う。江戸は名題、上方は外題。(2)名題看板の略。大名題看板とそのほか個々の名題看板がある。(3)名題乗りの役者の略。大名題看板に舞台姿が描かれる役者のこと。いまも名題試験に受かった役者を名題役者と言い、そのほかを名題下役者と言う。歌舞伎座の筋書に載っている役者の写真も大名題(幹部)、名題、名題下で大きさが違っている。
なお「楽屋」は、もともと舞楽の「管方」(演奏者)の演奏場所兼支度部屋「楽之屋」が語源と言う。
女形絵師・中村時枝が好んで群像を描く彼の仲間たちが活躍するのが、男の乱舞とも言うべき「トンボ」を含んだ集団演技。大名題の役者を中心に大部屋役者がからむ演技だが、これの見せ場は、主役よりも「三階さん」たちの息を飲むようなダイナミックな連続演技だろう。「新薄雪物語」(九六年六月歌舞伎座)や「蘭平物狂」(九五年一一月歌舞伎座)の立ち回りは、歌舞伎の魅力のひとつと言える。特に「新薄雪物語」は大きな配役が多く、主要な役者が出揃わないとなかなか上演できないだけに、上演される時には、主要な役者と共にそれぞれの弟子が舞台に集まるので、こうした「三階さん」による奴の乱舞も、人数が多いだけに、かなり見応えがある。ただなかなか配役が揃わないので上演回数が少ないのが残念である。
九八年五月の歌舞伎座恒例の「團菊祭」(九代目團十郎と五代目菊五郎を顕彰したので「だん」と「きく」、「だんぎく」とは読まない)の初日の前々日に舞台稽古を拝見した。九八年二月に亡くなった三代目河原崎権十郎の追悼狂言として演じられた「野晒悟助」では、悟助に敵対する提婆仁三郎の子分として、大部屋の人たちが一八人参加している。悟助が尾上菊五郎で、仁三郎は坂東三津五郎という配役で、子分には坂東一門の三平、八一、八弥など、「馬盗人」の馬の脚や「奴道成寺」の後見で演技が光った役者の姿も見られた。
二幕目・返しの「四天王寺山門の場」では、傘を巧みに使った立ち回りがいろいろ見られるが、舞台稽古でも実際の上演時間の二倍ぐらいの時間をかけて念入りに続けられたのは、その場面であった。揃いの音羽屋の傘と菊五郎格子の浴衣を着た一八人を相手に悟助(菊五郎)が天王寺普請小屋という修理中の山門の足場に乗ったり、降りたりしながら大立ち回りを演じるのだが、菊五郎との絡みは簡単に済んだ後、一八人の立ち回りは菊五郎を除いて、タテ師の指導を受けながら、傘を持ったままの「トンボ(筋斗)」という「宙返り」の演技をしたり、一〇本の傘を幾何学模様にして見せたりする稽古が何回も繰り返されていた。そして、私は実際の舞台を千秋楽の前日、つまり、稽古の日から、まる二五日後に拝見したが、実に見事な立ち回りで一連の動きが短い時間でスムーズに演じられていた。
その彼らが舞台に登場する時は「板付き」の「仕出し」だったり、「四天」と呼ばれる着物の裾が両脇で切れ目が入っている衣装(「伊達四天」、「鱗四天」、「梵字四天」、「安土四天」、「八つがわり四天」、「花四天」、「白四天」、「黒四天」、「赤四天」、「忍び四天」、「鼠四天」など役柄によってさまざまな衣装があるが、基本的なデザインは同じなのですぐ判る)を着て、捕り手や軍兵などに扮することが多いので役柄を指す名称としても「四天」は使われる(寺にある仏法守護の持国天、増長天、広目天、多聞天などの「四天王」は「し」だが、歌舞伎の方はインド風の四天王の衣装を真似たと言われるにもかかわらず、読みの方は「し」(=死)を嫌って「よ」と読むとのこと)。
主役級が着る「馬簾」という金、銀、紅、白などの房糸がついた豪華な衣装の「四天」もある。通称「千本桜」の「伏見稲荷鳥居前の場」の狐・忠信の着る源氏車の模様を付けた赤地縮緬の四天、同じ「千本桜」の「渡海屋奥座敷の場」の相模五郎(「水入り」という水に入ったり、乱戦の様子を表したりする時に付けるざんばら髪の鬘に金具の髑髏を付けた鉢巻きを締めている)、通称「妹背山」の「三笠山御殿の場」の金輪五郎、「本朝廿四孝」の「十種香」の原小文次が、それぞれ「馬簾」を着ていた。
「四天」が活躍する演目としては通称「蘭平物狂」の花四天の立ち回り、「京鹿子娘道成寺」で後ジテの蛇体と絡む鱗四天、通称「寺子屋」、通称「弁天小僧」の捕り手の黒四天、「道行・落人」や「道行・吉野山(または「道行初音旅」)などでお軽・勘平や静御前・忠信を阻む花四天などは、いまも舞台で比較的良く見かける。
「吉野山」では早見(あるいは逸見)藤太に引きつられて花道に登場する一〇人の「花四天」たちは最初桜の小枝を持っているが、本舞台で忠信相手に立ち回りをする時は、桜の小枝を組み合わせた大きな槍先にデフォルメされた槍を持って登場する。
「四天」たちは、よく「トンボ」返りという演技をする。主役に大勢の四天が絡む立ち回りは歌舞伎の魅力のひとつだが、下座音楽の「ドンタッポ」などに乗って、かどかど(節目)ではツケが打たれ、切られたり投げ飛ばされたりした者が体を一回転させる。「三徳」、「後返り」、「返り越し」、「返りっぱなし」、「返り立ち」、「返り込み」などがあると言う。このうちトンボを返った後、両足をVの字に開いたまま暫らく静止するのをよく見かけるが、いつも印象に残る。
実は私はこれも一種のクローズアップ効果だと考えている。つまり、立ち回りという活劇で、劇画なら空中で足を大きく開いたまま投げ飛ばされる様子をよく描いているが、昔の歌舞伎の演出でも、そういう効果を出そうとして、「トンボのV」を考えだしたのではないかと思う。何時頃から始まった演技か判らないが、これはまさに映画の演出方法ではないか。映画なら映像を止めてクローズアップさせることができるが、映像ではない歌舞伎の舞台で、こういう演技を考えだした人たちがいたことが素晴らしいと思う。
いくつか見てきた歌舞伎のクローズアップ効果を狙った演出は、江戸時代に技術的に不可能だった「映像効果」と同じものを観客の想像力に託する形で狙った、素晴らしい発想であり、それに応えていろいろ工夫をした役者や関係者のたゆまざる努力が実らせた歴史の果実だと言えるだろう。それだけに私は、こうした発想は歌舞伎の基本的な性格を示していて、重要なことだと思っている。
次に、(二)歌舞伎の舞台の原点としての「立体」志向も、大道具のクローズアップ効果としての「劇的空間づくり」の飽く無き工夫と言えるのではないか。
歌舞伎の舞台で大道具の屋体がそのまま、短時間のうちにせり上がるのは見ているだけで楽しい。次の場面への展開の様子をそのまま観客に見せるという演出は素晴らしい。
立体的に作られた屋体を瞬時に替えてしまうというのは、「廻り舞台」という装置も含めて歌舞伎独特のものである。「廻り舞台」もぐるりと廻る時に屋体の立体感をジックリ見せ付ける。
「がんどう返し」の「がんどう」と言うのは「龕灯提灯」のことである。龕灯提灯は前だけを照らす提灯なので、背景だけを後に九〇度、つまり直角に倒すことで大道具を替えて、次の場面への場面展開をする演出を、こう呼んだのだろう。
「廻り舞台」が横に大道具を動かすなら、「がんどう返し」は縦に大道具を動かす。これを「箱天神」と言うのは、非常に興味深い。「箱」と言う言葉には「立体」を強調する意味があるからである。「屋体崩し」は逆に大道具を一瞬のうちに崩してみせるが、こちらも立体的な積み木を崩すイメージがある。
立体的なものは、本来、平面的なものと違って組み立てる必要がある。組み立てる、あるいは組まれていたものを崩すということは、手間が掛かるはずである。それが、一瞬のうちに組上がってきたり、崩されたりすることは「居処替り」という舞台の展開を早くするばかりでなく、次の場面への観客の関心をいち早く引き付けようとすることである。
つまり、それは「見得」で役者の演技の「輸郭を際立たせる」とともに「大きく見せる」クローズアップ効果を狙ったように、大道具を縦や横に「鷹揚に」、ゆっくり動かしながら、短時間で替える様を見せることは、大道具の「大きさ」を観客に見せ付けることになる。歌舞伎の演出には小道具のところで触れたように、徳利や杯などを平気で大きなものに替えてしまう演出もある。舞台の役者や大道具は、途中で大きなものに替える訳にはいかないから化粧や演技で大きく見せたり、廻り舞台や居処替りで大道具を大きく見せたりするのではないか。それは江戸時代の薄暗い、いまのように明かりを自由に操作できないという「制約」の中で、必要に迫られて生み出された演出法なのかもしれない。しかし、それは役者として女性の登場を制限され、さらに若者の登場を制限され、「野郎歌舞伎」として成年男子による「女形」を生み出してきたように、クローズアップ効果を狙った演技や大道具の使い方は、映像にない「制約」を逆手にとって、工夫を重ねて四〇〇年も生き残ってきた歌舞伎の面目躍如たる特性として、特筆されて良いと思う。
そこには、歌舞伎の舞台を、近代演劇の多くが、いまも続けているように本舞台だけの四角い「額縁」のような平板な「小さな劇的空間」にとどめずに、劇場全体を立体感のある「大きな劇的空間」として、捉え直そうする、明確な意志を何時からか、持つようになったのではないだろうか。
わずか数年の観劇歴では「鑑賞」はまだ早い、暫らくは「観察」だということで「ウオッチング」に撤しているが、毎月歌舞伎座に通い、「双眼鏡」による観察を続けてきた結果が、「歌舞伎の世界」の基本的な性格(役者の演技、小道具、大道具などの演出)に「クローズアップ効果」があるのではないかということに到達したことは、私にはとても興味深い。
さて、私なりの結論。
歌舞伎「観察」の魅力は、江戸の庶民の間で培われた「荒唐無稽さ」(江戸庶民の生活感覚)のさまざまなバリエーションの「大から小まで」を、つまり雪のひとひらから小道具、役者の衣裳、演技、大道具、舞台機構までという劇的空間のすべてを、「幾何学」的手法を借りて双眼鏡のレンズを通じて追加体験することである。
それは明治維新以降いまも続く「近代化路線」の中で、ざっと一〇〇年間以上も「前近代的」、「封建的」という形で切り捨てられたままになっているが、江戸の庶民が権力に対抗して歌舞伎を守ってきた感覚は、近代的なものが行き詰まってきた現代にあって、例えばエネルギー観や自然観を「アイヌ民族」など世界の先住民族から学ぼうという視点と同じように、江戸庶民の杜会観や生活観=「ゆるり」とした生活感覚に象徴されると私は思う=を学ぼうということは大切なことではないだろうか。それはあたかも並木宗輔の「引窓」が一五〇年間埋もれたままであったものを再発見されて以来、一〇〇年以上も上演され続けているように、歌舞伎の舞台に盛り込まれた江戸庶民の生活感覚はしぶといものなのである。歌舞伎の舞台にはいまも、そういう荒唐無稽な魔物が潜んでいるのではないか。
歌舞伎では、役者も「家の芸」や「型」を大事にすることで、それぞれに伝えられてきた江戸の感覚を残そうとしてきたし、衣装や大道具・小道具まで、江戸の復元に努めてきた。歌舞伎の舞台は、いわば「活きた江戸庶民の生活の場」へのタイムスリップを可能にする世界なのだ。それは、舞台の隅から隅まで「ずいーと」細かくウオッチングすることで、私達、観客の目の前に浮かび上がってくる「別世界の魅惑」なのである。
それでは皆さん!「ゆるりと江戸へ(双方見合って、析の頭)ご一緒に」
トこの模様、騒ぎ唄にて、
幕。